第三話 囚われた花嫁候補
静寂が広がる迎賓館の広間。長いテーブルの中央にぽつんと座り、一人朝食をとるオリヴィア。昨夜までは確かに使節団の仲間たちが賑やかに食事をしていたはずなのに、今は彼女一人だけだ。カトラリーの音がやけに響く。耳に刺さるような静寂に耐えかねて、オリヴィアはナイフとフォークを置いた。
そのとき――。
扉が開き、軽やかな足音が近づいてくる。現れたのは、ローランド・ウィンターガルドだった。
「やあ、おはよう。昨夜はよく眠れたかな?」
彼はさわやかな笑顔を浮かべ、当然のようにオリヴィアの隣に腰を下ろす。使用人がすぐにローランドの前にコーヒーを置いた。オリヴィアの眉が僅かにひそめられる。
「おかげさまで。数十人の移動にも気づかないほど、ぐっすり眠れましたわ」
皮肉を込めた言葉。だが、ローランドは全く意に介さず、楽しそうに笑った。
「はは、それは何よりだね。睡眠は大事だ」
その笑顔は、どこまでも無邪気で、底が見えない。オリヴィアはグッと拳を握りしめる。
(この男のせいで取り残されたのに、悪びれる様子もないなんて……!)
「私、求婚をお断りしましたよね?」
「うん? そうだったかな?」
「なぜ話が進んでおりますの?」
「もっと、この国のことを知ってほしいと思ってね」
「もう十分プレゼンテーションで教えていただきましたが!?」
「ふふ、つれないね。しばらく時間もあることだし、ゆっくりウィンターガルド領を案内するよ」
ローランドの声は軽く、心底楽しんでいるようだった。一方、オリヴィアの顔には疲労感と苛立ちが滲んでいる。
***
日々が過ぎるごとに、ローランドの訪問は一日数回どころか、常に隣にいるようになった。迎賓館に寝泊まりするようになったのもその頃だ。
「二人きりで、まるで新婚みたいだね」
テーブルの隣に座り、無邪気に笑うローランド。オリヴィアは思わずフォークを握りしめた。
「冗談じゃありません! 私は一刻も早く帰りたいんです!」
「帰りたい? ……君の国には、帰さないよ」
彼は薄く微笑みながら、視線を絡めてきた。
「……はあ?」
「君の実家に取引を約束したんだ。魔鉱石をね」
「魔鉱石?」
「そう。本来は輸出禁止だけど、妻の実家になら融通が効く。王家の許可も得ているよ。君のお父上は、これで希少な魔鉱石を独占できるんだ。地位の確立に役立つだろう?」
「そんな……!」
「君の実家への配慮は尽くす。だから、納得してくれないか?」
「嫌です!!」
オリヴィアは声を張り上げたが、ローランドの微笑みは崩れない。その瞳には仄暗い光が宿っていた。
***
それから数日が経ったある朝。迎賓館の玄関前に、一台の馬車が到着したとの報告が入った。
「お父様が……!? お父様が来たのね!?」
オリヴィアは弾かれたように立ち上がり、玄関ホールへと走り出した。そこにはサリスタン伯爵が立っていた。
「お父様!!」
オリヴィアは駆け寄り、父の腕にしがみついた。胸がいっぱいになり、言葉が詰まる。
(やっと、助けが来た。いくら結婚を望んでいた父でも、こんな強引なやり方を認めるはずがない。きっと私の味方になってくれる。これで、帰れる……!)
だが、サリスタン伯爵は笑顔で彼女の肩を軽く叩き――。
「オリヴィア! すごいじゃないか! 良いご縁に感謝だな!」
「……え?」
「ウィンターガルド公爵家は我がサリスタン伯爵家にだけ魔鉱石を提供してくれるそうだ!」
「はは、妻の実家になるのですから当然のことです」
ローランドが現れ、さわやかに笑う。サリスタン伯爵もその言葉に大きく頷いた。
「いやあ、頼もしい次期公爵に見染めてもらえて、娘は幸せ者ですな!」
サリスタン伯爵はローランドの肩を叩き、楽しそうに笑っている。一方、オリヴィアの顔から血の気が引いていった。
(嘘……私の父までもが、彼の手に……!?)
