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第七話 執着の深淵

本日二度目の投稿です。前話をまだご覧になっていない方は、ぜひそちらもお読みください。

 窓の外では、木々の緑が芽吹き始め、優しい春風が吹き抜けていた。それまで何カ月も続いたつわりが、嘘のようにぱたりと収まったことにオリヴィアは気づいた。つわりの間は、自室のテーブルで軽いスープばかり口にしていたが――。


「……食べられる……!」


 それまで一口も食べられなかった濃厚なシチューの香りが、今はなんとも心地よく感じられる。オリヴィアは長らく口にしていなかった好物を、ここぞとばかりにシェフに希望し、意気揚々とテーブルについた。


「これも、それも、それからあのパイも……!」


 妊娠初期のつわりで激減した体重を取り戻すため、オリヴィアは片っ端から好きなものを食べていく。その様子を見守るローランドの目は、まるで子犬のようにキラキラと輝いていた。


「ふぅ、美味しかった……」

「オリヴィア、紅茶を飲むかい?」

「そうね、いただこうかしら」

「!! ああ!」


 ローランドは勢いよく立ち上がり、張り切って紅茶の用意を始める。オリヴィアは、てっきり侍女を呼んで指示するのだと思っていたが、彼が自らポットを取り出しているのを見て目を見開いた。


「え? あなた、紅茶を淹れられるようになったの?」

「最近覚えたんだ。君が飲みたい時に、すぐに淹れられるようにって」


 ローランドが淹れてくれた紅茶は、侍女たちにも引けを取らない出来栄えだった。それにしても、公爵家の嫡男が紅茶を淹れるなんて、聞いたことがない。


「あなたって、尽くすのが好きなの?」

「ああ、そうみたいだ」

「無理してないならいいのだけど」


 オリヴィアの隣に座ったローランドは自分のカップを手に取り、オリヴィアの方に軽く掲げて微笑んだ。

「君の笑顔が見られるなら、何だってするさ」


 オリヴィアは紅茶を口に含み、ふわりと笑った。久しぶりに感じる、穏やかな時間だった。オリヴィアは少し大きくなったお腹をさすりながら、ローランドと穏やかに話していた。


「ローランド、つわりの時はごめんなさいね。あなたにそっけなくしてしまって」

「仕方ないさ。君は子を産むという重大な仕事をしているんだ。気にしなくていい」

「ありがとう」


 オリヴィアは微笑むと、ローランドの腕にぎゅっと抱きついた。その瞬間、ローランドの顔がぱっと明るくなる。


 「オリヴィア……」

 彼は嬉しそうに微笑み、オリヴィアの髪をそっと撫でた。そして、額に優しくキスを落とすと、少しだけ真剣な表情を見せた。


「さっきの、尽くすのが好きという話だが……」


 ローランドの声が一段低くなる。


「実は、王家と公爵家だけに伝わる話があるんだ。公爵家は王家の分家だからね。代々伝わってきた伝承なんだが――レグナス王家の始祖は竜人だったそうだ」

「竜人?」

「ああ」


 オリヴィアは眉をひそめる。抱きついていた手をゆっくり緩め、体を起こしてローランドを見つめる。


「それって、レグナス王国の建国のおとぎ話よね? 竜人の子供が銀の花から生まれて、レグナス王国を建国したっていう?」


 オリヴィアは半ば笑うように言ったが、ローランドの瞳は揺るぎなく真剣だった。


「そう、それだ。子供の頃に父上から聞かされた時は、私もただのおとぎ話だと思ってた。でも、オリヴィア――君に出会ってから、考えが変わったんだ」

「私に?」

「ああ。あれはもしかしたら、本当なんじゃないかって」

「え、じゃあ、あなたは竜人の子孫ってこと?」


 ローランドは苦笑いを浮かべた。


「まあ、建国から二千年も経っているから、血は薄まっているだろうけどね」

「えええ? じゃあ、お腹にいるこの子も、竜人なの? ふふっ、そうだったら面白いけど」


 オリヴィアはお腹を撫でながら笑った。

「この子にもし、しっぽや鱗が生えていても、私はこの子を愛するわよ」


 ローランドもふわりと笑い、オリヴィアの手の上にそっと自分の手を重ねる。もう片方の手は、オリヴィアの肩に優しく添えた。


「そうだな。一緒に愛していこう」


 ローランドはオリヴィアの頬に優しくキスした。二人の間に、静かな時間が流れる。


「竜人の血を引く者には、(つがい)という運命のパートナーがいるらしい。それは生涯にたった一人しか出会えない唯一無二の存在。竜人はその番を感じ取ることができる。そして、番に尽くしたくなるものらしい。私みたいにね。私は早い時期に君と出会えてよかったよ」


