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許すということ【後編】

 オリヴィアが怒ってから三日目の昼。

 執務室の扉が、コツコツと小さな音を立てて開いた。

 珍しく、二歳の息子レイモンドが、とてとてと歩いてこちらにやってくる。

 いつもは乳母と過ごしており、執務室に顔を出すことなど滅多にない。


「あら、レイモンド。どうしたの?」


 今日もたまらなく可愛い息子に、思わず頬がほころぶ。


「ははうえ、これ。ちちうえから」


 レイモンドはこっそりと紙袋を差し出してきた。

 まるで、重大な任務のように力強い目で見つめてきて、頷いた。

 可愛すぎて、オリヴィアは受け取らずにはいられなかった。


 包みを開くと、そこには――

 オリヴィアが大好きな恋愛小説家ピンクローズ・スウィート先生の最新作の原本が入っていた。

 まだ出版されていない未発表のもので、時折手書きで修正が入れられていて、息遣いすら感じさせる一冊だった。


「な、なんでこんなものが!?!?」


 オリヴィアは興奮して叫んだ。

 ピンクローズ先生の作品はすべて読破している。でも最近、新作が出なくてやきもきしていたのだ。


 そして、中には一枚のメッセージが添えられていた。


『ごめんなさい。僕が悪かったです。もう二度と、君に無理強いはしない。君と話がしたいです』


 オリヴィアは、しばらくそれを見つめていた。

 やがて、小さく微笑み、そっと呟く。


「……ほんと、どうしようもない人ね」




 その夜、ローランドはようやく寝室に戻ることを許された。

 カチャリと鍵を外す音がした瞬間、待ちかねたように扉が開く。


「オリヴィアーーー!!」


 歓喜に満ちた声とともに、ローランドが飛び込んでくる。両手を広げ、今にも抱きしめようと駆け寄ってきた。


 だが、オリヴィアはその前に両手を突き出して、ピシャリと制した。


「あなた、執務を疎かにしたそうね? 執事長のクロイツナーが困り果てた顔で報告してきたわ。予定通りの量をこなすまでは、話もしないわ。嫌なら、さっさと仕事を終わらせなさい」


 そう言って、彼女はくるりと背を向け、そのままベッドに入った。


「はっ、はいっ!! 明日すぐに終わらせます!!」


 勢いよく返事をしたローランドは、ベッドに入っていいものかと少しの間思案して、覚悟を決めたように一歩踏み出す。


「……失礼します」


 そう呟いて、そろりと布団の中へ滑り込んだ。


 オリヴィアは何も言わず、ただ背中を向けたまま黙っていた。

 彼女の沈黙に一瞬怯えつつも、ローランドはおずおずと、彼女を後ろからそっと抱きしめた。怒られないことに安心して、静かに目を閉じた。


 三日ぶりに、ようやく熟睡できた。


***


 翌朝、ローランドは朝から異常なほどの集中力を発揮した。

 一枚一枚、書類を捌く手はまるで機械のように淀みなく、その集中力と処理速度に、周囲の使用人たちは言葉を失っていた。彼は驚異的な速さで、三日分の執務を片付けてしまった。


 執事長は小さく呟いた。「いつもこのくらい働いてくれたら助かるんですが……」

 普段は、こまめに何度も休憩を取っていたローランドだが、今日はまるで別人のようだった。

 もちろん、休憩のほとんどは、オリヴィアとの甘いひとときに使われていたのだが。


***


 その夜。ローランドは、オリヴィアの部屋の前で深く息を吸い、扉をノックした。


「オリヴィア。……少し、話がしたい」


「いいわよ」


 彼女はすぐに応じた。

 まっすぐに見つめ返してくるその瞳に、ローランドは思わず息を詰まらせる。


 けれど――逃げてはいけない。

 意を決して、彼は口を開いた。


「君の意思を無視して、この国に留めたこと、申し訳なく思っている。……でも、あの時の私には、それ以外の選択肢が見えなかった。今振り返っても、どうするべきだったのか、正直わからない」

「私がエルセリア王国に帰ってから、改めて口説くことは考えなかったの?」

「……君も知っている通り、防衛の要であるウィンターガルド公爵家の者は、国外に出ることができない。それに、あの時の私は、君に恋人がいると思い込んでいた。……君を帰国させたら、後手に回ると、そう思ってしまった」

「……」


 オリヴィアの視線が少しだけ逸れた。


 (ローランドの立場に立てば、その行動は正しかったんだろうな)