ローランドは彼女の困惑を楽しむように、満足げに目を細めた。
***
迎賓館の応接室。豪華な調度品に囲まれた部屋の中央。サリスタン伯爵とオリヴィアは並んでソファに腰掛け、その向かいの椅子にローランドがゆったりと座っていた。
「豪華な応接室ですなあ!」
伯爵が目を輝かせながら周囲を見回す。
「公爵家本邸の方が、もっと趣があるのですがね。迎賓館では十分なおもてなしとは言えず、失礼しました。彼女がどうしてもこちらを気に入って、移動してくれなくて」
ローランドは微笑みを浮かべながら、さらりと言った。
「なんですと? オリヴィア、ここが気に入ったのか?」
伯爵が娘を見やる。オリヴィアは一瞬、口をつぐんだ。父の期待に満ちた眼差しが痛い。
(迎賓館が気に入ったわけではないのに……!公爵家本邸に入ったら、逃げ道が断たれてしまうわ)
だからこそ、オリヴィアは必死に抵抗していた。けれど、このままでは――。オリヴィアは意を決した。
「お父様! 私は……結婚するつもりはありませんの!」
オリヴィアは声を張り上げる。
「お、お前、一体なんてことを」
「公爵家本邸なんかに移動したら、この人の思うつぼですわ!」
オリヴィアはローランドを睨みつけた。
「公爵令息になんてことを言うんだ!!」
伯爵が慌ててローランドに謝罪の視線を向ける。しかし、ローランドはまるで気にした様子もなく、ふっと笑った。
「はは、かまいませんよ。そんなにここが気に入ったのなら、私たちの新居はここにしようか? 改築して、私たちの屋敷にしてしまえばいい」
その瞳は柔らかく細められているのに、底の見えない暗さが潜んでいた。オリヴィアの背筋に冷たいものが走る。
「そんな必要ありません! 絶対に結婚しません!!」
オリヴィアは声を荒らげ、そのまま応接室を飛び出した。
***
静寂が訪れる。伯爵は深いため息をつき、ローランドに頭を下げた。
「失礼な言動の数々、大変申し訳ありません。オリヴィアは昔からはねっ返りでして……なかなか嫁に行かず、伯爵家でも困っていたんです」
ローランドは眉を上げ、興味を示したように伯爵を見つめる。
「ほほう、興味深いですね。理由をお伺いしても?」
伯爵は苦笑混じりに語り始めた。
「あの子の夢は外交官なんです。私の母の影響でしてね。母は職業婦人になりたがっていましたが、叶わずに終わった。その夢を孫のオリヴィアに語り聞かせた結果、すっかりあの子はその気になってしまいまして」
「なるほど……」
ローランドは頷きながらも、その碧眼は何かを深く考えているようだった。
***
オリヴィアは二階にある客室のベッドに突っ伏していた。一階の応接室では、ローランドと伯爵がまだ話している。
(お父様まで結婚に乗り気だなんて……!私の外交官の夢はどうなるのよ!)
涙が滲みそうになるのを、必死に堪える。
(それに……)
彼女は顔を枕に埋めながら、心の中で叫んだ。
(もし、どうしても結婚しなければならないなら……私が結婚する相手は、とびきりロマンチックな人でなくちゃ絶対に嫌!)
幼い頃、祖母の膝の上で聞いた恋物語が脳裏に蘇る。祖母は本当は職業婦人になりたかった。でも、祖父に出会ってその夢を諦めたのだという。祖父は祖母と結婚する前も、そしてその後も、毎日毎日甘い言葉を囁いてくれたそうだ。祖父が亡くなるその日まで。
「君は美しい」
「君といると心が安らぐ」
「君と過ごせた生涯が、僕の宝物だ」
祖母はその度に幸せそうに笑い、オリヴィアに語ってくれた。
(祖母は夢を諦めたけれど、素敵なロマンチックな結婚をした。でも、私は……)
現実のローランドは、合理的で冷静で、愛の言葉など一言も囁かない。結婚の「メリット」ばかりを淡々と語り、心を揺さぶるような言葉は皆無だった。
(経済力や容姿なんてどうでもいい。でも、愛の言葉を毎日囁いてくれる人じゃなきゃ、私は絶対に結婚なんてしない!)
オリヴィアは枕を握りしめながら、床を睨んだ。
(それなのに、あの男は……!)
