第1章 物語の始まり【3】
少しずつ時間をかけてアラベルとの関係を修繕していく中、ラゼルの目下の目標はヒロインの情報を思い出すことだった。ラゼル・キールストラはよほどヒロインに興味がなかったようで、彼にどうやって絡んで来たかすら記憶になかった。ジークハイドは「あれだけ絡まれておきながら」と言っていた。おそらくヒロインは名乗っただろう。それでも思い出せないのは、耳に入ってすらいなかったのかもしれない。
アラベルとの関係は少しずつ良くなっている実感がある。アラベルの微笑みも機嫌を窺うような色が薄くなり、徐々に心を開いていくようだった。
ラゼルは、リリベスの淹れたお茶を嗜みながら自室の窓際で魔法学に関する参考書を読む時間が増えていた。すべてのオタクの憧れである魔法は、思っていた以上に奥が深い。学べば学ぶだけその面白さに引き込まれていった。
「そういえば、僕たちは夏季休暇の課題はないのかな」
ふと問いかけたラゼルに、リリベスはカップにおかわりの紅茶を注ぎながら頷く。
「ありますが、ほとんど自主学習ですわ。記録をつけるようなことはありませんが、休暇明けに試験があります。怠けていたら簡単に見抜かれるでしょう」
「なるほど……。僕も魔法の練習をする必要があるんだね」
「試験をクリアできなければ成績に響きますからね」
ラゼルはこの世界に来てから、魔法学の勉強はしても魔法の練習はしていなかった。ラゼル・キールストラがどれほど魔法を使えるかはわからないが、きっといまのラゼルにとっては楽しい自主練習となるだろう。
コンコンコン、と軽快なノックが鳴る。どうぞ、と応えたラゼルの声でドアを開いたのはメイソンだった。
「ラゼル様。夕食のご用意ができました」
「わかった。すぐ行くよ」
キールストラ家の一員として食卓に着くことにも少しずつ慣れてきて、いまでは呼ばれるのを憂鬱に思うことも減っていた。まだこの世界に来て数日であるため緊張することに変わりはないが、家族との良好な関係の構築は順調のように思えた。ただひとりを除いては。
ダイニングへ向かっている途中、廊下の角からアラベルが顔を出した。ラゼルを見つけて浮かべる笑みは、転生したての頃より怯えた色が薄くなっている。少しずつ心を開いてくれているのだ。
「やあ、アラベル。今日も書籍室にいたの?」
「うん……つい読書に熱中しちゃって……」
「僕も似たようなものだな。ずっと部屋で本を読んでいたよ」
「魔法学の勉強は順調……?」
「おかげさまでね」
アラベルは、ラゼルが魔法学に興味を持ったことを純粋に喜んでいる。それがラゼルには嬉しかった。例え悪役令息だとしても、ラゼルはこの世界で生涯を過ごすことになる。断罪を回避するためだけではなく、友達が増えるのは喜ばしいことだった。
「……ねえ、ラゼル」
アラベルが遠慮がちに口を開く。ラゼルが首を傾げて促すと、俯きながら小さな声で言った。
「ラゼル、たまに……どこか遠くを見ているよね」
「え?」
「僕と話していても、何か……僕を見ていないときがあるような気がする」
ラゼルは思わず口を噤んだ。確かに、この世界でどう生き残るかを考えていることが多かった。自分が悪役令息であること、アラベルたちが攻略対象であること。そういった視点で物事を見ていた。それがラゼルを遠い目にさせていたのだろう。例え悪役令息と攻略対象であっても、ラゼルもアラベルも、この世界に生きるひとりの人間。それを忘れてはならないのだ。
「ごめん……ちょっと考え事しちゃって」
「あ、謝る必要なんてないよ……! 僕も、変なこと言ってごめんね……」
「アラベルこそ、謝る必要なんてないよ。とにかく夕食に行こう」
「うん……」
ダイニングではすでに公爵夫人と義兄が席に着いていた。いつもの席に腰を下ろしながら、ラゼルは相変わらず鋭い視線が左側から注がれることで、まるでシベリアに居るような気分になる。アラベルが心を開いても、ジークハイドからの評価が変わるところまでは至っていない。おそらく、夏休みのうちに改善することはできないのだろう。
最後に公爵がダイニングに来て夕食会が始まる。ラゼルは、義理の母と義理の兄弟に囲まれたこの食卓で平然と食事をしていたラゼル・キールストラには感服するばかりであった。それも、表向きが好青年で通っていたためだろう。
