第3章 リーネ・トライトン【1】
今日も厳しい特訓だった。湯浴みを終えたあと、ラゼルは一人掛けソファに深くもたれて天井を眺めていた。魔力の調整を掴むため、五時間もの訓練をしていた。結果については考えたくなかった。
リリベスが用意してくれたホットミルクを飲みつつ、一日の締め括りの読書をしようかと考えていたとき、コンコンコン、とドアが静かにノックされた。どうぞ、と応えたラゼルの声で顔を覗かせたのはジークハイドだった。
「兄さん、どうしたんですか?」
そう問いながら、ラゼルはジークハイドを窓際のソファに促す。あれほどまでにラゼルを嫌っているジークハイドの訪問に、ラゼルは何やら奇妙な気分になっていた。ただ事ではない気配を感じさせる。そうでなければ、ジークハイドがラゼルの寝室に来るはずがない。ジークハイドの手には一葉の封筒がある。
「お前の母親の実家から、お前の養育費の援助の申し出があった」
「養育費の援助?」
ジークハイドの差し出した便箋には、丁寧な残暑の挨拶のあと、ラゼルが母親の忘れ形見であること、大事な子どもであることがつらつらと綴られ、養育費の援助の申し出が記されている。最後にはラゼルへのメッセージ付きだ。
ラゼルの母親の実家がラゼルをどう扱っていたかをいまのラゼルは知らない。唯一、記憶にあるラゼルが引き取られた時期から考えると、その申し出は少々遅すぎるように思える。それも、ラゼルの母親の実家は平民である。貴族の家に養育費を払うということは、普通であればあり得ない。
「公爵家にとって利点はないですよね」ラゼルは言った。「公爵家との繋がりを作りたいがための申し出としか思えません」
「亡くなった人の実家を悪く言うのは忍びないが、そういうことだろうな。公爵家としては、養育費がなくともお前ひとりを養うくらい、どうということもない。あとはお前の意思だ」
もしラゼルがここで、母親の実家との繋がりを保っていたいと答えれば、公爵家はそれを尊重するだろう。ラゼルにとって血族であることに変わりはない。いまのラゼルは母親の実家のことをまったく覚えていないが、その打算的な申し出には賛同できない。
「いまさら母の実家にはなんの恩もありません。縁を切っていただいても構わないくらいです。いまさら関わる気はありません」
もし、母親の実家が母親の死後、ラゼルを引き取っていたら。ラゼルだけではなくキールストラ公爵家の運命が変わった。それはもちろん誰も知らないことだが、母親の死後、ラゼルを引き取らなかったこと、そしていままで何も報せがなかったこと。ラゼルにとってその事実はいわゆる「お察し」であった。
「そうか。わかった。断りの書面を送っておく」
「はい、お願いします」
ラゼルとしてはいますぐ破り捨ててしまいたいところだったが、便箋を折りたたんでジークハイドに返す。破っても問題ないだろうが、正式な書面である以上、扱いをぞんざいにするわけにはいかない。
ジークハイドが丁寧に便箋をしまっている最中、ラゼルはふと、あることが頭の中に浮かんだ。
「……僕は、公爵家にとって迷惑な存在じゃないでしょうか」
呟くように言ったラゼルに、ジークハイドは目を細める。
ラゼルが公爵家に引き取られることがなければ、そもそも「呪いの子」などという陰口が生まれることもなかった。公爵家に引き取られていなければ、母親の実家もその存在を知らないことにしていただろう。ラゼルは公爵家に引き取られなければ路頭に迷っていた。そもそもラゼルは許された存在ではないのかもしれない、とそんなことを考えたところで、悪役令息ラゼル・キールストラの絶望がそこから始まったのだと思い知った。
「迷惑だとしても、健全な生活の確保が難しい子どもを放っておくわけにはいかないだろ。ただ、慈善事業ではないということだけは理解しておけ」
なんて優しい言葉だろう、とラゼルは胸が熱くなった。眼光は相変わらず鋭いし、声色には棘があるというのに。あれだけ睨み付けられていたジークハイドに、こんな言葉をかけられるとは。
「父も母もお前を受け入れているのだから、特に問題はないだろ」
「ありがとうございます。あとは兄さんに認められるだけですね」
「せいぜい勝手に頑張ってくれ。とにかく、書面を出しておく」
「はい」
