最後の手紙 ――母の死後、届いた手紙は、家族全員の罪を順番に暴いていく。
最後の手紙
第1話 封筒の中の母
遺影の下で、線香の煙がまっすぐ立ち上がっていた。
それを見ていると、母の声がまだ台所の奥から聞こえてきそうだった。味噌汁の火を止めなさい。玄関の鍵を閉めたの。遥、返事は一回でいいのよ。
私は手を合わせるふりをしたまま、返事の代わりに喉の奥で唾を飲み込んだ。
通夜が終わり、親戚たちが口々に「いいお母さんだった」と同じ形の言葉を置いて帰ったあと、仏間の隅だけが妙に明るく見えた。
照明を落とし忘れたのだと思って近づくと、古い箪笥の引き出しが少しだけ開いていた。その隙間から、白い封筒の端がのぞいている。
宛名は、黒いペンで書かれていた。
――長女・遥へ。
母は、私の名前を書くとき、最後の点にだけ少し力を入れる癖があった。遥、の、点。そこだけ、紙の繊維がわずかに沈んでいる。
封筒を開けると、髪の毛が一本、便箋の間からふわりと落ちた。
母のものか、私のものか。
拾う気になれず、畳の目に吸い込まれていくのを見送った。便箋は二枚。最初の一行目に、母らしくない言葉が置かれていた。
――あなたがいちばん、私に似ている。
褒められているのだと、最初は思った。
けれど、母の「似ている」はいつも、注意や警告の前置きだったことを私は知っている。小さな嘘をついたとき。落とし物を誰かのせいにしたとき。黙っていれば許されると思ったとき。
母は微笑みながら、「似ているわね」と言って、その先で私の手から嘘を一枚ずつはがしていった。
二行目を読んだ瞬間、息が止まった。
――あの夜、あなたが握っていたナイフのことも、知っています。
膝に置いた手が、勝手に冷えていく。
台所の引き出しに並んでいた調理用のナイフ。父が階段から落ちた日の夜、私は一度だけ、あの銀色の柄を握った。
台所の蛍光灯は古く、刃の反射が水面のように揺れていた。そこに映った自分の顔を覚えている。泣いているのか、笑っているのか分からない顔。
思い出しかけて、慌てて思い出すのをやめる。
手紙に戻った。
母は、その夜のことを長くは書かなかった。
ただ一文。
――覚えているでしょう。
それだけで十分だった。
代わりに、母は私の「似ているところ」を列挙していた。
人に合わせるのがうまいところ。
黙っていることで場を支配するところ。
いちど決めたことを誰にも言わず、勝手に終わらせるところ。
私は、読みながら母の声色を頭の中で再生していた。優しく、しかし逃げ道を塞ぐ調子。思い出すほど、背筋が伸びる。
便箋の裏に、短い指示があった。
――この手紙は、あなたが最初に読みなさい。次は長男へ。最後に、末の子に。
順番。
母は昔から、何にでも順番をつける人だった。
食卓の料理にも、順番があった。揚げたてのコロッケは熱いうちに。残り物の野菜は先に片づけて。誰かが嫌がる食べ物は、食べられる人が先に救う。
家族の皿の上で、配分と順番は小さな正義だった。
手紙にも、同じ癖が忍び込んでいる。
なぜ私が最初なのか。
なぜ兄が二番で、弟は最後なのか。
私は便箋をもう一度、冒頭から読んだ。
そこには、私だけが知っているはずの細部があった。父のスーツの袖口のほつれ。兄の机の引き出しに入っていた封筒の厚み。弟のスマホの画面に映った録音アプリの赤い点。
母は、見ていた。
私たちが思うよりずっと近いところで。
「遥、まだ起きてるの?」
背中の戸が開いて、兄の声がした。
智也は喪服のジャケットだけを脱ぎ、シャツの袖を肘までまくっていた。喪失の疲れは、誰の顔にも均等に降り積もるわけではない。兄の目の下の影を見て、そう思った。
「……仏間、片づけてるだけ」
私は手紙を封筒に戻した。動作がぎこちなかったのか、兄が目を細める。
「母さんの、遺言みたいなもの、あった?」
「遺言?」
兄は笑った。笑いはしたのに、口角だけが上がって、目は笑っていなかった。
「葬儀屋さんも言ってたろ。最近は手紙を残す人が増えてるって。母さんなら、書きそうだなと思って」
私の心臓が、封筒の紙の擦れる音と同じ速さで鳴った。
