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レッドタイズ-新東京府公安委員会-  作者: ガリアンデル
Phase:1
2/8

首吊り兎②

 落下感。



 臓腑が浮き上がるような浮遊感の直後、唐突に重力が戻ってくる。



 最上梁人は、ぬるりとした感触の地面に片膝をついて着地した。



 腐敗した土と、錆びた鉄の臭いが鼻腔をつく。



 ヘッドギアを被った地下室の闇は消え失せ、視界には極彩色の悪夢が広がっていた。



「ようこそ、ウサギさんの巣穴へ」

 頭上から、楽しげな声が降ってくる。



 最上が顔を上げると、アリスが重力を無視して宙に浮いていた。



 白いコートの裾を揺らし、まるで幽霊のようにふわりと漂っている。彼女はこの狂った世界の一部であり、法則に縛られない。



 対して、梁人はこの世界の異物だ。重い靴底が、肉のような地面に沈み込んでいる。



「……趣味の悪い場所だ」

 梁人は立ち上がり、周囲を見渡した。

 


 そこは、新宿のようであって、新宿ではなかった。



 林立する高層ビル群は、飴細工のように捻じ曲がり、頂上が見えないほど高く伸びている。



 そして、そのすべてのビルの屋上から、無数の〝ロープ〟が垂れ下がっていた。



 風もないのに揺れる数千、数万の絞首刑の縄。



 縄の先には、首を吊られたサラリーマンや学生服の「影」がぶら下がり、振り子のように揺れている。



 カチ、コチ、カチ、コチ。



 耳障りな時計の針の音が、空間全体に響いていた。



 強迫観念そのもののようなリズム。



「気をつけてね、梁人。この世界の主は、時間に厳しいみたい」

 アリスが空中でくるりと回転し、指差す。



 通りの向こうから、奇妙な影が這い出てきた。



 頭部が〝目覚まし時計〟に置き換わった、スーツ姿の人型たち。

 両手には錆びついた巨大な裁ち鋏が握られている。



 〈首吊り兎〉の眷属、迷宮の防衛機構だ。



「……チッ」

 最上は舌打ちし、右手の『ヴォーパル・カリキュラス』を構える――が、すぐに銃口を下ろした。



 弾倉は空だ。



 撃てば解決するが、今はまだ一発たりとも撃てない。



 ギギ、ガガガ。



 時計男たちが、ゼンマイ仕掛けのような不自然な動きで加速する。



 その進行方向にはアリスが浮いている。



 だが、彼らはアリスの横を素通りした。目もくれない。まるでそこに最初から誰もいないかのように。

 彼らの〝文字盤〟のような顔が、一斉に梁人だけを捉える。



「あはは。無視されちゃった」

 アリスがケラケラと笑う。



 当然だ。この世界にとって、アリスは〝同類〟であり、最上だけが排除すべき〝ウイルス〟なのだから。



「……仕事の時間だ、クソッタレ」

 最上は腰のベルトから、護身用のコンバットナイフを抜き放ち、地を蹴った。



 幾何学的概念武装ではない物理的なナイフでは、精神体の怪物を殺すことはできない。 



 だが、その構造を一時的に〝否定〟し、弾くことはできる。



 最上は眼前に迫った時計男の振り下ろすハサミを、最小限の動きで回避した。



 風切り音が鼻先を掠める。



 すれ違いざま、ナイフの柄頭で、敵の頭部(時計)のガラス面を叩き割る。



 ギャッ、と不快なノイズを上げて時計男が怯む。

 トドメは刺せない。あくまで牽制。



(数は六体。囲まれたら終わる)



 最上は路地裏へと走り込んだ。

 アスファルトが脈打ち、壁から無数の「手」が伸びて足首を掴もうとする。



 精神世界そのものが、梁人の侵入を拒絶している。



「梁人、あっち! あっちに『キラキラ』があるよ!」

 頭上を泳ぐアリスが、暢気な声でナビゲートする。



 彼女の指差す先――ゴミ捨て場のように書類が散乱した一角に、そこだけ青白く、澄んだ光を放つ物体があった。



 一冊の、使い込まれたシステム手帳。



 歪んだ風景の中で、それだけが幾何学的に正しい形を保っている。



 〈論理断片(ロジック・フラグ)〉だ。



 今回の〈犯人〉――怪物化する前の人間が持っていた、理性的で真っ当な記憶の欠片。



「拾え、アリス!」

 最上は叫びながら、追ってくる時計男の群れに向き直る。



「えー、人使いが荒いなぁ」

 文句を言いながらも、アリスはスゥーっと降下し、その手帳に触れた。



 瞬間、手帳が光の粒子となって分解される。



 アリスの手の中で、それは情報圧縮され、一本の美しいクリスタルの弾丸へと再構築された。



「はい、どうぞ」

 アリスが放り投げたそれを、最上は空中でひったくるように受け取る。



 滑らかな動作で『ヴォーパル・カリキュラス』のシリンダーへ装填。



 回転式弾倉に、一発の〝理屈〟が収まる。  



 カチリ。



 撃鉄を起こす音が、秒針の音を書き消した。



「……消えろ」

 最上は迫りくる時計男の群れに向け、引き金を引いた。



 発砲音はしない。



 響いたのは、硬質なガラスが砕け散るような、美しくも冷徹な破砕音。



 銃口から放たれた不可視の「微分射撃(ディファレンシャル)」が、先頭の三体を捉える。



 血飛沫は上がらない。



 その代わり、彼らの身体が空間ごとズレた(・・・ )



 正中線から左右に、あるいは上下に、積み木を崩すように断面を見せて滑り落ちる。



 存在の連続性を断たれた怪物は、そのままポリゴンの霧となって大気に溶けた。



「うわぁ、バラバラ。パズルみたい」

 アリスが手を叩いて喜ぶ。



 最上は銃を下ろし、小さく息を吐いた。



 ズキリ、とこめかみに痛みが走る。



 視界の端に、砂嵐のようなノイズが一瞬だけ混じる。



 精神汚染のフィードバック。怪物を〝否定〟した代償だ。



(残り弾数、ゼロ。……犯人を止めるには、あと六発必要。戦闘は極力避けたいが──)



 気が遠くなるような行軍だ。

 だが、梁人は痛みで霞む目を、乱暴に擦って正気を保つ。



 アリスを見る。

 浮遊する少女の、その忌々しいほど整った顔を見る。

 怒りが痛みを麻痺させる。



「……先へ進むぞ」



「うん。時計塔のてっぺんに、すごーく嫌な匂いがするよ。きっとそこに『本体』がいるね」



 アリスは空中を泳ぐように、歪んだ摩天楼の頂を目指して進み始めた。



 最上は、その小さな背中を睨みつけながら、重い足取りで後を追う。

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