第三話
ある日、甘子さまサロンの私のもとを訪ねてくる人がいた。
「はい」
「よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「失礼……」
切れ長の鋭い目で、鼻先が下を向いている長い鷲鼻で、小さいおちょぼ口、顎先が少し尖った女性が長く綺麗な黒髪を翻しながら入ってくる。
「あっ……」
「ごきげんよう、鬼神兵庫さん」
「は、はい……えっと」
「申し遅れました、紫式部と申します」
「ああ、どうも……って、ええっ!?」
私は驚きのあまり、後方に転がりそうになる。
「……大丈夫ですか?」
「え、ええ……」
私はなんとか体勢を立て直す。
「わたくしのことをご存知のようですね、こうしてお目にかかるのは初めてかと思うのですが」
「そ、それはもちろんご存知ですよ、『源氏物語』の作者の方は!」
「お読みいただいているのですか」
「ええ! 『いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。』……」
「ほう……『桐壺』の冒頭ですね」
紫式部さんが嬉しそうに頷く。そう、世界最古の長編小説、源氏物語の最初の巻、『桐壺』の冒頭部分である。これは……いずれの天皇のご治世であっただろうか、女御、更衣が数多お仕えしておられた中に、それほど高貴な身分ではない方で、とりわけ(帝からの)ご寵愛を受けておられる方があったという意味である。
「この冒頭の一文だけをとってみても、優れたお話であるということがよく分かります……!」
「それはいくらなんでも……言い過ぎでは?」
私の言葉に対し、紫式部さんがやや戸惑われる。
「いいえ、いくら言い過ぎても、言い過ぎるということはありません!」
「そうですか」
「そうですとも!」
「では……どういうところが優れているとお思いなのか、御見解を賜りたく
存じます」
紫式部さんが尋ねてくる。
「え、えっと……まず『いづれの御時にてか』、この語り出しは極めてユニークです!」
「ゆ、ゆにいく?」
「はい、物語というのは、『今は昔……』とか、『昔……』という語り出しがポピュラーなのに……」
「ぽ、ぽぴゅらあ?」
「帝のご治世であるということを匂わせています。これによって、読む者は『この物語と現実は地続きなのか?』という不思議な感覚を持ちます」
「ふむ……」
「言い換えれば、物語への没入感を加速させる、物語へぐぐっと引き込まれるのです……!」
「ふむふむ……」
「さらに言い換えれば、シームレスなのです……!」
「し、しーむれす?」
「リアルからフィクションへのスムーズな移行が可能となっています!」
「り、りある? ふぃ、ふぃくしょん? す、すむうず?」
紫式部さんがさきほどから何度か首を傾げておられるが、私は構わず、話を続ける。
「続いて、『女御、更衣あまた候ひ給ひける中に』……これによって、宮中がどういうシチュエーションなのかが分かります!」
「し、しちゅええしょん?」
「もちろん、当時の……いいえ、現在の宮中事情というか、そのバックグラウンドをある程度は把握しているというのが前提条件なのですが……」
「ば、ばっくぐらうんど?」
「それはベリーディフィカルトなことではありますが……」
「べ、べりいでぃふぃかると?」
「把握すれば、するするとアンダースタンド出来ます!」
「あ、あんだあすたんど?」
紫式部さんがなおも何度か首を捻っておられるのだが、私は構わず、話を続ける。
「最後の、『いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり』……これによって、ヒロインである桐壺の更衣の宮中内におけるヒエラルキーのハイアンドローが分かります……!」
「ひ、ひろいん? ひ、ひえらるきい? は、はいあんどろう?」
「……これが私が源氏物語のオープニングがブリリアントだと感じるオピニオンです……!」
「お、おうぷにんぐ? ぶ、ぶりりあんと? お、おぴにおん?」
「いかがでしょうか!?」
「……えっと……熱意はよくよく伝わって参りました……」
紫式部さんが何故なのか戸惑い気味に頷かれる。
「伝わりましたか! 私のパッション!」
「ぱ、ぱっしょん?」
「もう、この一文だけでなくですね……ああ、さすがに暗誦は無理なので、読み上げさせてもらいますね!」
「は、はい……」
私は机に置いてあった、源氏物語の『桐壺』の写本を手に取る。
「『はじめより我はと思ひ上がり給へる御方方、めざましきものに、おとしめそねみ給ふ。
同じほど、それより下臈の更衣たちは、まして安からず。
朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いとあつしくなりゆき、もの心細げに 里がちなるを、いよいよ飽かずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせ給はず、世の例にもなりぬべき御もてなしなり。
上達部、上人などもあいなく目をそばめつつ、
いとまばゆき人の御覚えなり。唐土にも、かかることの起こりにこそ、世も乱れ悪しかりけれと、
