第十三話 不器用な求婚(ローランド視点)
本日は21時にも投稿予定です。
屋敷に帰ってすぐに、私はオリヴィアが読んできた恋愛小説を読み始めた。
「うん? おかしいな、縛る表現がどこにもないではないか?」
幼い頃の記憶が脳裏をよぎった。
公爵家の図書室の隠し棚で見つけた一冊の本。鎖に巻かれた上半身裸の男たちが表紙を飾る、奇妙な一冊だった。
「母上、これ……なんの本?」
そう尋ねた幼い私から本を奪い取った母は、顔を真っ赤にして叫んだ。
「これは愛よ! 最上級の愛情表現なの!!」
それがどんな物語だったのか、当時の私は理解できていなかった。
けれど――縛ることこそが愛の証。あの時の言葉は、今も私の中に深く根を下ろしている。
だが、オリヴィアの好む恋愛小説には、その表現は一切登場しなかった。
国の文化の違いだろうか。いずれは、レグナス王国流の愛の形も、彼女に教えていかねばならない。だが、今はオリヴィアの好む表現を習得しよう。
本をすべて読み切り、バラが本数によって意味を持つことを知った。それはまるで私の気持ちの上澄みの甘い部分のようだった。この言葉と一緒にバラを渡して伝えようと決めた。
一人部屋で練習したが、愛の言葉とは、顔が熱くなり、なかなか言えないものだと初めて知った。彼女は、こんな恥ずかしい言葉を言わせることで、俺の覚悟を試そうとしているのだろうか?
「君を、初めて見た瞬間から、君のことばかり、考えている。君のすべてが、私を……私を狂わせる……」
練習でやっと最後まで言えた時、私は顔を両手で覆い、悶えていた。本音の甘い部分を伝えるというのは、なんと難しいことなのだろうか。これで、彼女にまた拒絶されたら私はどうしたらいいのだろう。
***
翌朝、バラを一本手に持ち、朝食の部屋に向かった。彼女を待っている間、心臓の音が収まらなかった。彼女が現れるとさらにひどくなった。彼女に聞こえたんじゃないだろうか。
愛の言葉は、非常に、とてつもなく、これ以上ないくらい、恥ずかしかった。
マダムのアドバイス通り、長時間一緒に過ごさず、短時間でアプローチして帰る。最初は物足りなかったが、日がたつにつれて、彼女の反応が変わってきた。頬を赤らめ、ちらりとこちらを見る視線。まるで、今までとは別人のようだ。
そこで私は気づいた。今までは、彼女に伝わっていなかったのかもしれない。このやり方は、正しかったのだ。でも今は彼女に伝わっているのならば、嬉しい。くすぐったいような喜びがこみあげてくる。
これは……彼女に、受け入れてもらえるかもしれない。
そんな期待が高まった。
いよいよ、百八本の赤いバラを渡す日が来た。意味は『結婚してください』だ。予想はしていたが花束はそこそこの重さだった。彼女の細い腕に持たせても大丈夫だろうか?いや、受け取ってもらわなければ困る。
「オリヴィア。私は――」
期待を込めて、百八本のバラを手に、いよいよ彼女にプロポーズをしようとした。その瞬間。
「ローランド! その後調子はどうだ? 花街の効果はあったか?」
父上が迎賓館の入り口から大声で現れた。
私は息を呑んだ。間が悪すぎる。今、渾身のプロポーズをしようとしていたのに。
昨日寝ずに言葉を考えて練習した。今日のプロポーズは渾身の出来なのだ。父上には悪いが、早く帰ってほしい。さすがに身内の前で言うのは憚られる。相談の時は聞かれてしまったが、あれはノーカウントだ。
「父上。まさに今、その効果を試しているところです」
父上を追い返そうとしたが、彼は満面の笑みで中庭にずかずかと入ってきた。無神経すぎる。百八本のバラが見えないのだろうか。
「おお、それはすまなかったな。オリヴィア嬢、ローランドは貴女のために努力している。しっかりと見極められ――」
その時。オリヴィアが立ち上がり、突然声を張り上げた。
「花街って何よおぉぉぉ!!!????」
オリヴィアはすごい勢いで私の腕を掴んできた。驚くほど強い力だった。さすがは軍事国家出身というべきか。まさか国民全員に格闘訓練でも課されているのか?