「見つけたら、教える」
言葉の意味をうすくして、私は襖を少し開け、兄を仏間の外へ押し出した。
「明日も早いし。寝たほうがいいよ」
兄は頷きかけて、それから唐突に尋ねた。
「父さんのスマホ、どこ行ったか知らない?」
「スマホ?」
「遺品の中に、見当たらない」
父のスマホ。
あの夜、キッチンのカウンターの上で、一直線に光っていた黒い板。通知音が鳴るたび、母の肩がわずかに跳ねた。
「知らない」
私は言って、兄の視線を避けた。
嘘は短く言うと、飲み込みやすい。
兄が去ると、仏間はまた静かになった。
私は封筒の中身を確かめる。便箋二枚と、もう一つ、薄い紙片。手触りが違った。
取り出すと、それは母のスマホのロック解除番号だった。四桁の数字。家の誕生日でも、父と母の記念日でもない。
私の誕生日。
ただし、順番だけが反転していた。
母のいたずらみたいなやり方に、苦笑が喉の奥で転がって消えた。
「あなたが最初」
母はわざわざ書き、そしてわざわざ鍵を渡した。
順番の先頭に立った私が、開けるべき何か。
私は数字を心の中でなぞり、紙片を封筒に戻した。指先にうっすら汗がにじんでいる。畳が、それを吸う。
祖母から聞かされた昔話を思い出す。
初物を食べると七十五日長生きする。
母はそれを笑い飛ばした。
初物に尻尾を振るのは猫だけよ。
新しいもの、最初のものをむやみに崇めるのが嫌いな人だった。なのに死んでからは順番を作って、私に初物を食べさせようとしている。
ずるい人だ、と少し思う。
けれど、ずるさは――たぶん私にもよく似合う。
手紙の末尾は、唐突に途切れていた。
――この家は、もう少しだけ、あなたに――
そこで紙は終わっていた。
破り取られたみたいに、端の繊維がほつれている。母が最後まで書かずにやめたのか、それとも誰かが切り取ったのか。
私は照明のスイッチを切り、暗闇に目を慣らしながら、封筒を胸に抱いた。心臓の鼓動が紙を叩く。叩かれた紙が、返事をしている気がする。
――あなたがいちばん、私に似ている。
母は、似ていると言って、私に母の役目を分けたのだろうか。
正義の配膳係。
罪の並べ替え。
廊下の端の部屋から、弟の寝息が聞こえた。
無垢な音だ、と誰かが言うだろう。
私は、その言葉を少しだけ疑ってみる。
明日の朝、私はこの手紙を兄に見せるだろうか。見せないだろうか。
順番は、守られることで罰になることがある。
破られることで救いになることもある。
母のやり方に従うのか。
母に似ている私のやり方で、並べ替えるのか。
仏間の戸を閉める直前、遺影の母がふっと笑ったように見えた。
見間違いだと分かっているのに、私はうなずいてしまう。
――分かった。最初に読むのは、私。
けれど、最初に決めるのも、私にさせて。
順番の意味を、私が書き換える。
封筒を持ったまま、自室へ戻った。窓の外で、街灯が雨粒を縁取っている。明け方にはやむ予報だった。
ベッドの端に腰を下ろし、スマホを手に取る。
数字を入力する前に、私は画面の黒に自分の顔を映してみた。
泣いているのか、笑っているのか、よく分からない顔だった。
まるで、あの夜の刃物の反射みたいに。
親指が、最初の数字の上で止まる。
止まったまま、わずかに震えた。
順番は、始めてしまえば後戻りできない。
ドアの向こうで、床板がきしむ音がした。誰かが廊下を歩いている。兄か、弟か、母の気配か。
私は息を止め、数字を押した。
画面が静かにほどける。
闇の奥に光が差し込むみたいに。
母の置き土産は、音も立てずに、私の中へ開いた。
そして、私はその光の手前で、一度だけ目を閉じた。
似ているのは、どこまでだろう。
目を開けたとき、私はもう、順番の先頭に立っていた。
第2話 兄の影
母の四十九日を前にして、家の中は静まり返っていた。
静けさというより、息を潜めているような沈黙だった。
姉の遥は食卓の椅子に背中を預けたまま、スマホの画面を見つめている。何かを待っているようで、でも何も期待していない目だった。
僕はその視線を横目に、キッチンの奥の戸棚を探っていた。
