第13話 監視者の翼
夜明けは、静かに訪れた。
アストリアの瓦礫の上に、薄紅の光が差し込み、壊れた塔の影を長く引き伸ばしていく。
戦いの痕跡は、まるで悪夢の跡のように残っていた。焦げた地面、崩れた壁、溶けた石。
アインはその中心に、ただ座り込んでいた。
目を閉じていても、耳の奥にはまだ轟音が残っている。セリウムの光と、父の名を告げられた瞬間の声が、何度も頭の中で繰り返されていた。
「……父さん」
その言葉は、朝の風に溶けた。
指先に黒い紋様がまだ残っている。昨夜、暴走した時のままだ。
痛みはない。けれど、まるで身体の奥で何かが冷たくうねっている。
隣でルゥが小さく息をついた。
彼女もまた、戦いの光で傷ついていた。毛先が焦げ、腕には擦り傷。
それでも、彼女はアインの隣に静かに座っていた。
「……まだ、戦える?」
「もう戦いたくないよ」
アインは小さく笑った。笑いながら、胸の奥が締めつけられる。
ルゥは膝を抱え、空を見上げた。
「セリウム……あいつ、少しだけ人間みたいに見えた」
「血を流してた」
「うん。あれ、監視者にしては変だよ。普通なら、傷なんて残らないはず」
アインはルゥを見た。
「知ってるのか、監視者のこと」
「ほんの少し。昔、母から聞いた。“監視者は人ではないけど、かつて人だったものもいる”って」
「かつて……?」
「そう。掟を破り、神々の側についた者たち。進化を止めるために、人であることを捨てた人間」
アインはその言葉に息を呑んだ。
セリウムのあの冷たさ――そして、仮面の下に流れた赤。
それらが、妙に一致する。
だとしたら。
セリウムは……父を処理したというその本人が、かつては父と同じ“人間”だったのか?
考えるほどに、胸がざわめいた。
彼の「処理した」という言葉の裏に、わずかな迷いがあったように思えた。
もし本当にただの監視者なら、そんな感情は生まれない。
――もしかして、父さんと、何か……。
アインは立ち上がった。
足元の石をどけると、古びた階段の入り口が見えた。崩れた瓦礫の陰に、半分埋もれた鉄扉がある。
扉の上には刻まれていた。
《観測室・第零区》と。
「ここ……父さんが使ってた部屋かもしれない」
「行こう」ルゥが即座に立ち上がった。
「ここで何が起きたのか、知る必要がある」
二人は慎重に扉を押し開けた。
重い音を立てて、長い封印が解かれる。
中は薄暗く、ひんやりとした空気が満ちていた。
壁一面に並ぶ古代の記録装置。ガラス筒の中に沈む光の粒。
中央の机には、ひとつの箱が置かれていた。
アインが手を伸ばすと、箱の表面が淡く光った。
そして、低い声が流れる。
『――アイン。これを聞いているということは、私はもういないのだろうね』
アインは息を止めた。
その声。
忘れもしない、あの日のままの声。
『私は、掟に背いた。だが信じてほしい。私は世界を壊そうとしたのではない。
“進化”とは、神の否定ではない。
人が人であり続けるための、祈りの形なのだ』
ルゥが口を押さえた。
アインの手が震える。
『アイン。お前の中に眠る《コア》は、神々の封印を破る鍵だ。
だがそれは、破壊のためではない。選択のための力。
もしお前が真実を見つけた時、その選択を恐れるな』
音声が途切れる。
そして、最後にもう一つの声が重なった。
それは、微かにノイズを帯びていた。
『――レイ。君は、まだ人を信じるのか』
アインとルゥが同時に顔を上げた。
それは、間違いなくセリウムの声だった。
『信じるとも。セリウム、君がそれを失ったとしても、私は失わない』
『……ならば、私は君を処理するしかない』
『構わない。君がそれを選ぶなら。だが、いつか彼が君を変える。そう信じている』
記録はそこで、完全に途切れた。
沈黙。
誰も言葉を発せなかった。
アインは拳を握りしめ、ただ目を閉じた。
「……父さんは、セリウムを信じてた」
「そうみたいね」ルゥが静かに言った。
「つまり、セリウムも昔は――人間だった」
アインは小さく頷いた。
胸の中に重いものが沈む。それは悲しみではなく、奇妙な希望のようなものだった。
「……掟を壊すんじゃない。掟の意味を、変える」
「え?」
「それが、父さんの言ってた“選択”だ。破壊じゃなく、再生だよ」
アインの声には、わずかな光が戻っていた。
その時、壁の記録装置が一斉に点灯した。
無数の光の粒が宙に浮かび、古代文字が空間に広がる。
《観測者通信――更新:セリウム・第零号》
《進化の欠片、活動再開。対象アイン・レーヴァン、接触済》
《監視継続。感情干渉率:上昇傾向》
最後の一文を見た瞬間、アインとルゥは顔を見合わせた。
「感情干渉……?」
「つまり……セリウムが“感情”を取り戻しつつあるってこと?」
その可能性が、アインの胸を貫いた。
父が信じた“希望”は、確かに生きているのかもしれない。
遠くで、朝の風が吹いた。
廃墟の屋根の穴から、光が一筋、記録室に差し込む。
その光の中で、アインはそっと拳を握った。
「行こう、ルゥ」
「どこへ?」
「掟の中心――《聖環》へ。
父さんの最後の場所に、答えがあるはずだ」
ルゥは頷いた。
二人は廃墟を出る。
振り返ると、アストリアの塔の上に、光の羽がひとつ、静かに舞い落ちた。
それは――セリウムの翼の欠片だった。