4年越しのざまあと、許せない気持ち【前編】
出産から二年が経ち、ローランドが正式に爵位を継ぐことになった。
このタイミングで、オリヴィアも社交界に復帰した。
結婚式の準備や妊娠の影響もあって、これまでレグナス王国の社交界にはあまり顔を出していなかった。
妊娠中にローランドから公爵夫人としての威厳ある振る舞いを教わり、何度も練習した。ウィンターガルドの名に恥じぬよう、オリヴィアは緊張の面持ちで社交の場に臨んでいた。
努力の甲斐あって、社交界はすぐにオリヴィアの独壇場となった。とはいえ、高飛車なふるまいを演じ続けるのは疲れる。
彼女は必要最低限の場にだけ出席するようにしている。
そんなオリヴィアに、待ちに待った面談の予定が入った。
相手は、エルセリア王国の使節団の責任者であるルセーヌ・グレイアム侯爵だ。
オリヴィアは、四年ぶりに彼と面と向かって会うことになった。
そう――彼こそが、オリヴィアをレグナス王国に置き去りにした張本人だった。
オリヴィアがレグナス王国に嫁いだことを機に、彼女の生家のサリスタン伯爵家にのみ、魔鉱石の輸出が認められることとなった。
とはいえ、ウィンターガルドからすれば、取るに足らない程度の分量である。
レグナス王国としては魔鉱石の商業輸出を原則として禁じており、今回も国内の一般的な伯爵家に支給される程度の量しか送っていない。
魔道具についても輸出は禁止されているため、贈られたのは魔道ランプや魔道温冷機など、最低限の生活用品に限られていた。
それでも、贈られた側であるサリスタン家では、たいそう喜ばれたらしい。
エルセリア王国としては、まずは伯爵家への輸出を皮切りに、今後さらに量や品目を増やしていくつもりだったのだろう。
「だとしたら、愚かね」
オリヴィアは自室の鏡の前で、冷ややかに呟いた。
鏡の中には、公爵夫人として完璧に装った、自分自身の姿が映っていた。
使節団との交渉の日。
公爵当主であるローランドと、公爵夫人であるオリヴィアは、公爵家の応接室へと向かった。
そこは、絢爛豪華な内装が施された部屋だった。
この部屋に一歩足を踏み入れた者は、否応なくウィンターガルド家の財力と格式を思い知らされると言われている。
扉が開き姿を現したのは、使節団の責任者であるグレイアム侯爵であった。
「公爵閣下、それにオリヴィア嬢。お久しぶりでございます」
にこやかに挨拶するグレイアムに、オリヴィアは即座に言い放った。
「名前で呼ばないでくださる? 不愉快だわ」
声の温度は低く、しかしはっきりとした強さがあった。
今の彼女は、ただの伯爵令嬢ではない。ウィンターガルド公爵家の夫人である。
「たしかに、そうだね」
隣でローランドも静かに応じる。
「それとも、君は――私の妻の名前を気安く呼べるほど、親しいつもりなのかな?」
「い、いえ……失礼いたしました、公爵夫人」
グレイアムの表情に、ようやく焦りの色が浮かんだ。
「い、いえ、失礼いたしました、公爵夫人」
オリヴィアは、つんと顎を上げて言った。
「どうぞ、おかけになって」
「し、失礼いたします……」
和やかな雰囲気になるとでも思っていたのか、グレイアムは戸惑いを隠せない様子だった。
「それで、何の御用ですの? お父様には魔鉱石を送っておりますわよね?」
口元には微笑みが浮かんでいたが、目はまるで笑っていなかった。
「え? あ、いや、まずはエルセリア王国からの贈り物を……」
「まあ! うれしいわ。私が帰れなかった、あのエルセリア王国の品なのね?」
「は……」
グレイアムはぽかんと口を開けたまま、目を見開いていた。まさか、そんな切り返しをされるとは思ってもいなかったのだろう。
「あなたのおかげで、もう二度とエルセリア王国の地を踏めなくなりましたものね。エルセリアの物を見るだけで――郷愁の想いが溢れてしまいますわ」
とげとげしい言葉が、その場にいた男たちの胸に突き刺さった。
ローランドがわずかに姿勢を直す。居心地の悪さを隠せていない。
「ウィンターガルドは防衛の要だからな。安全のために、国外には出られないんだ」
「そ、そうなんですね……それは……」
グレイアムは言葉を詰まらせた。
まさか、自分のあのときの判断が、今になってこれほどの重みを持って返ってくるとは、まったく考えていなかったのだ。
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「では、公爵閣下。改めまして……今後の輸出量についてご相談を――」
「その件は、妻に話してくれ。エルセリア王国は、彼女の担当にしている」
「……え?」
「お話は伺いますわ? 増やすつもりはありませんけれど」
「い、いえ……あの、公爵閣下、お話が違うではないですか」
「何? 私が貴様と――何の話をしたというんだ?」
「オリヴィア嬢を……ここに一人残せば、輸出してくださると……おっしゃったでは……!」
オリヴィアの瞳がぎらりと光った。
(この二人、私を――取引材料にしてたのね……!)