これだったらバラの花束を渡しても持てるだろう、などと呑気に考えていた私だったが、彼女の顔を見て凍りついた。オリヴィアの顔は怒りで真っ赤だった。彼女の腕の力が強まるたびに、花束が揺れる。そして、バラの花束が床に落ちた。バラの花弁がはらはらと舞い散った。
「え? いや、父上が――」
「私が、商売女と同じってこと!? バラを渡して愛を囁いてれば簡単に口説けると思ったの!?」
「そんなことは――」
「許せない!! 二度と私に顔を見せないで!!!」
オリヴィアは私の話を聞かず、振り返ることなく走り去った。
(……二度と顔を見せない?そんなの、無理だ)
呆然と立ち尽くす私を残し、部屋の扉が勢いよく閉まる音が胸に響いた。
足元のバラの花弁が、まるで私の心の破片のように散らばっていた。
父上はオロオロと何か言い訳めいたことを呟いていたが、絶対許さない。嫌がらせに家督はしばらく継がないことを決めた。
だが、それどころではない。オリヴィアだ。
私は無惨な姿になった花束を拾い、頼りない足取りでオリヴィアの部屋の前に立った。
正直、どうしていいか分からない。でも話をしなければならない。せっかく練習したのに、まだプロポーズもできていない。
受け入れてほしい。今日のために、悶えながら愛の言葉を練習し、彼女に会いに行くのも我慢して頑張ったのだ。
扉の向こうにいる彼女の気配を感じながら、拳を握りしめる。
「オリヴィア……話がしたい」
声をかけたが、返事はない。
静寂が耳をつんざく。
胸の中で焦燥感がぐるぐると渦を巻き、息が詰まるようだった。
何度も彼女の名前を呼ぶ。また振り出しに戻ったのかもしれない。もう、どうしていいのか分からない。他の手段は思いつかない。お手上げだ。
(もう、いっそのこと、この扉を無理やり開けて、彼女を縛りつけてしまえば……)
そんな危うい衝動が頭をよぎった瞬間、扉がゆっくりと開いた。目の前に立つ彼女。目元は赤く腫れ、眉間には深いしわが寄っている。その顔を見た瞬間、胸が強く締めつけられた。
「花街に行くなんて、不潔だわ! 二度と私に触らないで!」
彼女の声は震えていた。なのに、そんな彼女すら可愛く思える。
(……泣いていたのか?なぜ?)
「……何をそんなに怒っているのか分からないんだ。花街には行ったが、それがダメだったのか?」
素直な気持ちを言葉にした。これは愛の言葉を練習していなければできなかっただろう。今までは、合理的すぎたのかもしれないと気づいた。彼女は、私が気持ちを言葉にしたら変わってくれた。今も、少しの希望を持って彼女に聞いた。
彼女が睨む。その目に冷たい光が宿っている。
「汚らわしいわ!! 嘘の口説き文句なんて、聞きたくもないわ!」
「嘘じゃない。君への想いを、どう伝えればいいのか……分からなかったから、マダムたちに相談したんだ」
オリヴィアはじっと私を見つめたまま、ふうっと小さく息を吐いた。
「それでも……私への想いを他人に話されるのは嫌だわ」
彼女の言葉に、胸がズキリと痛んだ。確かに、彼女への想いを最初に告白したのは、彼女本人ではなくサロンのマダム達だった。そうか、彼女はそれが嫌で、怒っているのか。
(……言い訳のしようがない)
「……でも、本当のことを言ったら……君に嫌われる……と思って」
「嫌わないから、言ってみなさいよ」
彼女の瞳が、じっと私を見据える。その瞳が、妙に眩しかった。言ってもいいのだろうか?彼女は嫌わないと言った。だが、言えば嫌われるかもしれない。胸の奥で躊躇が渦巻く。それでも、意を決して口を開いた。彼女が、望んでいるから。
「……君と、ずっと一緒にいたい」
彼女が目を瞬いた。
「それだけ?」
じっと見つめてくる彼女に、頬が熱くなるのを感じた。
(足りなかったのか?)
