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第五話 変わるものと、変わらないもの

 オリヴィアが婚約を承諾すると、すぐに婚約は整った。オリヴィアはレグナス王国に滞在したまま結婚式まで過ごすことになり、公爵家本邸に部屋を与えられて迎賓館から移動した。

 王都の大聖堂での挙式が正式に決まり、婚礼衣装も完成している。国内外への招待状もすでに発送済みで、すべてが順調に進んでいた。


 季節は過ぎ、秋の涼しい風が吹き始めた頃。結婚式を一か月後に控えたオリヴィアは、公爵邸の屋上にある展望スペースに立っていた。手すりに手をかけ、遠くに広がるウィンターガルド領の港と街並みをじっと見下ろしている。風が吹き抜け、ローズゴールドの髪が静かに揺れた。

 オリヴィアの傍らに現れたのは、ローランドだった。彼は静かな足取りで、彼女を驚かせないようにそっと近づいてきた。


「どうしたんだい? オリヴィア」


 仄暗い瞳を宿す青年の声は、穏やかでありながらもどこか不安げだ。彼の口元にはいつものように柔らかな笑みが浮かんでいるが、その碧眼は普段よりも暗く翳っている。オリヴィアは、風に吹かれながら遠くの空を見上げた。そして、静かに口を開いた。


「ねえ、ローランド」

「ああ」


 彼は名前を呼ばれることにすら喜びを感じるように、嬉しそうに返事をする。だがオリヴィアの瞳には、寂しげな色が滲んでいた。


「私、なぜ外交官になれなかったの?」

「……え?」


 ローランドの笑みが、かすかに揺らぐ。

 オリヴィアは婚約が成立してからずっと、このことを考えないようにしていた。考えても無駄だからだ。それよりも、公爵夫人になってから自分に何ができるのかを考えるようにしてきた。けれど、結婚式の招待状の返事の中で、エルセリア王国で初の女性外交官が誕生したというニュースを聞き、胸がざわついた。


(それは、自分がつかむはずだった夢なのに……)

なぜ、自分だけが外交官になれなかったのかと。


「ずっと、夢だったの。外交官になって、世界を飛び回ること。そのためにいろんな国の言葉を学んで、歴史も文化も、必死で覚えたわ。でも、その努力はどうなるの? 私の夢は、どこに行くの?」


 オリヴィアの声が震える。風に舞う髪を押さえながら、彼女は瞳を伏せた。涙がこぼれそうになっているのを必死で堪えている。


「あなたに選ばれたことは分かってる、分かってるけど……私にも夢が、あったのよ。あなた、それを考えたことがある?」


 彼女は肩を震わせながら、まっすぐにローランドを見た。その姿に、ローランドは息をのむ。


「私は、何のために努力してきたの? ねえ、教えてよ……ローランド……」


 ローランドは言葉を失ったまま、彼女の顔を見つめる。その碧眼には、今にも泣き出しそうな苦しさが滲んでいた。


「祖母がね、職業婦人になりたかったの。でも、時代のせいで叶わなかった。けれど、祖父と出会って結婚して……祖父の外交活動を手伝っていたの。祖父は有能な外交官だった。でもね、ある時、交渉が決裂しかけたことがあって……」

「……」


 オリヴィアの瞳は遠くを見据え、まるでその場を見てきたかのように、祖母から聞いた出来事を語り始めた。


「祖父と交渉相手が激しく言い争って、雰囲気は最悪だった。もう、このまま終わるかと思ったその時、祖母が……」

「その時?」

「祖母がね、相手国の文化を讃えるように振舞って、その場の空気を和らげたの。祖母は言ってた。私ももっと世界中を飛び回って、人と人を繋げたかったって。でも、祖父のサポートを選んだのよ、と微笑んでた。だから私は、祖母の代わりに、その夢を叶えたかったんだ」


 ローランドは無言で彼女を見つめる。彼の手がゆっくりとオリヴィアの肩に伸びるが、触れる寸前で止まった。


「なぜ、私だったの? 私じゃなくても、良かったんじゃないの?」


 オリヴィアの言葉と同時に、ぽろぽろと涙が頬を伝い落ちた。オリヴィアには分からなかった。彼女でなければならない理由が。もっと美人はいくらでもいると。


「もし、たまたまタイミングが合っただけなら……私を解放してほしい」


 ローランドは強く唇を噛みしめる。彼女が自分の存在価値を疑うその声が、彼の胸を締め付ける。視線を外し、一瞬空を仰いだ彼は、ようやく声を絞り出した。


「……オリヴィア。君のことを、もっと分かっているつもりだった。だけど……私は、ただ自分のことばかり押し付けていたのかもしれない」


 彼女の瞳を真っ直ぐ見つめる。


「君の話を、もっと聞くべきだった。……すまない、オリヴィア」


 オリヴィアは驚いたようにローランドを見上げる。その顔には戸惑いと切なさが混じっていた。


「……でも、君を手放すことはできない。君じゃないとダメなんだ」

「え?」

「外交官になれる人はたくさんいる。でも、ウィンターガルド公爵家の次期夫人になれるのは君だけなんだ。初めて見た時から、君しか見えなかった。君を愛してるんだ」


 彼の言葉は、風に乗って優しく彼女の耳に届いた。オリヴィアの心臓が、大きく跳ねる。


「君が隣にいてくれないと、私は何をしでかすか分からない。君次第で、名君にも暴君にもなれる。ウィンターガルドの二十万人の民のためにも、君が必要なんだ。……オリヴィア」