ムカムカと怒りが込み上げる。口元の笑みはそのままに、感情は凍りついたように冷えていく。
その様子を察したローランドが、慌てて口を挟んだ。
「輸出はしただろう、サリスタン伯爵家に! もともと、そういう話だったではないか。誤解を招く言い方はやめてくれ」
慌ててオリヴィアの顔色をうかがうローランド。
その様子を見て、グレイアムはようやく悟った。
――この夫婦の決定権は、夫人にあるのだと。
そして、あの時の自分の判断が、長い目で見て致命的な悪手だったと、ようやく思い至ったのだった。
額に汗を浮かべながら、グレイアムは口を開いた。
「た、たしかに……そうでした。……ただ、あの時のお言葉が、もう少し柔軟な対応を含んでいるのではと……勝手に期待しておりました」
「あら、男性だけで、ずいぶん楽しそうなお話をされていたんですのね。私も混ざりたかったわ。そしたら今、魔鉱石は――もっと輸出されていたかもしれませんのに」
「そ、そんな……」
「お話は終わりです。私が公爵夫人である間は、期待なさらないことね」
「……あの時は、大変、申し訳ありませんでした」
「謝罪されても、輸出はしないわ。あの時、私がどんな気持ちだったと思う? か弱い女性を一人、置き去りにするなんて――最低よ。まともな紳士のすることではありませんわ。そんな使節団と、交渉する気にはなれません」
「……分かりました。使節団は一新し、私も交代いたします。まことに……申し訳ありませんでした」
グレイアムは深く頭を垂れた。
「ふん」
グレイアムが深々と頭を下げる姿を背に、オリヴィアは踵を返した。
(せいぜい、後悔なさることね)
オリヴィアは、あのときの自分を、少しだけ救えた気がした。
胸の奥が、わずかに軽くなった。
……けれど、それでもなお、いらだちは消えなかった。
夫がすぐに後を追ってきた。
「オリヴィア……!」
じろりとにらみつけ、堪えていた疑問をぶつける。まだ廊下の途中だったが、我慢などできなかった。
「ローランド。私を一人置き去りにするように、責任者に命じたのはあなたなのね?」
「命令なんてしてない! ……あくまで取引だ」
「魔鉱石という、使節団が喉から手が出るほど欲しかった条件を提示して私を置き去りにさせたんでしょう!? 嘘をついたら許さないわよ!」
「た、たしかに……そう言われると、そうかもしれないが……」
「思い出したら、また腹が立ってきたわ!」
「そ、そんな……もう、四年も前のことじゃないか……」
「腹立つ! やった側が言うんじゃないわよ! それは、やられた側だけが言えるセリフよ! しばらく私に話しかけないで!」
「無理だよ! 私を殴ってもいいから! そんなこと言わないでくれ……!」
「私にそんな趣味はないわよ! 近づかないで!!」
悲壮感を漂わせたローランドだったが、オリヴィアの怒りは収まらなかった。
同じ屋敷にいても、オリヴィアは視線も言葉も与えなかった。
ローランドが何を言おうと、聞こえないふりを貫いた。
そしてその日から、寝室も分けた。
いつもは夫婦の寝室で共に眠っていたが、今夜は行く気になれず、自分の個室で眠ることにした。
夫婦の寝室に続く扉には、しっかりと鍵をかけた。
廊下からは、そわそわと落ち着きのない足音が聞こえてくる。やがて、ノックの音。そしてドアノブが回され、開かないことに焦る音。
「オリヴィア!? 鍵をかけたのか!?」
ローランドの声が、悲鳴のように響く。
「そうよ。今日は一人で寝るわ」
「そんなことを言わないでくれ……君が隣にいないと、眠れないんだ」
「知らないわよ。私は故郷に帰れなくて、眠れない夜もあったのよ」
――嘘だ。
確かに寝つきの悪い夜はあったけれど、眠ってしまえばぐっすりだった。