 窓の外では、さっきまでの陽射しが嘘のようにかすみ、空がどんよりと曇っていた。


「早い時期?」

「……父上からは、番に出会えるまでの猶予を三十歳までいただいていたんだ」

「えっ? じゃあ、結婚もせず、婚約者も作らなかったのはそのためなの?」

「我が家では、三十歳までは結婚せずに番を探すことになっていてね。早く出会えればいいけど、誰もがそううまくいくとも限らない。……だから、三十歳が一つの節目なんだ」

「……おとぎ話にしては、妙に具体的ね……」


 オリヴィアの喉がひどく乾いた。ローランドの瞳に宿る光が、どこか怪しげなものに見える。

 そのとき、不意に窓の外で雷鳴が鳴り響いた。遠く、小さな地響きのようなものが聞こえた。静かに雨が降り始める。


「そうだね。今から考えると、父上の異常な母上への執着も、そういうことだったんだろうな」

「え?」


 ローランドは立ち上がり、開け放たれていた窓を静かに閉めた。外では雨音が勢いを増し、雨粒が窓ガラスを激しく叩いている。彼は振り返り、オリヴィアの方に顔を向けて口を開いた。


「君と出会ってようやく理解したよ。君がレグナス王国に来てくれて、出会えてよかった」


 ローランドの瞳は優しさと情熱で満ちている。けれど――オリヴィアの背筋に、冷たいものが走った。これは、おとぎ話のはずだ。竜人なんているはずがない。そうオリヴィアは考えようとしたが、彼の優しさの奥に底知れぬ深淵が潜んでいるような気がした。オリヴィアは、そっと目を伏せた。

 彼の碧眼が、オリヴィアをまっすぐ見つめる。彼はゆっくりと歩み寄り、オリヴィアの隣に腰を下ろした。そして、再びその肩を抱きしめる。


「……でも、番と出会えなかった竜人は、心を失ってただ生きながらえるだけ、なんだそうだ」

「ただ生きながらえるだけ……?」

「ああ。番に出会えなかった竜人は、生きながらにして死んでいるようなものだと。生きる意味もなく、心に何も響かず、人生が色を失うらしい」


 ローランドの声がひどく低く響いた。その手は彼女の肩を掴むように、じわりと力を込め始めていた。

オリヴィアは思わずローランドの顔を見上げた。整い過ぎたその顔は、まるで感情のない人形のように無機質で、不気味にさえ感じられた。

 

「でも、番に出会ってしまった場合も危ういんだ。竜人は、その番と結ばれなければ、心が壊れてしまう。例え番に拒絶されても、竜人の心はその相手しか見えなくなる。そして――その執着が、狂気に変わることもある」


 黒い空が鳴った。バリバリと空を裂くような雷鳴が遠くから響き、窓ガラスが微かに揺れた。それと同時に、空気がひんやりと変わった気がした。

 オリヴィアの背筋がぞくりと震えた。ローランドの手は彼女の肩を包み込んでいるが、その手の温かさが徐々に重く、圧迫感すら感じられる。


「でも……それって、ただのおとぎ話よね?」


 オリヴィアは引きつった笑みを浮かべながら、ローランドの手をそっと振り払おうとした。しかし、彼の手はびくともしない。


「そう、あくまでおとぎ話だ。竜人が存在した証拠も、番という概念が証明されたこともない。誰も本当のところは分からない」


 ローランドは苦笑して、オリヴィアの耳に優しく唇を寄せ、ゆっくりと囁いた。


「でも――もしそれが本当だとしたら、君は私の番なのだろうな」


 囁き終えると、オリヴィアの耳元から唇を離し、ローランドはゆっくりと身を引いた。再び彼女の瞳をじっと見つめる。オリヴィアは、喉元がひどく乾いた気がした。ローランドの腕の中にいるのに、彼の言葉がどこか遠い場所から響いてくるようだった。


「番を失った竜人は、多くの場合、発狂して死ぬ――だから、絶対に離さないんだ」


 その言葉が終わった瞬間、閃光が窓の外を照らし、部屋の中まで真っ白に染め上げた。彼の顔が暗がりの中で照らされ、陰影が深くなった。その影の中の瞳にはどこか狂気じみた執着が宿っていた。直後に、地を揺るがすような雷鳴が叩きつけるように響き渡る。

 思わずオリヴィアは肩をすくめ、肺の奥まで震えるような衝撃に息を呑んだ。すぐ近くに雷が落ちたのかもしれない。まるで外にいるような大きな雨音が、室内にまで響いてくる。逃げ場のない恐怖が押し寄せてきた。

 

 暖かい日なのに、オリヴィアは寒気がした。ローランドは強く彼女の肩を掴んでいる。まるで逃がす気がないように。その手を見ながらオリヴィアは思った。


 (私……早まったんじゃないかしら?)


 竜人の狂気――それは、彼の瞳の奥にも潜んでいるのだろうか。

 オリヴィアはゴクリと唾を飲み込んだ。


「――なんてね」

「え?」


 ローランドは、ふいに声を上げて笑った。


「はは、まさか信じたのかい?」

「やだ! もう、びっくりしたじゃない」

「はは」


 ローランドはふわりと微笑んでいる。でも、オリヴィアは胸の奥に冷たいものが残っていた。


 (冗談……だよね?)


 彼の瞳に一瞬浮かんだ狂気が、どうしても忘れられなかった。

 窓の外では、まだ春の嵐が続いている。


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