父のスマホが見つからない。
母の手紙には、父の過去が隠れているような書き方があった。だが、決定的なことは一言も書かれていなかった。
兄は知っている。
たった、それだけ。
僕はその兄だ。
父が階段から落ちたあの夜、僕は一度だけ母に殴られた。
理由は今でもわからない。
「あなたまで罪を背負うことはない」
そう言って、母は僕の頬を撫でた。
その手の温度が、掌の中にまだ残っている気がする。
母は、何を守ろうとしていたのか。
その答えを確かめるように、僕は引き出しを開けていった。
そして、ひとつの古いSDカードを見つけた。
ラベルには、細い字で日付が書かれていた。
父の命日と同じ日付。
僕はラップトップを持ち出し、階段の下で電源を入れた。なぜそこを選んだのか、自分でも分からない。けれど、この音はそこで聞かなければならない気がした。
ヘッドフォンをつけ、再生ボタンを押す。
最初に聞こえたのは、母の声だった。
〈……聞こえる?〉
低く、落ち着いた声。
〈今日、終わらせるわ〉
そのあと、しばらく沈黙があった。
次に、父の声。
〈まだ、あの人に言っていない〉
〈もう遅い。全部、消えるわ〉
その直後、なにかが倒れる音。
僕の喉が乾いた。
耳を塞ぎたいのに、手が動かない。
再生を止めた瞬間、背後から声がした。
「何、聞いてるの?」
振り向くと、遥が立っていた。
「……なんでもない」
「母さんの、でしょ?」
僕の返事を待たずに、彼女は椅子を引いて座った。
「あの手紙、読んだ」
淡々とした声。それでいて、刃物のような硬さがある。
「順番、守ったの?」
「守る必要、あるのか?」
遥は微笑んだ。
母と同じ笑い方だった。
「あるわよ。母さんが仕組んだんだから」
その言葉に、背筋が冷たくなる。
仕組んだ。
母の手紙には、確かに順番が書かれていた。だが、遥の言い方は、それ以上のものを指していた。
「父さんのこと、覚えてる?」
「どういう意味だ」
「母さんが亡くなる前の日、あなた、父さんの部屋に行ったわよね」
「……見てたのか」
「見てたわ。母さんも、きっと」
遥はテーブルの上のマグカップを指で回した。
「父さんのスマホ、あなたが持ってるんじゃない?」
僕は答えなかった。
答えないことが答えになるのを、知っていた。
彼女は立ち上がり、僕の耳元に顔を寄せて囁いた。
「母さんが最後に信じたのは、あなただと思う?」
息がかかった。
甘くも苦くもない、無臭の問い。
僕は視線を落としたまま言った。
「母さんが信じたのは、順番だよ」
「順番?」
「僕たちを守るための秩序。罪を分けるためのルール」
「それを守った結果が、今のこれ?」
遥は笑った。
笑いながら、少しだけ涙ぐんでいた。
彼女が部屋を出ていったあと、僕は再び録音を再生した。
最後の数秒に、かすかに別の声が混じっている。
弟の声だった。
〈録れてる?〉
〈うん。全部〉
僕は息を止めた。
母は、恭介と一緒に録音をしていたのか。
順番とは、手紙のことだけではないのかもしれない。
母はこの家全体を、何かの儀式のように並べ替えていた。
僕は静かにSDカードをポケットにしまった。
そして、姉の部屋の扉の前で立ち止まる。
中から、低い声が聞こえた。
「母さん、これでいいんだよね」
その言葉を最後に、何も聞こえなくなった。
その夜、僕は夢の中で母に会った。
母は食卓に座り、白い封筒を指で弾いていた。
「読んだ?」
「読んだよ」
「じゃあ、書きなさい。あなたの番」
「書くって……何を?」
母は笑いながら言った。
「私に似たところを」
目を覚ましたとき、机の上に白い便箋が置かれていた。
誰が置いたのか分からない。
ただ、一行目には見覚えのある文字があった。
――長男へ。次は、あなたが書きなさい。
その下に、赤いペンで小さく書かれていた。
――録音はまだ続いている。
第3話 父の遺影
死んだ人間の写真ほど、よく笑うものはない。
自分の遺影を選ぶ趣味などなかったが、もしあの時、自分で決められたなら、もう少し無表情な写真を選んだだろう。
この笑顔は、嘘だ。
