第六話 芽吹く未来
加筆修正をしていたら文字数が増えてしまい、当初予定していた全10話完結から少し話数が増えることになりました。
本日は21時にも投稿します。よろしくお願いします。
乾いた冬の風が窓の隙間から入り込み、薄いカーテンを揺らしている。オリヴィアは部屋の片隅で、温かな紅茶の香りを嗅いでいた。だが、その香りが突然、鼻に突き刺さるように感じられた。
「おえええええ!!!」
オリヴィアは慌てて口を押さえ、駆け足で洗面所に向かう。それを見た侍女たちは顔を見合わせ、心配そうに声をかけた。
「奥様、大丈夫ですか?」
「今朝は、お食事が喉を通らなかったようですが……」
水で口をすすぎ、オリヴィアはふらつく足取りで洗面台に手をついた。鏡越しに自分の青ざめた顔を見つめる。そこにローランドが廊下を走ってやってきた。
「オリヴィア、どうした!?」
オリヴィアの近くにそっと寄り添ったその時。
「おえええええ!」
「オリヴィア!?」
オリヴィアは勢いよくローランドを突き飛ばし、そのまま洗面所の扉を閉めた。
ガチャリ。鍵を閉める音が響く。
「オリヴィア……?」
「お願い! ローランド!! 近づかないで!!」
ローランドは、扉の前で立ち尽くした。真っ青な顔色のまま、扉の向こうを見つめている。
「オリヴィア……」
彼の胸の中で、冷たい不安がざわめいていた。
「くさいの! どこかへ行って!! お願い!!」
(私の匂いが……くさい……?)
フラフラと足元がおぼつかないまま、部屋を後にする。すぐに医者が呼ばれ、オリヴィアの妊娠が告げられた。
「妊娠初期は、匂いに敏感になることがよくありますから」
医者の言葉に、ローランドはようやく肩の力を抜き、安堵の息を吐いた。
「そ、そうだったのか……」
だが、その胸にはまだあの言葉がこびりついていた。
(くさいって……私の体臭のことだろうか?)
翌日。
ローランドはオリヴィアの部屋に向かう前に、新しい香水をたっぷりとつけていた。まるで「くさい」と言われたことがショックで、逆に匂いを消そうとしているかのように。
「ローランド、その匂い……」
「どうだい? 香水を変えてみたんだ。昨日よりいいだろう?」
ローランドは爽やかな笑みを浮かべ胸を張る。だが、オリヴィアの顔色は見る間に青ざめていく。
「近寄らないで!」
「えっ?」
オリヴィアは口元を手で押さえ、後ずさる。
「……ごめんなさい。昨日もそうだったけど、匂いがきつくて……吐きそう……」
「は、吐きそう?」
ローランドは急いで自分の腕の匂いを嗅いだ。
(香水の匂いしか感じない……もしかして、自分では気づいていないだけで、私の体臭はそんなにくさいのか?)
ローランドの目が潤む。
「ええ、あなたの香水。強すぎて……」
その瞬間、ローランドの胸にずっと重く残っていた言葉の意味が腑に落ちた。
(そうか、オリヴィアが言った『くさい』は私の体臭じゃなくて、香水のことだったのか――)
ほっと胸をなでおろした。
それ以来、ローランドは香水を一切つけなくなった。使用していた高級香水は使用人たちに分け与えた。だが、それでも時々、自分の腕や肩口をくんくんと嗅いでは、「……いや、大丈夫だよな?」と何度も確認しているのだった。
***
その日、オリヴィアはつわりのせいでベッドに横たわっていた。枕元には果実水やハーブティーが置かれているが、見るだけで吐き気がこみ上げる。起きている時はずっと気持ちが悪く、寝ている時間がほとんどだった。
「オリヴィア」
夫のローランドは、日に何度もオリヴィアのところに様子を見に来る。話そうとするだけで吐き気がこみあげてくるオリヴィアは、口数が減っていた。
「具合はどうだい?」
「……大丈夫」
「果実水でも飲む?」
頭を振って拒否する。ローランドがオリヴィアの髪の毛を優しくなでる。オリヴィアはうっとうしく感じて振り払いたい気持ちだったが、ぐっと耐えた。誰も悪くない、これはつわりのせいだ。
「じゃあハーブティーは?」
「……今はいいわ……」
「冷たい水は?」
「……いらない……」
「スープもあるが?」
オリヴィアが布団を頭からかぶって、無言の抗議。
「もう行って、ください……うっぷ」
「わ、わかった」
妊娠してからというもの、四六時中気持ちが悪く、あらゆる刺激が吐き気に繋がるつらい日々だった。次期公爵夫人としての仕事も何もできず、オリヴィアは自己嫌悪に陥っていた。
一方、ローランドは何もしてあげられないことがもどかしく、さらにオリヴィアに避けられているような気がしてしょんぼりしていた。
つわりの期間中、二人は寝室を分けることになった。オリヴィアは一人で寝る方が気楽だったし、お互いに気を遣いすぎて疲れるより、別室で休んだ方が良い距離を保てると提案したのだ。
しかし、ローランドは最後まで抵抗を見せていた。
「でも……ちょっとにおいが」とオリヴィアが言いかけると、「分かった! 部屋を分けるから、それ以上は言わないでくれ」と、うるんだ目で即答してきたのだった。
ある夜、オリヴィアが一人で眠っていると、不意に何かの気配を感じた。額に柔らかな感触がして、目を覚ます。
「……?」
暗い室内でぼんやりと浮かび上がるのは、ローランドの姿だった。
オリヴィアが目を覚ましたことに気づかないまま、ローランドは彼女の頬や額にそっとキスを落としている。そして、最後にぎゅっと抱きしめると、そのまま静かに立ち去った。
(寂しかったのかな……)
昼間はつわりのせいで、最近はローランドとまともに話すことさえできていない。まさか、寝ている間に来ていたとは。
彼の動きはあまりにも手慣れていて、これはきっと、今夜が初めてではない。毎晩、こうして来ていたのだろう。常習犯だ。
彼らしい行動にくすっと笑みがこぼれる。オリヴィアは寝返りをうちそっと目を閉じた。
(早く、つわりが終わらないかな)
そして、今度は自分からローランドを抱きしめてあげたいと思った。