あんなつかみどころがなくて強引で無神経な男に、一生縛られるなんて絶対に嫌だ。背中が震えるのは怒りのせいだけではなかった。祖母が語ってくれた夢のような恋物語とは真逆の現実に、オリヴィアは胸が締め付けられていた。
***
数日の滞在を終え、サリスタン伯爵は帰国していった。勿論、オリヴィアを置き去りにして。
(どうにかして逃げられないかしら)
そう思うものの、迎賓館の中でオリヴィアは常に侍女や護衛に見張られている。息苦しい毎日。やることもなく、時間だけが無為に過ぎていく。そんな生活で唯一の楽しみは、図書室に並ぶ恋愛小説だった。エルセリア王国にはなかった甘い恋愛小説の数々。軍国主義的なエルセリアでは考えられない、純粋な愛を描いた物語ばかりが揃っている。最初は国の違いに興味を惹かれただけだったが、今では夢中になってページをめくる日々。
図書室の一角。オリヴィアはテーブルの上に分厚い恋愛小説を広げていた。窓から差し込む光がページを照らし、甘い台詞が彼女の胸をくすぐる。
(こんなセリフ……現実で言われたら……)
頬が熱くなったそのとき――
「我が国の小説は気に入ってもらえたかな?」
唐突に背後から声がかけられた。オリヴィアは驚いて本を閉じる。そこに立っていたのはローランド。
いつもの飄々とした笑みを浮かべている。
「ええ、まあ……」
努めて素っ気なく答えるが、視線は手元の本から離れない。ローランドはその様子を見て、くすりと笑った。
「君が好きな作家の新刊を持ってきたが、不要だったかな?」
「えっ!?」
反射的に顔を上げるオリヴィア。椅子の背もたれから身を乗り出し、無意識に本へと視線を伸ばしてしまう。
「ふふっ」
ローランドは本を軽く持ち上げる。煌びやかな装丁が目を引く最新作。
「本は逃げないよ」
そう言いながら、ローランドはテーブルに本を置く。その動作はどこか余裕たっぷりで、オリヴィアの反応を見透かしたような笑みを浮かべている。オリヴィアの視線は本に釘付けだ。ページをめくりたい衝動を抑えきれず、指先がわずかに動く。
「お茶にしよう」
ローランドが手を差し出す。だが、オリヴィアはその手を取ろうとはしなかった。自ら椅子から立ち上がり、自分の足で歩き出す。ローランドのエスコートを受け入れず、毅然とした足取りで。彼はその様子を見て、何も言わずに微笑んだ。彼の笑みが、どこか得体の知れないものに見えたのは、気のせいだろうか。
***
迎賓館のテラスのテーブルには、ローランドが用意させたお茶が並んでいる。色とりどりの花が咲き誇る庭園を見渡しながら、二人は向かい合って座っていた。
「君に良い話があるんだ」
「なんでしょう? 帰国が決まりましたか?」
「はは、君の意志は相変わらず固いね」
オリヴィアは半眼で睨むように彼を見た。
「今日は、外交官と公爵夫人の共通点について話そうと思う」
「……え?」
「君はずっと外交官になりたいと言っていただろう? それなら、公爵夫人としてその夢を叶える方法もあるかもしれない」
オリヴィアの眉がわずかに動く。
「外交官は国同士の交渉を担当する。だが、公爵夫人にも似た役割がある。ウィンターガルド領は貿易拠点で、他国との交易が盛んだ。時には公爵家で他国の商人や使節を迎え入れることもある。私の母は社交が嫌いだからあまり出てこないが、公爵夫人が望めば調整役として交渉の場に立つこともできる」
「調整役……?」
「例えば、王宮や貴族と相手国の使節団の条件が合わない場合、双方の意見を取りまとめる役割だ。外交官としての視点を持つ君なら、相手の意図を見抜き、交渉を有利に進められるかもしれない」
「交渉を……?」
オリヴィアの瞳に光が宿る。
「君が外交官として果たせたかもしれない役割を、公爵夫人として担うことで、ウィンターガルドの未来に貢献できる。それは、君にしかできないことだ――」
ローランドの声は低く響き、彼の碧眼が真剣な光を宿してオリヴィアを見つめる。その視線には、彼なりの期待と信頼が滲んでいた。オリヴィアの胸がドクンと跳ねた。
(私が……公爵夫人として、外交官のような役割を担う?)
心の奥底にくすぶっていた夢が、再び光を取り戻したかのようだった。
――私の知識が、役に立つ?
――ウィンターガルドの未来に貢献できる?