少しだけ、話を盛った。
「……」
「この状況で、もしマスターキーなんか使ったら――一生、口をきかないからね」
「……!! そ、そんな……頼むよ、開けてくれよ……」
震えるような声で懇願されたが、オリヴィアは無言で布団をかぶった。
扉の向こうからは、ローランドの鼻をすする音が微かに聞こえてくる。
オリヴィアは、その音を子守唄のように聞きながら、目を閉じた。
翌朝。執務室に入ると、机の上に一本のバラがそっと置かれていた。
添えられていた小さなカードには、見覚えのある筆跡で、こんな言葉が綴られていた。
『怒った君も美しい。
でも、笑った君のほうが――私はもっと好きだ』
(……何よそれ。どこまでも甘ったるい)
オリヴィアは無言でカードを引き出しにしまい、ひとつ、ため息をついた。
出会った頃の彼は、こんな甘いことは言わなかった。
けれど今の彼は、毎日毎日、愛の言葉を惜しみなく囁いてくる。
(結婚の時に言ったこと……ちゃんと、守ってくれてるのよね)
――毎日、私に愛をささやくことを忘れないでね?
あなたが選んだんだから、責任取ってもらうわよ!
浮気なんかしたら、許さないんだから!
――もちろんだ。君のために、毎日言うよ。
愛してる。君だけを。
今となっては、ローランドの「愛してる」は挨拶みたいなものだった。
あらゆる愛の言葉が、彼の口から尽くされてきた。もちろん浮気の心配もない。
なにしろ彼は、執務の時間以外はずっとオリヴィアの傍にいる。ほとんど片時も離れない。
それは、彼の努力の結果だった。
怒りが完全に消えたわけではない。
けれど、胸の奥に、わずかに熱が灯ったような気がした。
そういえば、オリヴィアが初めて怒ったのは、婚約前にローランドが花街に通っていたと聞かされたときだった。
その後、結婚してから一度だけ、実際にサロンへ連れて行ってもらったことがある。 落ち着いた内装の中、静かに佇んでいたのは、年齢不詳の美しさを湛えた気品あるマダムだった。オリヴィアが思い描いていた“花街”とは、何もかもが違っていた。
「でも、所詮は花街だし」と、警戒心を隠しきれずにいると――
マダムが静かに笑い、「うちのお店は夜は売りますけれど、花は売りませんのよ」と言った。
その瞬間、グラスの音すら止まるような空気が流れた。
――その一言で、オリヴィアは、自分がどれだけ的外れな先入観を抱いていたのかに気づき、顔を真っ赤にしてうつむいた。
何も言えず、ただ肩をすくめてごまかすように杯を手に取ることしかできなかった。
そんなときも、隣にいたローランドはすぐに庇ってくれた。
「そういじめないでやってくれ。勘違いは誰にでもあるものだろう」
(悪い人ではない。と思う……たぶん)
結婚して四年。オリヴィアは、今ではローランドに対して愛情を持つようになっていた。
仕事も楽しくさせてもらっているし、息子のレイモンドも、魔力が強すぎる心配はあるけれど、とても可愛い。
けれど――モヤモヤは、どうしても収まらなかった。
結婚は受け入れている。
結果的には結婚できて良かったと思う。
ただ、あの時に船に乗って帰国したうえで、求婚され、愛を囁かれていたら。
今、こんなわだかまりは、きっと残っていなかった。
(許すって、どうすればいいんだろう)
許したいのに、心がついてこないオリヴィアだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、オリヴィアの心に長く残っていた出来事に向き合うお話です。
このエピソードは前後編となっており、後編は金曜日(5/30)に更新予定です。
後編のタイトルは「許すということ」。
オリヴィアが見つけた答えを、ぜひ見届けてください。