家族に向けているつもりで、実は誰にも届いていない笑みだ。
遺影の中の私は、そう語りかけてくる。
私は、自分の死の瞬間を覚えている。
階段を降りようとして、足を滑らせた。
いや、誰かに押された。
そう思うのは、死んだからだろうか。
あの家の階段は古くて狭く、手すりが途中で途切れていた。落ちるとき、視界の端に人影があった。
女の影。
妻だったのか。
娘だったのか。
その区別が、もうつかない。
死んでから、しばらくして気づいたことがある。
この家では、誰も真実を語らない。
妻も、子どもたちも、誰かのために嘘をついている。
そして、その「ため」は、いつの間にか「自分のため」にすり替わる。
私は、妻の手帳を思い出す。
最後のページに、赤い文字で書かれていた。
――長女・遥。知りすぎる。
――長男・智也。隠しすぎる。
――次男・恭介。見すぎる。
まるで診断書のようなメモだった。
私は、そのメモを見つけた夜、妻に問いただした。
「これは、どういう意味だ」
妻は答えなかった。
ただ、味噌汁の具を数えていた。
「三つ入ってるでしょ。豆腐。人参。わかめ」
「だから?」
「家族も同じ。三人。足りる?」
私はその意味を理解できなかった。
その翌日、私は階段を落ちた。
死んでしまえば、すべてが静かになると思っていた。
だが、静けさは音よりも残酷だった。
私は家のあちこちに、声を見る。
母が泣いているのを見た娘。
息を殺して録音ボタンを押す息子。
そして、妻の背中。
彼女は、私の死後、遺書を三通書いた。
それを私は見た。
なぜなら、あの手紙は最初、私の机の引き出しに置かれていたからだ。
最初の宛名は、長女へ。
次は、長男へ。
そして三通目の封筒には、何も書かれていなかった。
誰に渡すか、まだ決めていなかったのだろう。
妻は最後の夜、私の枕元に座っていた。
「あなたのしたこと、子どもたちは知らないわ」
「知る必要はない」
「でも、私が知ってる」
その言葉に、私は眠れなかった。
彼女の声には、やさしさと呪いが同居していた。
あれは許しではなかった。
審判だった。
私は会社で、不正融資を黙認していた。
名前を貸しただけだ。
金は動かしていない。
そう思っていた。
だが、紙の上では、私は加担者になっていた。発覚すれば、家は終わる。子どもたちも終わる。
だから、黙っていた。
それを知ったのが、妻だ。
彼女は警察ではなく、家族に裁きを任せた。
「あなたは、誰に罰を与えるの?」
妻の声がした。
私はその声に答えられず、ただ謝った。
「すまない」
「謝るのは、私じゃないわ」
「じゃあ、誰に?」
「あなたがいちばん愛していた人に」
その夜、私は眠る前に机の上に鍵を置いた。
金庫の鍵。
中には、すべての証拠が入っている。
契約書、振込明細、社印の写し。
そして、一本のUSB。
USBの中には、私の告白動画がある。
録画したのは、死ぬ三日前だ。
そこには、私の声でこう残してある。
〈もし私が死んだら、それは事故ではない〉
〈私を殺したのは、家族だ〉
ただし、それを録画したあと、私は保存フォルダを隠した。
解除方法は、妻しか知らない。
それが、彼女なりの秩序。
順番のルールだ。
私の遺影の前で、今日も線香の煙が立つ。
長女が何かを隠している。
長男が何かを恐れている。
そして、弟が静かに笑っている。
あの子の笑顔だけが、母のものに似ている。
私はふと気づく。
録音を再生していた少年の指先に、薄い傷跡があった。
それは私の記憶にもある。
階段の手すりの釘の跡。
あの夜、私の背中に触れたのは――
あの小さな手だったのではないか。
そう思った瞬間、線香の火が揺れた。
煙の向こうで、妻の声がまた囁く。
「順番は、もうすぐ終わるわ」
第4話 弟の夢
母の葬式の日、兄が泣かなかったことを、僕はずっと覚えている。
姉が泣くふりをして顔を伏せたことも。
あの家では、涙がいつも芝居だった。
誰も、本当に悲しいときには泣かない。泣くときは、誰かに見せたいときだけ。
だから僕は、泣かないことにした。
母が亡くなった朝、僕は手紙を受け取った。