 ローランドの瞳には、今まで見たことのないような強い光が宿っている。その目を見つめたまま、オリヴィアは唇を噛みしめ、涙を堪えた。


「ずるいよ、ローランド……」


 彼女の頬を涙が伝い落ちる。


「君が手に入るなら、どんな卑怯なことだってするさ。君を手に入れるためなら、何だってする――」


 ローランドの言葉に、オリヴィアの胸が締め付けられる。その目の奥にある執着と狂気――だが、彼女を愛する想いが痛いほど伝わってきた。


「君を世界中に送り出すことはできないが、レグナス王国でその力を活かしてくれないか? 前にも言ったが、公爵夫人の役割には、外交官のような仕事も含まれている。ウィンターガルド領の民のために、人と人を繋ぎ、支えてほしい」


 オリヴィアは、大きく息を吐き、微笑んだ。分かっていた。彼の気持ちの大きさは。でも、自分の夢を諦めるのは簡単じゃなかった。最後の悪あがきだとしても、言わずにはいられなかった。そしてローランドをまっすぐ見つめた。自分は、外交官ではなく、公爵夫人として生きていく――。そう、決意を胸に抱きながら、オリヴィアはローランドをまっすぐ見つめた。


「そうね、外交官になる夢は……公爵夫人になる夢に変えてあげてもいいわ。だって、あなたがこんなに必死に私を選んでくれたんだから。なら、私は公爵夫人として……最高の夫人になるわ!」


 ローランドの瞳が驚きに揺れる。


「オリヴィア……」

「でも!」


 オリヴィアは涙の跡を拭いながら、指を一本立てた。


「覚悟してよね? 私は中途半端な夫人にはならない。言葉も文化も、外交術も、気品も、全部身につけるわ! でもまずは――」


 オリヴィアは勢いよくローランドの胸を指で突きながら言った。


「毎日、私に愛をささやくことを忘れないでね? あなたが選んだんだから、責任取ってもらうわよ! 浮気なんかしたら許さないんだから!」


 ローランドは一瞬目を見開き、すぐにくすっと笑った。


「もちろんだ。オリヴィア、君のために、毎日言うよ。愛してる、君だけを」

「それと――」


 オリヴィアは指を一本立てて、彼の鼻先に突きつけた。


「私の自由は絶対に奪わないこと。分かった?」


 ローランドは一瞬、目を見開き、そして笑った。


「はは、オリヴィア」


 彼の胸に強く抱きしめられ、オリヴィアは静かに目を閉じた。彼の鼓動が彼女の耳元で響く。強く、温かく、そして少し不安げに。


「……でも、片足を縛るのもダメかい?」

「ダメに決まってるでしょおおおお!!!」


 オリヴィアの絶叫が、展望スペースに響き渡った。その声を聞いて、屋上の出入口付近に控えていた侍女たちは顔を見合わせた。


「また、何かあったのかしら……」


 そんなつぶやきも、風に消えていった。


***


 雲一つない青い空。空までもが今日の二人の結婚を祝っているかのようだった。王都の中心にそびえる大聖堂。白亜の尖塔が天に向かってそびえ立ち、光がその壁面に反射して眩しく輝いている。聖堂の扉の奥では、来賓たちがぞろぞろと集まっており、華やかな衣装が咲き誇る花のように彩りを添えていた。

 その賑わいとは対照的に、大聖堂の控室は静寂に包まれていた。窓から差し込む光が、白いレースのカーテンを揺らし、純白のドレスを一層引き立てている。オリヴィアは鏡の前に立ち、緊張した面持ちでドレスの裾を整えていた。ローズゴールドの髪は丁寧に編み込まれ、繊細な髪飾りが輝きを添えている。しかし、その瞳はどこか遠くを見つめていた。


 控室にはサリスタン伯爵家の家族が集まっている。オリヴィアの母は目を潤ませながら娘の肩に手を置き、父は胸を張って誇らしげに頷いている。


「オリヴィア! 本当にきれいだ。ローランド様も君の姿を見たらきっと……」

「素敵なドレスを用意してもらって良かったわね。まるでお姫様みたいよ」


 両親の温かな言葉にオリヴィアは微笑んでみせるが、その笑顔はどこかぎこちなかった。そんな様子を、部屋の隅で静かに見守っているのは、祖母――サリスタン元伯爵夫人。彼女は控えめに立ち、孫娘の様子を見つめている。