その可能性に胸が高鳴る。彼の提案は、初めて心に響いたものだった。
(もしかしたら……私にもできるかもしれない)
だが――
「そして未来の公爵夫人の君にプレゼントを用意したんだ」
ローランドは何事もなかったかのように、あっさりと話題を切り替えた。オリヴィアの心に灯った火は、一瞬で吹き消されるように萎んだ。
「……え?」
(……プレゼント?交渉役の話は?)
驚きと失望が入り混じった表情を浮かべるオリヴィアの前で、ローランドはテーブルに設計図を広げ始める。
「リトルエルセリアと名付けて、エルセリアの名産品を扱うアミューズメントタウンを作ろうと思っている――」
「……はぁ?」
「君がそんなに故郷を恋しがるなら、ウィンターガルドに小さなエルセリアを作ろうと思ってね。寂しくなったら、そこで故郷の空気を味わえるだろう?」
オリヴィアの胸が急激に冷めていった。期待していた未来の公爵夫人としての役割の話は、忽然と消え去り、目の前には無機質な設計図が広がっている。それは、彼女のためといいながら、彼女の意思を無視して進められた計画だった。
彼は鷹揚に笑い、テーブルに図面を広げた。すでに計画はかなり具体的に進んでいるらしい。莫大な予算が動いているはずだ。伯爵家の名産品も目玉商品として扱われる予定で、サリスタン伯爵はさぞ喜んだことだろう。オリヴィアもそれがどれほど破格の提案かは理解していた。
けれど――
「……なんで」
「うん?」
「なんでそんなに権力で囲い込もうとするんですか!」
オリヴィアの胸にふつふつと怒りが沸き上がる。思い返せば、ローランドはいつだって、一方的に結婚を迫るだけ。オリヴィアの心を射止める努力はしてこなかった。愛の言葉一つだってもらっていない。なのに権力とお金だけは湯水のように使う。
「ん? 何か不満でも?」
「私、あなたみたいにお金と権力で周囲を固めて人を支配しようとする人、絶対に嫌! それに、つかみどころがなくて無神経なところも無理!」
ローランドは目を瞬かせた。オリヴィアの勢いに圧倒され、言葉を飲み込んでいる。
「あと! 好きな女性に愛の言葉一つも囁けない人のところになんか、嫁ぎませんから!!!」
オリヴィアは怒りに任せて立ち上がり、そのままテラスを後にした。ドアを強く閉める音が響く。取り残されたローランドは、呆然と座ったまま呟いた。
「……愛の……言葉……?」
その青い瞳は、何かを必死に探しているように揺れていた。
***
その夜、本邸の公爵執務室にて。重厚な扉が静かに閉ざされると、ローランドは父のウィンターガルド公爵と向き合った。部屋の中は魔鉱石ランプの青白い光に包まれ、外の闇とは対照的な静寂が漂っている。
「して、ローランド。婚約の進捗状況はどうだ?」
公爵は重々しく問いかけた。手元の書類を閉じ、息子を見据える。
「はい。なかなか承諾がもらえておりません」
ローランドの声は淡々としているが、どこか沈んでいた。
「一筋縄ではいかないようだな。オリヴィア嬢は何が問題だと?」
ローランドは一瞬、視線を逸らした。目の前の公爵の冷徹な眼差しに、いつも以上の圧力を感じる。
「……愛の言葉が囁けない者は嫌だと……」
抑えた声で呟いた。その瞬間、公爵の眉がピクリと動いた。
「あれだけのことをしておきながら、……お前、まさか未だに愛の言葉のひとつも言えんのか?」
呆れたような、そしてどこか呆然とした表情で公爵は息子を見つめる。
「……公爵夫人になる利点や、地位の確立の話はしたんですが……」
ローランドの視線は彷徨い、肩がわずかに垂れた。
「まったく、情けない奴だ」
公爵は深くため息をつき、額に手を当てた。公爵は立ち上がり、窓際に歩み寄る。外の庭園を見下ろしながら、ふと唇を歪ませた。
「いいだろう、私が良いところに連れて行ってやろう」
振り返ったその目には、どこか冷酷な光が宿っていた。
「ベルンハルト、馬車の準備を」
公爵は部屋の隅に控えていた執事に命じた。
「かしこまりました」
執事は恭しく頭を下げ、すぐに部屋を後にする。ローランドは立ち上がり、父の後を追った。その心には、未だ愛の言葉というものが何なのか、掴みきれないまま――。