宛名はなかった。
でも、開けてみると、そこに僕の名前が書かれていた。
――恭介へ。あなたが最後です。
たったそれだけの文。
母らしい、少し皮肉なやり方だと思った。
手紙の裏には、一つの指示があった。
――録音を続けなさい。
僕は、母が死ぬ一ヶ月前から、家の中の会話を録音していた。
最初は母に頼まれた。
「お父さんの声を残したいの」
そう言われて、言われるままにスマホのアプリを使った。
でも、父が死んだあとも録音は続いた。
気づけば、僕は頼まれなくても録っていた。
だって、誰も本当のことを言わないから。
録音だけが、本物だった。
兄が夜中に階段の下で泣いていたこと。
姉が母の部屋から封筒を抜き取ったこと。
母が誰かに電話して「順番はこれでいいのね」と言ったこと。
全部、録音してある。
僕のスマホの容量は、ほとんど声で埋まっていた。
母の声。
兄のため息。
姉の嘘。
音の海の中で、僕だけが溺れなかった。
泳ぎ方を知っていたから。
母が死ぬ二日前の録音を、今でもよく聞く。
〈恭介、録ってる?〉
〈うん〉
〈じゃあ、聞きなさい。順番には意味があるの〉
〈なに、それ〉
〈最初の子は、罪を知る。次の子は、罪を隠す。そして、最後の子は――罪を決める〉
母の声は、いつものように優しかった。
僕はそのとき、よくわからずに頷いた。
でも今なら、わかる。
母は僕に裁きを任せたのだ。
あの夜。
父が階段から落ちたとき、僕は録音していた。
スマホの赤い点が光っていた。
最初に聞こえたのは父の声だった。
〈話が違うだろう〉
〈私は家族を守ってるの〉
母の声。
〈こんな形で?〉
〈あなたはもう、守る側にはいない〉
その直後に、鈍い音。
そして、僕の声。
〈録れてる?〉
〈うん。全部〉
録音の最後に残っているのは、僕の笑い声だ。
無意識に出た、息みたいな笑い。
それを聞くたびに、背中がぞくっとする。
姉が見つけた母の封筒。
兄が探していた父のスマホ。
どちらにも、僕の録音が関わっている。
けれど二人は、まだ知らない。
誰がそれを送ったのかを。
母が死んだ夜、僕は兄のパソコンにメールを送った。
差出人は、母。
件名は、智也へ。
本文に、録音データのリンクを貼った。
兄は、それを夜中に再生した。
その顔を、ドアの隙間から見ていた。
泣きもしなかったけれど、手が震えていた。
きっと、母が望んだ順番どおりになった。
次は姉の番だった。
姉には、母の封筒を見つけさせた。
仏間の照明を少しだけ強くして、引き出しをわずかに開けておいた。
母が残した手紙は、本当は三通あった。
でも僕がそのうちの一通を抜き取り、姉宛てのものを差し替えた。
姉が読んだのは、母の言葉じゃない。
僕が書いた。
――あなたがいちばん、私に似ている。
それは、母の筆跡を真似た僕の文字だ。
姉がそれを読むのを、階段の上から見ていた。
読み終えたあと、姉は唇を噛んで笑っていた。
あの笑い方は、母と同じだった。
だから、僕は成功したと思った。
録音も手紙も、順番どおりに動いていく。
母が作った秩序を、僕が引き継いだ。
いや。
僕が、作り変えた。
母が言っていた「罪を決める子」。
それが僕だ。
父の不正も。
母の罪も。
兄の隠蔽も。
姉の嘘も。
全部、僕が整える。
録音を切り貼りして、誰が悪かったのかを、僕が決める。
たとえ事実が違っても。
事実なんて、声の残し方でいくらでも形を変える。
真実は、波形の形をしている。
僕にとってそれは、絵を描くのと同じだった。
必要なところを残して、不要な部分を削る。
音の間に沈黙を挟む。
沈黙は、最も雄弁な証拠になる。
兄が夜中に再生した音声も、姉が封筒で読んだ文も、すべて僕が作った。
母の声も、少しだけ混ぜた。
生きている間に残した声があれば、死んだ人の声だって、今はかなり近いところまで呼び戻せる。
母の声を使って、母を操る。
皮肉だけれど、それがいちばん自然だった。
母は順番を残した。
僕はその順番を、演出にした。
舞台の台本みたいに、罪と告白を入れ替えた。
姉が最初。
兄が二番。
僕が最後。