「もうすぐ夏休みが終わってしまうわね」義母が言う。「みんな、寮に行ってしまうなんて寂しいわ」
「子はいずれ親元を離れる」と、父。「それが自立というものだよ」
「けれど、みんな、この家の事業を手伝ってくれるのでしょう? この屋敷を離れることはないのではない?」
ラゼルは、アラベルと顔を見合わせて苦笑する。子離れを寂しく思う親はどこも同じなのだと、少しだけ前世の親を思い出していた。
「この屋敷で暮らすとしても」ジークハイドが言う。「自助自立は必要です」
「卒業までの数年間じゃないですか」
困って笑いながら言うラゼルに、義母はしゅんと肩を落とす。子どもたちのことを心から愛しているようで、そこにラゼルが含まれていることに愛情の深さが感じられた。
僅かに残るラゼル・キールストラの記憶によれば、王立魔道学院の卒業資格は最低三年で取得できる。三年で卒業しても王立魔道学院を卒業したという実績は確かなもので、それだけで能力が高いことを証明することもできる。三年より長く在籍することもでき、それぞれの将来のために必要な知恵、知識を得るため、三年より長く通う者も少なくないようだった。
この和やかな雰囲気の父と義母を見ていると、本来のラゼル・キールストラが貼り付けた笑顔で対応していたことがよくわかる。両親はラゼル・キールストラについて何も知らない。だからこそ、アラベルは苦しみ、ジークハイドはラゼル・キールストラを憎らしく思っている。この両親はラゼル・キールストラを疑うことを知らなかった。あの大惨事は、愛情深さ故の結末なのだ。
「ラゼルとアラベルは、明日は何をして過ごすの?」
気を取り直した様子で義母が問う。ジークハイドは事業の手伝いがあるらしい。
「明日も書籍室にこもろうかと」ラゼルは言った。「魔法学をしっかり頭に入れてから魔法の練習をしたほうが効率も良さそうなので」
「素晴らしい向上心ね。アラベルも一緒に練習してみたら?」
「うん……それは楽しそう」
アラベルは遠慮がちに微笑んでいるが、本心からそう言っていることはよくわかる。それに対して、ジークハイドは疑いの視線をラゼルに投げる。シベリアから脱する日はまだ遠いようだ。
* * *
自室に戻ると、ラゼルは改めて自分のステータスボードを眺めた。異世界転生といえばチート能力だが、ラゼルの能力値に爆発的なものは何もない。闇の魔法に手を出していない現状、ラゼルが得意とする氷属性の魔法がずば抜けているわけでもない。異世界転生だと気付いたときからチート能力には期待していたが、そう易々と叶うものでもないらしい。
(断罪イベントをチートで乗り切れるかと思ってたけど、能力がないなら諦めるしかない場合も考えられるな……)
これからヒロインに断罪されることがあるとすると、氷属性の魔法ではなんとも心許ない。ヒロインは光の魔法を持つ特別な女の子。ただの氷属性の魔法では圧倒的な戦力差があるだろう。
(チート能力がないなら、やっぱり断罪イベントを回避する方法を見つけないといけないってことか……)
この先、ラゼルはすべての攻略対象との良い関係性を構築することを目標としていく。この世界の住人であるラゼル・キールストラとして生きていく。そのためには断罪イベントの回避は必須となる。そのためには、ヒロインとも良好な関係性を築く必要があるだろう。
(他の攻略対象との関係性がどんなものだったか覚えてないけど、良好ではないんだろうな。いまから挽回できる程度だといいんたけど)
ラゼル・キールストラの記憶が薄いのは、攻略対象たちに対する関心のなさによるものなのかもしれない。ラゼル・キールストラはヒロインにも興味がなかった。あらゆるものへの関心が薄かったのだろう。ジークハイドとアラベルとの関係性を覚えていたのは、それなりに関わりがあったため。ラゼル・キールストラは、他の攻略対象に対して自分から関わりに行くような人柄でもない。ある程度の苦労を想定しておくに越したことはないだろう。
考えるのをやめ、ラゼルは本に手を伸ばす。書籍室にあった物語の本で、前世のライトノベルのような軽さはないが、本の虫であるラゼルにはその読み応えがちょうどいい。こうして寝る前の時間、物語の本を読むことが一日の楽しみのひとつとなっていた。この穏やかな時間が終生、続くように。ラゼルはそう願わざるを得なかった。




