首吊り兎④
そこは、迷宮の「中心」だった。
新宿副都心の中でも最も高く、そして最も病的なビル。
外壁が見えないほど無数のロープが巻き付き、まるで巨大な繭のようになっているその建物へ、最上とアリスは足を踏み入れた。
「うわぁ。めちゃくちゃ」
アリスが楽しげに呟く。
エントランスを抜けた先、アトリウムの空間構造は完全に破綻していた。
エッシャーの騙し絵の如く、階段が天井に向かって伸び、廊下が垂直に交差している。
上下左右のパラダイムが消失した空間。
重力は区画ごとにデタラメに働き、天井を歩く「影」たちのスカートやネクタイが、あべこべの方向へ垂れ下がっている。
「……吐き気がするな」
最上は三半規管を襲う眩暈を、精神的なタフネスだけでねじ伏せた。
靴底の感触を頼りに、壁面――いや、今の彼にとっては床となっている側面を走る。
チャキ、と金属音が響く。
最上は走りながら『ヴォーパル・カリキュラス』のシリンダーを確認した。
装填されているのは、道中で回収した三発の〈論理断片〉。
(最大装填数六発に対し、現在三発。……半分だ)
〈積分砲撃〉を放つには、弾丸が足りない。
だが、これ以上探索に時間を割けば、ジリ貧になるのは目に見えていた。
二人は、ビルの大動脈と思しき長い通路へと出た。
そこは、壁一面が金融街のような電光掲示板で埋め尽くされた回廊だった。
本来なら株価やニュースが流れるはずのLED画面に、意味不明な文字列が高速で流れている。
『死にたくない』『誰か見て』『私はここにいる』
〈首吊り兎〉の元となった人間の、承認欲求と恐怖の残滓だ。
その時だった。
ザザザッ! と激しいノイズが走り、すべての掲示板の文字が、赤一色に塗り替えられた。
『急げ』
『ゆりかご崩壊まで、あと120秒』
『新宿消失』
『仕事をしろ、能無し』
無機質なデジタルフォントの羅列。
だが、その文面には明確な〝意志〟と、聞き覚えのある冷徹な響きが宿っていた。
「……天村か」
最上は忌々しげに舌打ちをした。
現実世界からの通信が、この精神世界にあるオブジェクトへ干渉し、視覚情報として変換されているのだ。
あの上司は、部下の夢の中にまで命令を出してくるらしい。
「あはは! 眼鏡のおじさんが怒ってるよ! 『あとひゃくにじゅうびょう』だって!」
重力無視で宙を泳ぐアリスが、掲示板を指差して笑う。
「ねえ梁人。百二十秒過ぎたらどうなるの? ここ、消えちゃう?」
「ああ。現実の肉体が原子レベルで分解されれば、俺たちの意識も帰る場所を失う。……永遠にこのクソ溜めに閉じ込められるってわけだ」
最上は足を止めず、加速した。
慎重な索敵はここまでだ。
なりふり構っている時間はない。
「アリス、先行しろ! 一番『深い』場所へ案内しろ!」
「りょーかい! ジェットコースターみたいにしてあげる!」
アリスが空中で一回転し、通路の奥へ向かって矢のように直進する。
最上もまた、全速力でその後を追った。
行く手を阻むように、通路の壁から無数の「白い腕」が生え、巨大な兎の耳のような触手が襲いかかってくる。
だが、最上は止まらない。
「邪魔だッ!」
躊躇なく引き金を引く。
一発目。
『ヴォーパル・カリキュラス』から放たれた幾何学的な平面波が、迫りくる触手の群れを豆腐のように切断し、道を抉じ開ける。
(残り二発。……足りない分は、核から奪い取る!)
掲示板のカウントダウンが、無慈悲に減っていく。
『残り 110』
『残り 109』
赤く染まる電脳回廊を、黒いスーツの死神と白い幽霊が駆け抜ける。
目指すは最上階――あるいは最下層。
この狂った時計仕掛けの迷宮の、心臓部だ。