でも、本当の意味で最初に動かしていたのは、僕だ。
母の死後、兄が言った。
「順番は、守るための秩序だ」
それを聞いたとき、笑いをこらえるのが大変だった。
秩序を守るために、人は嘘をつく。
その嘘が積もった家を、僕は修正しているだけだ。
録音ファイルの最後に、僕は母の声を重ねた。
〈あなたが私に最も似ている〉
再生ボタンを押すと、家の中がその声で満たされる。
兄の部屋にも、姉の部屋にも届く。
深夜、スピーカー越しに母の声が響く。
みんなが目を覚ます。
僕は、リビングの真ん中で微笑む。
母が立っていた場所と、同じ場所で。
朝になると、姉の部屋の前に封筒が置かれている。
――長女へ。
中には、一枚のメモ。
――母の手紙はすべて読まれた。
――最後の手紙は、まだ書かれていない。
その筆跡は、僕のものだ。
次に書くのは、僕だ。
そして、読むのは、あの二人。
母の夢を見た。
僕の手を握りながら、母は言った。
「恭介、これで終わり?」
「ううん。まだだよ」
「誰のためにやっているの?」
「母さんのために」
母は微笑んで言った。
「それが、いちばん怖い言葉よ」
目を覚ましたとき、録音アプリはまだ動いていた。
赤い点が、心臓の鼓動みたいに点滅していた。
最終話 最後の手紙
四十九日の朝、ポストに青い書留の不在票が入っていた。
差出人は、母の旧姓を名乗る法律事務所。
印鑑を握り直す私の指が湿っていた。夏の終わりの湿気だけのせいだと思いたかった。
封筒を開けると、薄い桐色のUSBと、簡素な便箋が一枚入っていた。
――これが最後の手紙ではありません。
――最後の手紙は、受け取った人が書きます。
――ただし、あなたがこれを開いたという事実だけは、家族の順番を一段ずらします。
――宛先は、決めてから読みなさい。
母より。
宛先は、決めてから。
私は一度、封を戻しそうになって、やめた。
戻したところで、記憶は巻き戻らない。
USBをラップトップに差し込む。指先の震えが、金属の冷たさに吸われていく。
動画ファイルは一つだけ。
名前は、PRIVATE。
再生すると、画面に母が現れた。
縞のエプロン。髪は後ろで低くまとめて、テーブルに両手を揃えている。
「見ているのは、誰?」
母は笑いながら言った。
「遥か、智也か、恭介か。順番は、誰が守っても、最後に裏返る」
画面の端で、赤いペンが転がる音がした。
母はテーブルの下に手を伸ばし、何かのスイッチを押した。
「これは、録音ではないの。録音の外に残した声よ」
そこで一瞬、映像が波打った。
次に映ったのは、見覚えのある廊下。
見覚えのある階段。
父が落ちた夜の、黒っぽい影が二つ。
母の肩越しに、父の背中が見える。
〈話が違うだろう〉
父の声のあと、あの鈍い音が来るはずだった。
だが、来ない。
代わりに、母の低い息の音と、微かな囁き。
〈恭介、離れて〉
〈やだ〉
〈録音は、ここで切りなさい〉
〈切らない〉
そこで画面が暗くなり、再び母の顔に戻った。
「編集って、便利ね」
母は、目だけで笑った。
「切り貼りは、物語の基本。罪にも、編集点はある。でもね、切った場所と残した沈黙には、必ず継ぎ目ができるの」
私は思わず、一時停止した。
継ぎ目。
恭介の作る音声に、私は何度も小さな違和感を覚えていた。
息の入り方。
語尾の長さ。
空調の音。
目を凝らせば見える縫い目。
母は、見抜いていたのだ。
再生ボタンを押す。
母は、順番について、もう一度だけ語った。
「最初の子は、罪を知る。次の子は、罪を隠す。最後の子は、罪を決める。そう思っていた」
母はわずかに目を伏せた。
「けれど、決める力を与えると、人は遊ぶ。遊びは、守りに勝つ。だから、最後の手紙は空白にした。誰が書くかで、家は変わるから」
母は一度だけ視線を落とし、私ではない誰かに向けて頷いた。
「恭介。これは、あなたのためではありません。あなたがいちばん怖がるのは、あなたのいないところで何かが終わることだから」
最後の一文だけ、母の声からやわらかさが消えた。
「最も無垢に見える子ほど、よく創る」
画面が暗転した。