やうやう、天の下にもあぢきなう、人のもて悩みぐさになりて、楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにて、交じらひ給ふ。
父の大納言は亡くなりて、母北の方なむ古の人の由あるにて、親うち具し、さしあたりて世の覚え華やかなる御方々にもいたう劣らず、何ごとの儀式をももてなし給ひけれど、取り立ててはかばかしき後ろ見しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。
前の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子さへ生まれ給ひぬ。
いつしかと心もとながらせ給ひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる児の御容貌なり。
一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなきまうけの君と、世にもてかしづき聞こゆれど、この御にほひには並び給ふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物に思ほしかしづき給ふこと限りなし。
はじめよりおしなべての上宮仕へし給ふべき際にはあらざりき。
覚えいとやむごとなく、上衆めかしけれど、わりなくまつはさせ給ふあまりに、さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、まづ参上らせ給ふ、ある時には大殿籠り過ぐしてやがて候はせ給ひなど、あながちに御前去らずもてなさせ給ひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、この皇子生まれ給ひてのちは、いと心異に思ほしおきてたれば、坊にも、ようせずは、この御子の居給ふべきなめりと、一の皇子の女御は思し疑へり。
人よりさきに参り給ひて、やむごとなき御思ひなべてならず、皇女たちなどもおはしませば、この御方の御諌めをのみぞなほわづらはしう、心苦しう思ひ聞こえさせ給ひける。
かしこき御蔭をば頼み聞こえながら、おとしめ疵を求め給ふ人は多く、わが身はか弱くものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞし給ふ。御局は桐壺なり。』」
「……」
源氏物語を紫式部さんの前で朗々と読み上げてしまった……!なんと畏れ多いことを……!というか、古文特有のくずし字もスラスラと読める……。いや~あらためて転生って便利だな~。ちなみに訳は割愛する。かいつまんで言うと、ヒロイン桐壺の更衣が帝から大変なご寵愛を受けて、周囲から嫉妬される。容姿の優れた皇子(主人公の光源氏!)を生み、帝からはますます大切にされるが、周囲からの目は一層厳しいものとなって、気苦労が増える……というようなことだ。すごいかいつまんだけど。私は写本を置いて、紫式部さんの方に向き直る。
「……と、とにかくですね!」
「は、はい……」
「この文章を壮大なミュージックに乗せて、黒地の画面に黄色い文字でオープニングクロールとして流したいくらいなんですよ!!」
「みゅ、みゅうじっく? おうぷにんぐ、く、くろうる?」
「それくらい見事な文章です!」
「ど、どうもありがとうございます……」
紫式部さんが頭を下げられる。
「ああ! 頭をお上げください!」
「……わたくしからも簡潔にではございますが感想を……」
紫式部さんが頭を上げられる。
「?」
「つい最近発表なされたあの漫画、たいへん面白うございました」
「あ、ああ……」
「犬と猫の目線から人の世のさまざまなことを捉えて、あれこれと会話させる……犬や猫にとってみれば、人のことなどすべてが不思議に映るのでしょうね。ひとつひとつのお話が短くまとまっているのも良かったです」
「あ、ありがとうございます……」
「ですが……」
「ですが?」
「長いお話も見てみたいと思いました」
「ああ、そうですか……」
私は自らの後頭部を抑える。紫式部さんが付け加える。
「読んだ者の勝手な意見です」
「……実は」
「実は?」
「うさぎときつねとたぬきも登場させようと思っております」
「! まあ、それはそれは……」
「そういう考えなのですが、なかなか難しいですね」
「……出来ますよ」
「え……」
「短期間でこれだけの漫画を描ける方ならば、きっと描けます。労力に見合った成果は必ずやもたらされるはずです……」
「そ、そうでしょうか?」
「ええ、うさぎときつねとたぬき、楽しみにしております……」
「!」
紫式部さんが私に向かって、にっこりと微笑んだ。
「それでは、今日はこの辺で……」
「はい……」
「またお話をしましょう、失礼……」
紫式部さんがその場を去る。
「……よし!」
私は筆を執って、真っ白な紙に向かうのだった。
お読み頂いてありがとうございます。
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