ジークハイドは澄ました表情で寝室をあとにした。もし彼がラゼルとして覚醒していなければ、確認することもなく断っていたかもしれない。そう対応されてもおかしくない申し出だ。これまで知らんふりをしていた子どもを利用して公爵家との繋がりを作ろうなど、単なる厚意として捉えられると考えていたならあまりに短絡的だ。貴族であったなら話は変わったかもしれないが、母親の実家は平民。その援助を受けることで母親の実家との繋がりを作ったとしても、キールストラ公爵家にはなんの利点もない。なんとも厚かましい申し出だ。
それにしても、とラゼルは考える。ジークハイドは彼なりにラゼルのことを気に掛けているようだ。なんだかんだと言いつつ放っておけないのは、長男気質によるものなのかもしれない。元から心優しい人なのだろう。味方に付ければ強い。ラゼルとしては、なんとしても良好な関係を築きたいところだ。
* * *
夏季休暇も残すところあと三日となった。ラゼルは、なんとなく魔力の流れを掴めてきたような気がしている。的が大破するようなこともなくなった。中破程度に抑えられるようになっているはずだと自負している。あとは放出する際の魔力量を調整するだけだ。
氷の槍なのに爆発して煙が上がるのはなぜなのだろう、とそんなことを考えていた。
「まだ抑制の余地があるな」
ジークハイドが庭に出て来る。仕事の手が空いたらしく、屋敷が破壊されないよう見張りに来たようだ。
「あの的は簡単に破壊できるものではないぞ」
「保有する魔力量は多くても、それを抑制するための魔法は知らないということか……」
独り言のように呟くラゼルに、ジークハイドは肩をすくめる。
「実習をサボるからだ。一年の頃もまともに受けていなかったらしいな」
「よくそれで二年になれましたね」
「他人事みたいに言うな。お前のことだから、講師を買収したんじゃないか?」
「王立魔道学院にも金に弱い講師はいるんですね」
「なぜ他人事なんだ」
実際、自分にとっては他人事だ、とラゼルは考える。二年生に進級したのはラゼルで、どうやって進級したのかを彼は知らない。買収は充分にあり得る話だ。ジークハイドもきっとそう思っているだろう。
「次は自力で進級できそうですね。兄さんが教えてくれているんですから」
「教わっている時点で自力ではないんじゃないか」
「試験自体は自力ってことで……」
ラゼルが誤魔化すように笑うと、ジークハイドは呆れたように小さく肩をすくめて見せる。
こうしてジークハイドと普通に会話をできるようになったのは、ラゼルにとって大きな進歩であった。言葉や声に厳しさは残っているが、屑を見るような鋭い視線ではなくなった。と、ラゼルは思う。まだラゼルを警戒しているのはおそらく変わっていない。それでも、アラベルを虐げることがなくなって、陥れるのではないかという疑いも徐々に薄れてきているようだ。ラゼルから見ればそう感じるが、実際にジークハイドがどう考えているかはわからない。態度が柔らかくなったことに自覚がない可能性もあるが、知らず知らずのうちに関係が改善されていくなら、ラゼルはそれでもよかった。
何度かの練習のあと、小休憩中にラゼルは思い立って言った。
「先日、リーネ・トライトンという人から手紙が届いたんです。誰のことかわかりますか?」
途端、ジークハイドはいつにも増して呆れた表情で目を細める。
「お前に散々絡んでいた光の魔法を持つ平民の女生徒だ」
「ああ……名前まで忘れていたみたいですね」
そんな名前だっただろうか、とラゼルは首を捻る。妹がヒロインのことを語ることがあまりなかったため、名前を聞いてもピンとこない。名前を聞けば思い出せることもあるかもしれないと思っていたが、どうもそう上手くはいかないらしい。もしかしたら妹は自分の名前を入れてプレイしていたのかもしれない。
「リーネ・トライトンはなぜか、入学当初からお前に興味を持っていた。お前も元々平民だし、貴族社会の中で親近感を覚えたのかもしれないな」
「なるほど……」
同じ平民と言えど、ラゼルはもうキールストラ公爵家の一員で、貴族である。身分差が生じたことに変わりはなく、それでも親近感で絡んで来るのは無邪気なのか、それともやはり何か狙いがあるのだろうか。ジークハイドがそう思うならその通りなのかもしれないが、入学当初からということは、あらかじめラゼルのことを知っていた可能性が高い。とは言え、ラゼルは問題児だ。噂話か何かで知ったとしてもおかしくはないのかもしれない。