背後で、床板が鳴った。
「姉ちゃん、何見てるの」
振り向かなくても、分かった。
恭介は、声だけで部屋に入ってきた。
「母さんの、置き土産」
そう答えると、彼が笑った気配がした。
「……ああ、それ。僕、もう見たよ。僕宛てのが、別にある」
「別に?」
恭介の足音が、私の椅子の後ろで止まる。
彼は背もたれに指をかけ、軽く揺らした。玩具みたいに。
「姉ちゃん、宛先決めた? それ、ルールでしょ」
「宛先は、もう決まってる」
私は机の引き出しから、白い封筒を出した。
表には、まだ何も書いていない。
恭介が短く息を呑む。
「誰に出すの」
「この家の外にいる人」
「誰それ」
「順番を、私たちから取り上げてくれる人」
恭介は笑わなかった。
その代わり、机の上のUSBにそっと指を伸ばし、掌で覆った。
「姉ちゃん。僕、燃やすのは紙だけでいいと思ってたけど、変えた。今は、燃えないものを消す時代だよ。再生できなくすれば、世界から消える」
彼の声は、甘くも苦くもない。
砂糖を入れないココアの匂いがした。
「編集って便利だよね。母さんも言ってた」
「継ぎ目が見える、とも言ってた」
「見えないように、もう一度、上から塗るよ」
彼はUSBを抜き、ポケットに入れた。
取り返そうとは思わなかった。
取り返したところで、彼は別のコピーを持っている。
彼の編集は、既に家の空気と同化している。
だから私は、別の場所に火をつけることにした。
襖の隙間から、兄の影が伸びた。
「何をしてる」
智也の声には、疲れと決意が同居していた。
「母さんの、最後の――」
言いかけたとき、恭介が先に言葉を差し込んだ。
「台本だよ」
笑いながら、今度は甘い匂いがした。
ミントガムの匂い。
「順番どおりに、ね。姉ちゃんが読んで、兄ちゃんが隠して、僕が決める」
兄は恭介を真っ直ぐ見た。
「決めるって、誰のために」
「母さんのために」
即答だった。
兄は、ほんのわずかに顔を歪めた。
「それが、いちばん怖い言葉だ」
恭介の笑みが、音もなく薄くなる。
母が夢の中で言ったという同じ言葉。
家は、繰り返しの上に立っている。
私は机に向き直り、便箋を引き寄せた。
最後の手紙。
冒頭にそう書いて、ペン先を止める。
誰に宛てるのか。
私は表の宛名欄に、一行を書いた。
――この家の外にいる、だれかへ。
家の内側では、もう真実は形を失っていた。
私たちは互いに好きな継ぎ目を作り合い、都合の悪い音を沈黙で埋め、母を神にしたり、編集ソフトにしたり、燃料にしたりしている。
それを終わらせるには、家の外に出すしかない。
順番を、壊すしかない。
私は書いた。
父の不正のこと。
母の秩序のこと。
兄の隠蔽のこと。
そして、恭介の演出のこと。
言葉は刃物になる。
でも刃物は、食卓に置けば、ただの道具だ。
使い方を決めるのは、手のほう。
私は、母に似ている。
それをやっと、肯定できた。
配膳係。
順番を並べ直す人。
母が最後まで書かなかった文の続きを、私の文字で補う。
――この家は、もう少しだけ、あなたに――
私のペン先はそこで止まった。
紙が呼吸する音がした。
あなた、は私ではない。
兄でもない。
恭介でもない。
家の外にいる、誰かだ。
罪を。
終わりを。
私たちの外にいる、まだこの家の空気を吸っていない誰かが決めればいい。
私は封をして、宛先を書いた。
警察ではない。
父が生きていた頃、新聞に小さく載っていた内部告発用の窓口。
母がいつも切り抜いては、引き出しに戻していた、あの欄。
「通報は怖いことじゃないわ」
母は一度だけ、食卓でそう言ったことがある。
「順番を、外に混ぜるだけ」
その意味が、ようやく分かった。
私は切手を貼り、立ち上がった。
恭介が、私の手首を軽く掴んだ。
「姉ちゃん、外に出すの?」
「うん」
「戻らなくなるよ」
「順番が?」
「家族が」
私は笑った。
「戻らなくていい。戻すたびに、誰かが編集した顔に描き直されるから」
玄関に向かう廊下は、夏の終わりの光で薄く白かった。
靴箱の上に、母の香水の瓶が置きっぱなしになっている。