 現に今、オリヴィアはローランドと結婚し、彼を愛している。

 けれど、オリヴィアの気持ちをないがしろにしたのは許せなかった。


「それでも、私、許せないの。あの時、私の気持ちを、意志を、無視したあなたを」

「……すまなかった。許せないなら、……許せなくていい。それでも、君のそばにいたい」


 苦しそうに、それでも真っ直ぐに。

 ローランドは、言葉を搾り出すように呟いた。


「怒りが収まらないなら、私を殴ればいい。殴ってほしい。君の気持ちの行き場が私なら、私は耐えられる」

「人を殴るなんてしたくないわ」

「……どうしたら私は償える?」


 一瞬の沈黙があった後、オリヴィアが口を開いた。


「償うために私を――」

「無理だ」

「まだ言ってないじゃない」

「無理なんだ……君を失うことだけは、どうしても耐えられない」


 ローランドの頬を、涙が一筋伝った。

 彼が涙もろいと気づいたのは、結婚してからだ。

 オリヴィアを失うかもと思うと、涙が出るらしい。


 そんなふうに涙ながらに訴える彼に、胸の奥がじんわりと熱くなった。


「……なぜあの時、私の意思を確認しなかったの?」

「聞いていたら、君はすぐに帰国していただろう?」


 ――それは確かに。その通りだった。


「私ばっかり、理解が良いみたいで納得できないのよ」

「わ、私だって、愛の言葉を言えるようになるまで、苦労したんだっ」


 ローランドが珍しくむきになって言い返した。

 その顔は、真っ赤に染まっている。


「え? そうなの? 確かに努力してくれてるとは思っていたけど……」

「君が! 愛の言葉を囁いてほしいというから、寝ずに恋愛小説を読んで、夜通し鏡の前で練習したんだ! 君を、理解しようと思って……最初は恥ずかしすぎて、練習のたびに悶えていたよ……」


 そこまでの努力をしていたとは、オリヴィアも初耳だった。

 彼の不器用さは知っていたけれど、まさかそんなに必死だったなんて。


「ふふ、そうなんだ……」

 思わず笑みがこぼれる。


「君さえ満足してくれるなら、それでいい。今ではもう日常になったしな……。当時の私のやり方が間違っていたことは、今なら分かる」


 ローランドの声が、かすかに震えていた。


「だが、あの時もし君を国に返していたら、私の求婚は儚く散っていた可能性もある」

「まあ、確かに」


 ローランドはショックを受けたように目を見開き、顔をこわばらせた。


「や、やっぱり、間違ってなかったのかもしれない……」

「でも、帰国してから改めて求婚されて、それで結婚してたらこんなにしこりは残らなかったと思うよ」


 ただその場合は、彼と結婚しなかったかも、という可能性はあえて口にしなかった。

 オリヴィアがさらりと言うと、ローランドの表情がさっと引き締まった。


「……厳しい言い方になるが、外交というものは――想像以上に、ずっと厳しい現実を伴うことがあるんだ」

「……え?」

「女性外交官は時に、『贈り物』として扱われる。ただの政略結婚だけじゃない。君はあの時の状況をそうだと感じているのだろうが、……現実は、もっと酷い場合もある」


 ローランドの声が低く沈む。その声音に、オリヴィアは身じろぎした。


「私は、君の望まない形で距離を縮めたことは……一度もない。誓って、決して君を道具にしなかった」

「……それは、確かに、そうだけど……」


 たしかにローランドは、求婚の承諾を得るまで待っていた。無理やり触れることもしなかった。

 彼なりに誠実だったのだ。……不器用すぎるほどに。


「……本当は言うつもりじゃなかったが、使節団の中に、君の後輩で――私に色仕掛けを仕掛けてきた女性がいた」

「え……!?」


 オリヴィアの目が大きく見開かれる。


 エルセリア王国で初の外交官になったという彼女は、オリヴィアの後輩だった。

 人懐っこく、誰に対しても距離が近い女性だった。


「もちろん、私は相手にしなかった。彼女にとって私は条件のいい相手だったのだろう。…まあ、私は若いからな。結局彼女は、一夫多妻制の国に嫁いだらしい。相手は――孫がいてもおかしくないような年の権力者だそうだ」

「そんな……」


 オリヴィアの声が、かすれたように漏れた。


「……実は、外交の名目で政略結婚させられる女性は、他国では決して珍しくない。エルセリアのような軍事国家ではなおさらだ。だからこそ、君を帰国させたあとで……もし他国に外交のためと称して差し出されていたら――」


 ローランドは、そこで言葉を区切った。


「私は、君を奪い返すために、他国と戦を起こしてでも取り返すつもりだった」


「ええ……!?」


 オリヴィアの瞳が揺れた。

 冗談でも脅しでもない。彼は本気だった。


「そこまで考えて、君には申し訳なかったが、留まってもらうことにした。君の意思を尊重できなかったこと、本当に……申し訳なかった」


 そう言って、ローランドは深く頭を下げた。

 その姿は、威厳ある公爵ではなく、ただ一人の女性に赦しを乞う、一人の男だった。


 オリヴィアは、呆然とその姿を見つめた。

 告げられたことが、あまりに現実味を帯びていて――反論ができない。


(……そんな可能性が、本当に……あった?)