ジークハイドは、リーネ・トライトンに何か思うことはないようだ。さほど興味を懐いていないように見える。ラゼルがヒロインに嫌がらせをすることでジークハイドが気に掛けるなら、ラゼルがヒロインに関心を持っていないことで何か変わることがあるのかもしれない。入学から夏までのあいだで、ラゼルが悪役令息らしくすることはなかったのだろうか、とラゼルは考える。そもそもラゼルがどんな嫌がらせをするのかは知らないが、ヒロインが入学時からラゼルに興味を懐いているというシナリオとの差異が、何かを変えているのかもしれない。
「散々絡まれておいて覚えていないとはな。よほど興味がなかったらしい。お前は外面がいいから、相手も興味を持たれていないことに気付いていなかったんだろうな」
「レイデン殿下とジェマも気に掛けていたようですが……」
攻略対象の中でも、レイデン王太子と騎士ジェマは、ヒロインが平民であることで嫌がらせを受けていると知って気に掛けるようになるのだろう。そこでふたりが気に掛けなければ話が始まらないと考えると、当然のことなのかもしれない。
「リーネ・トライトンは光の魔法を持つが、平民というところで嫌がらせを受けている。人柄も成績も申し分ないということで生徒会入りすることになるが、生徒会員という肩書きを与えて保護するのが目的のようだ」
ヒロインが生徒会入りする理由はヒロインだからというだけだとラゼルは思っていたが、実際はしっかりと目的があったのだ。確かに生徒会員となれば、生徒会長であるレイデンが目をかけることになる。そんなリーネ・トライトンに嫌がらせをすれば、生徒会に目をつけられるのは間違いないだろう。他の生徒がそれを不満に思い反感を懐いたとしても、レイデンは王立魔道学院の生徒の中で最高位の身分だ。ケチをつけることができる者がいるはずはない。
(そういう狙いだとしたら、権力にものを言わせてるなあ)
ラゼルはそう考えてみたが、リーネ・トライトンが優秀な人であれば、実力で黙らせることもできるようになるかもしれない。
「お前も生徒会入りさせることはできないかとリーネ・トライトンが言っていた」
「僕を、ですか?」
「自分と境遇が似ているからだ、と言っていたが、お前の場合は生徒会入りさせなくても大人しく嫌がらせを受けるなんてこともないだろ」
「それは間違いないですね」
やはりリーネ・トライトンは転生者なのかもしれない、とラゼルは考える。ラゼルを攻略することで何かを狙っている。顔も名前も覚えていないくらい存在を無視していたのは、ラゼル・キールストラは何かに気付いていたのかもしれない。そうであれば、悪役令息の役割を全うする理由がなかったのだろう。ラゼル・キールストラの趣味はあくまで弱い者いじめだ。堂々と絡んで来るリーネ・トライトンをいじめる気が起きなかったのかもしれない。
「リーネ・トライトンに興味が湧いたのか?」
考えに耽っていたラゼルは、ジークハイドの問いに即座に首を横に振る。
「いえ、特には」
転生者だったとしても、特に興味があるわけではない。何が目的かわからない点は気掛かりだが、だからといってヒロインと積極的に接触しようとは思わない。ラゼルは自分の破滅を防げればそれでいいのだから。そのためには攻略対象と良好な関係を構築する必要がある。ヒロインの存在はさほど重要ではない。
「来週から学院生活が再開されますね。僕は合格できましたか?」
「試用期間は延長してもいいかもしれないな」
「じゃあ合格ですね」
「及第点だ」
ジークハイドはまだラゼルのことを認めていないようだが、多少なりとも進展したようだ。希望を持つくらいなら許されるだろう。この調子で良好な関係を築いていきたい。生徒会入りするのも、ひとつの手段としてあり得るのかもしれない。
王立魔道学院での生活もラゼルには楽しみだ。本格的に魔法を学べるのだから。ヒロインが何を狙っているかは警戒する必要があるだろうが、学院生活を楽しみたいという思いのほうが強い。充実した学生生活にしたいと思っている。せっかく前世とはまったく違う世界に転生したのだから、楽しまなければ損だ。ラゼルが悪役令息でなくなったことがどんな影響を及ぼすかはわからないが、ラゼルはとにかく、今世を思う存分に謳歌しようと思っている。そうしなければ勿体無いというものだ。