「……君の笑顔が見たい。君の声をもっと聞きたい。君の隣に、私の居場所があってほしい」
(これ以上を、言っても良いのだろうか?怖がられないだろうか?でも、知ってほしい。本当の想いを)
「……君が誰かのものになるなんて……考えられない」
「……え?」
彼女の表情が驚きに変わる。
(恋人の元には、戻せない。ずっと、私のそばにいてほしい)
「君が他の誰かの隣で笑っているところなんて、見たくない」
彼女の顔がこわばり、唇が少し震えた。
(本心を言えば、きっと嫌われる。でも、それでも――)
「だから君が私を嫌うくらいなら、いっそのこと逃げられないように、四肢を縛ってでも傍に置きたい」
「……えっ……!?」
オリヴィアの顔が青ざめる。瞳が見開かれ、後ずさりをした。
「こ、怖い……怖い……怖い……!!!」
その言葉を聞いても、なぜか私は冷静だった。彼女を見つめながら、静かに口を開いた。
「君を失うくらいなら、私は……君の自由を奪ってでも、傍に置いておきたい。――嫌わない約束、だろ?」
彼女の目が震えている。まるで私の言葉が何か鋭い刃物でもあるかのように怯えていた。
「……あなた、本当に私を、愛してるの?」
その言葉に、頭の中が真っ白になった。何を言っているのか?あんなに伝えたのに――。
「……私は、君を愛している。誰よりも。君がどこにも行かないように、何だってする。私の隣にずっといられるように」
言葉が溢れる。抑えようとしても、胸の奥から次々と溢れ出す。
気づけば、頬を伝うものがあった。涙だった。彼女の恐怖に歪んだ表情が視界に映る。だが、その涙は止まらなかった。財力は示した。公爵夫人として自由に過ごせるとも伝えた。愛していることも、バラで見せた。でも彼女は手に入らない。
(もう、彼女を縛るしかない――)
彼女は私を愛さない。結婚も承諾しない。ならば、物理的に囲わなければいけない。逃げないように。恋人の元に行かないように。
やはり母のあの本は正しかったのだ。これは、最上級の愛だ。
それに、彼女がもしエルセリア王国に帰り、すぐにどこかに嫁いだら、私は武力をもってしても彼女を取り返しに行くだろう。無駄な血が流れる。それは、彼女にとっても不本意なはずだ。そう、これは、合理的な判断なんだ。手を伸ばしかけた、その瞬間。
「……はぁー、もういいわ! 結婚してあげる!」
信じられない言葉が耳に入った。
(聞き間違い?とうとう幻聴か?)
驚きで手が止まる。目の前のオリヴィアは、肩を落として大きなため息をついていた。
「でも、その代わり――」
彼女の可憐な声が響く。
「私の自由は絶対に奪わないこと。それから、私を縛らないこと!わかった?」
喉が詰まるような感覚に襲われた。つい今しがた考えていたことだったからだ。
(聞き間違いじゃなかった?本当に結婚してくれるのか?縛らなければ、彼女が逃げるかもしれない。でも、縛らなければ――結婚してくれるのか?)
そしていつかは、私を、愛してくれる?
私は混乱した。言葉にならない思いが胸の中でぐるぐると渦巻く。だが、彼女の瞳は鋭く、私を睨みつけている。念のため、確認してみた。
「……でも、足だけでも縛るのはダメか?」
オリヴィアの顔が真っ赤に染まった。
そして――
「ダメに決まってるでしょおおおお!!!」
彼女の叫び声が部屋中に響き渡った。