 ありえないと思っていた。でも――


(あった。全然、ありえた)


 サリスタン伯爵家の自分は、名門の娘だから守られていたと思っていた。

 けれど現実には、使節団に置いてこられた。

 ならば、差し出されることだって、あり得たのだ。


(ええっ!?じゃあ、ローランドと結婚してなかったら……好きでもないおじいさんに嫁がされてたってこと!?)


 オリヴィアは背筋が凍るような想像に、思わず口元を押さえた。


 エルセリア王国は、まだまだ男女平等には程遠い文化だった。

 名門サリスタン伯爵家の娘として、ずっと「自分は守られている側」だと信じて疑わなかった。

 けれど実際には、自分はレグナス王国に置き去りにされたのだ。

 ――そう思えば、無理やり政略結婚させられていた可能性など、十分にあった。


 ローランドは、オリヴィアが結婚を承諾するまで、力づくではなく、一生懸命口説いてくれた。拒絶されても、諦めず、待ち続けてくれた。


(この人に、見染められて……本当に、良かったのかもしれない)


 あの頃の自分は、現実を知らずに「夢」ばかり見ていた。

 外交官になって活躍する、愛されて結ばれる、自由に生きる――

 でもそのすべてが、どれだけ危うい幻想だったか、今ようやく理解できた気がした。


(……私は、ただの夢見る少女だったのかも)


 思わず、頬が熱くなる。

 自分の未熟さが、少し痛々しくさえ思えた。


「もう、いいよ。顔を上げて」


 声をかけると、ゆっくり顔を上げて、オリヴィアを見つめるローランド。


「厳しいことを言って、すまなかった。でも、今の君は、ウィンターガルドで立派に仕事をしてくれている。私の妻として、これからも活躍してほしい。君にしか、できないことがある」


 外交というものは、立場ありきの世界。理想だけでは動かせない現実がある。

 それを、今ようやく肌で理解し始めたオリヴィアだった。

 未熟な自分でも、彼は必要としてくれる。支えてくれるし、導いてくれる。

 それは、とてもありがたいことだと思えた。


「いいえ、聞けて良かったわ。私は、少し甘かったみたい。これからは、そういう大事なこと、隠さずに言ってくれるなら、あなたの妻として頑張ってあげてもいいわ」


 オリヴィアは、わざと少し上から言ってみた。

 それはたぶん、彼を許すための儀式みたいなものだった。


「ああ……! ありがとう! 君に隠し事はしない。約束する」


 彼がそう言うなら、もう隠し事はしないのだろう。きっと、不器用なほどに包み隠さないに違いないと、オリヴィアは思った。


「でも、また今回みたいに、思い出して腹を立てることがあるかもしれないわ」

「……それくらいのことをしてしまって、本当に悪かったと思ってる。何度でも怒ってくれていいから、その度に謝らせてほしい」

「仕方ないわね。でも次は本当に殴っちゃうかもしれないわよ?」


 オリヴィアは、いたずらっぽく笑った。

 ローランドは真剣な顔で、まっすぐに答える。


「殴ってくれていい。君がそばにいてくれるなら、それでいい」


 彼はオリヴィアの手をギュッと握った。


「……許すって、たぶん、一度きりじゃ済まないのね」

「……ああ」

「これから何度も、思い出しては怒って、でも少しずつ、その都度、許していくのかもしれないわ」

「その度に、ちゃんと謝るよ。何度でも」


 オリヴィアはふっと肩の力を抜いた。

 過去の気持ちは、たぶんすぐには消えない。けれど――

 この人となら、きっと乗り越えられる。そう思えた。


「……じゃあ、もう寝ましょう。なんだか今日は疲れちゃったわ」

「うん。寝よう」


 オリヴィアが横になると、ローランドも当然のようにくっついてきた。


 キスをひとつ。

 もうひとつ。

 そして……もうひとつ。


「ちょっと……ほんとに寝るのよ?」

「もちろん」


「絶対に寝るわよ!?」

「わかってる。大丈夫だ」


 そうは言っても――

 その夜、ローランドはオリヴィアを、決して眠らせてはくれなかった。


「……うそつきぃぃぃ!!!!」


 明け方頃――オリヴィアの叫び声を聞いた者がいるとか、いないとか。


※ちなみに翌朝、ローランドは上機嫌で「オリヴィアはゆっくり寝てていいよ」と言い、

自分の仕事に加えて、オリヴィアの分の書類まで片付けていたそうです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

来週中に、番外編をひとつ投稿する予定です。

タイトルは「縛りたい理由(仮)」となっております。よろしければ、そちらもぜひお楽しみに。

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