蓋を開けると、柑橘と粉の匂いが混じって、泣きそうになった。
ポストに封筒を入れる音は、拍子木に似ていた。
家の中の音が、そこで一回、切り替わる。
継ぎ目。
私は玄関の戸を閉め、深呼吸を一度だけした。
夜。
居間のスピーカーから、母の声が流れた。
恭介がリモコンを握っている。
〈あなたが私に最も似ている〉
家の空気が、その声で満ちる。
兄は目を閉じ、私は膝の上で手を組んだ。
恭介は、母の声の上に自分の声を重ねる。
〈順番は終わりました。最後の手紙は、僕が――〉
そこで、音がぷつりと切れた。
停電ではない。
Wi-Fiの点滅が止まっている。
兄が無言で、ルーターの電源を抜いたのだ。
沈黙が、部屋をすばやく占拠する。
沈黙は、最も雄弁な証拠。
私は笑いそうになって、笑わなかった。
沈黙の中でしか聞こえない音がある。
たとえば、誰かが台本なしで呼吸する音。
たとえば、私たちの誰もが、ほんの少しだけ安心している音。
翌朝、ポストに入れたはずの封筒が戻ってきていた。
宛先不明。
インクが雨に滲んで、文字の端がほどけている。
私は封筒を握りしめ、台所のテーブルに置いた。
恭介がそれを見て、指で軽く叩く。
「外の人、いなかったってこと?」
私は首を横に振った。
「違う。ここじゃなかっただけ」
彼は肩をすくめ、封筒の口を開けようとした。
「だめ」
私が押さえると、彼は手を引っ込めた。
「じゃあ、どうするの」
「もう一度、宛先を変える」
私はインクの薄いところに、新しい文字を重ねた。
父がいた会社の内部通報窓口。
母が切り抜いていた相談先。
封が甘くなったところを、テープで留め直す。
継ぎ目は見える。
見えたままでいい。
編集したことを、編集しない。
それが、今の私の秩序だ。
ポストに入れる。
今度は、戻ってこなかった。
誰かが、受け取ってくれたのだろう。
その誰かの姿は見えない。
けれど、見えないからこそ、外に出した意味がある。
夜、遺影の前で線香の煙がまっすぐ立ち上がった。
母の笑顔は、やっぱり少し嘘だ。
でも、その嘘は、料理の盛りつけに似ている。
食べやすいように切られて、口に運びやすいように角度がつけられている。
配膳の嘘。
私は、母に似ている。
恭介の顔には、灯りが半分だけ当たり、片方の瞳が光っていた。
無垢は、暗いところのほうによく似合う。
兄は手を合わせ、短く祈った。
「順番は、ここで終わりにしよう」
誰に向けてでもなく、宙に置いた言葉だった。
深夜、恭介の部屋の前を通りかかったとき、ドアの隙間からかすかな音が漏れた。
編集ソフトのタイムライン。
波形。
彼はまだ、決めようとしている。
最も無垢に見えた子が、最もよく創る。
母は当てた。
ただ、母の外側に、私たちは一歩だけ出た。
それで十分だと思う自分がいる。
十分じゃないと思う自分もいる。
その二人が、同じ背中の中で、並んで眠る。
朝。
ポストに、青い書留の不在票がまた入っていた。
差出人は、同じ法律事務所。
裏面の備考欄に、黒いインクで短く書かれていた。
――受領しました。必要に応じて、外部へ共有します。
外部。
宛先は、もう私たちではない。
最後の手紙は、もう私たちのものでもない。
家の外で、知らない誰かが読む。
罪を決める人は、最初から家の外にいたのかもしれない。
私は、机の引き出しを開け、白い便箋を一枚取り出した。
冒頭にまた書く。
――最後の手紙。
今度の宛先は、空欄にした。
誰かが決めるために。
封をせず、遺影の前に置く。
線香の煙が、その紙を撫でて通った。
継ぎ目は見える。
見えたまま、生きていく。
母の順番を、少しだけずらした食卓で。
無垢のふりをしない無垢さで。
誰かの声に編集を重ねない沈黙で。
――これで、終わり。
そう書いて、私はペンを置いた。
終わりは、書いた人ではなく、受け取った人が決める。
母のいない食卓で、私たちは静かに箸を置いた。
最後の手紙は、やっと、最後になった。
了
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