 両親が退室し、扉が閉まると、一瞬の静寂が訪れた。その沈黙を破るように、祖母はゆっくりと歩み寄り、オリヴィアの肩に優しく手を置く。


「オリヴィア……素敵よ。立派な次期公爵夫人の顔になったわね」


 祖母の声は穏やかで、包み込むような温かさがあった。


「……本当に?」


 オリヴィアは鏡越しに祖母の瞳を見つめる。その瞳は、不安と戸惑いで揺れている。


「おばあさま……」


 オリヴィアは唇を噛みしめ、目を伏せた。


「私、おばあさまの夢を叶えられなくて、ごめんなさい……」


 祖母の眉が僅かに上がり、意外そうな表情を浮かべる。


「私の夢?」

「うん……」


 オリヴィアは声を震わせながら続ける。


「私、ずっとおばあさまの願いを叶えたかったの。外交官になって、人と人を繋ぐっていう、あの夢を……」


 祖母は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべた。


「あらまあ、そんなことを考えていたのね」


 彼女は孫娘の手を取り、そっと握りしめる。


「オリヴィア、私の夢はね、もうずっと前に叶っているのよ」

「え……?」


 オリヴィアの目が困惑に揺れる。


「確かに、若いころは外交官になりたいと思っていたわ。でも、あの人――おじいさまに出会って、私は恋をしたの。それから、私の夢は変わったのよ。あの人を支えること、子供たちを立派に育てること。いまでは孫も立派に育って、そして今日、オリヴィアが次期公爵夫人として立つのだから」


 祖母の声は優しく響き渡り、控室全体がその温かさに包まれるようだった。


「想像以上に、素敵な人生になったのよ」


 祖母の手が、オリヴィアの頬を優しく撫でる。


「夢っていうのはね、変わっていってもいいの。あなたも、無理に昔の夢に縛られることはないのよ」


 オリヴィアの胸に込み上げていた感情が、じわりと溢れ出す。瞳の奥に滲んだ涙を見せまいと、彼女は必死にまばたきを繰り返した。


「立派な公爵夫人。それが、あなたの今の夢よね? それでいいのよ」

「でも……」


 オリヴィアは唇を震わせながら言葉を絞り出した。


「外交官になるために、私、たくさん勉強したのよ。あの努力は……無駄になったのかな……」


 祖母はオリヴィアの頬に手を添え、優しく頷く。


「無駄なんかじゃないわ。その努力があったから、今のあなたがいるの」


 オリヴィアの目から、涙が一筋こぼれ落ちた。祖母はその涙をそっとハンカチで拭い取りながら、ふんわりと微笑む。


「あなたの夫になる――ローランド様。あの方は人の心を動かすのが少し苦手なようだからね」


 祖母はぱちりと片目をつぶり、ウィンクしてみせた。


「あなたが外交官のように、彼を支えてあげればいいのよ」


 オリヴィアは祖母の言葉にハッと息を飲む。夢は消えたわけじゃない。形を変えて、新しい場所で活かされていく。そう思うと、心が少しだけ軽くなった気がした。オリヴィアは祖母の手を握り返し、力強く頷いた。


「……ありがとう、おばあさま」


 祖母は柔らかく微笑み、孫娘の髪をそっと撫でる。


「さあ、行きましょう。あなたの旦那様が首を長くして待っているわ」



 祝福の鐘が高らかに鳴り響いていた。大聖堂の礼拝堂にはヴァージンロードが敷かれ、その先に立つのは、ウィンターガルド公爵家次期当主のローランド・ウィンターガルド。彼の隣には、純白のドレスに身を包んだオリヴィアが立っている。緊張した面持ちの彼女の手を、ローランドはしっかりと握りしめていた。まるで彼女を逃がさないように――。

 オリヴィアの顔を見つめるローランドの視線は、一点の曇りもない。その眼差しは、周囲の誰にも隠そうとせず、彼女への執着をあからさまに示していた。その様子に、周囲の貴婦人たちは思わず頬を赤らめる。


 (あんなふうに見つめられたら……)

 誰もが憧れるような視線の先には、オリヴィアしか映っていない。


 それは貴族社会全体を揺るがす婚礼だった。式は国内屈指の豪華さで行われ、王都の貴族たちはこぞって出席した。王家に次ぐ公爵家の次期当主と、他国の伯爵令嬢との婚礼。瞬く間に世の女性たちの憧れの的となり、社交界の話題は二人の結婚で持ちきりになった。

 長らく敵対していたエルセリア王国との友好の懸け橋として、この結婚は政略的なものと囁く者も少なくなかった。しかし、ローランド・ウィンターガルドのオリヴィアへの過剰なまでの溺愛ぶりを目にした貴族たちは、その考えを否定せざるを得なかった。彼の視線は、常にオリヴィアだけを追いかけていたからだ。式の最中、オリヴィアの手を握りしめ、目を離さないローランドの姿に、周囲の貴婦人たちは頬を赤らめるほどだった。


***


 結婚式から一年が過ぎた冬の午後。公爵邸の庭園の木々は葉を落とし、乾いた空気が肌を刺すように冷たい。その静寂を引き裂くように、突如、鋭い叫び声が響き渡った。


「お願い! ローランド!! 近づかないで!!」


 ローランドは、閉ざされた扉の前で立ち尽くした。真っ青な顔色のまま、乾いた風を吸い込みながら、扉の向こうを見つめている。


「オリヴィア……」


 彼の胸の中で、冷たい不安がざわめいていた。




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