第十二話 執着の檻(ローランド視点)
※2025年5月30日、一部設定を修正しました。
「国外で暗殺されたため出国できない」という記述を、「防衛の要ゆえ国外渡航が禁止されている」という表現に変更しています。物語に大きな影響はありません。
使節団が帰国予定の日。
空は雲一つない快晴だった。だが海の天候不良という口実で、使節団を足止めした。
私は平然とした表情で、船の出航を許可しなかった。皆、不審に思ったことだろう。
翌日も、何かと理由をつけて船を出さなかった。すると、使節団の責任者が面談を申し入れてきた。
「エルセリア王国以外の船は出航しているのに、どういうことなのですか?」
「エルセリア王国への航路だけが荒れている。危険だから出航は控えさせてもらう」
責任者は押し黙った。沈黙が落ちる。やがて私は微笑を浮かべながら言い放った。
「……オリヴィア嬢を残してくれるなら、考えてもいい。交渉を継続するにあたり、オリヴィア嬢にだけ、滞在を延期してほしい」
私がこのような提案をした理由は、二つある。
一つは、どうしようもなく個人的なもの。
もう一つは、彼女の身を案じての判断だ。
一つ目は、恋人の存在。
帰国して彼女が恋人と会うところを想像しただけでも、気が狂いそうになる。
だが、もし彼女が帰国したとしても、おそらくすぐには結婚しないだろう。彼女はもう二十歳だ。エルセリア王国の一般的な貴族令嬢の適齢期は十六歳から十八歳。
おそらく恋人との身分差など、何か結婚できない理由があるに違いない。
二つ目は、彼女を守るため。
残念ながら、使節団に帯同する女性が、政略的な「贈り物」として扱われることは、決して珍しくない。
……いわゆる、政略結婚、あるいは色仕掛け――ハニートラップというやつだ。
貴族同士の政略結婚とは意味合いが違う。レグナス王国では、そのようなやり方は決して許されない。不愉快極まりない。
そして、オリヴィアもまた、本人の意図とは無関係に、そうした対象にされるのでは――そう気づいたのは、ごく最近のことだった。
もちろん、彼女自身にそのつもりがないことは分かっている。
だが、使節団の他の女性は違った。
私がオリヴィアに求婚していると知りながら、一人になる機会を見計らっては、あからさまな色仕掛けで迫ってきた。
当然、すげなく断った。嫌悪感だけが残った。
あの行動が、個人の独断なのか、それともエルセリア王国としての方針なのかは分からない。
それを確かめたかった。エルセリアは、女性を取引に使うような国なのか――。
ここで、もし使節団の責任者がこの取引を断ったなら、たとえオリヴィアを帰国させたとしても、彼女が政略結婚を強いられる可能性は、そう高くはないだろう。
だが、もし責任者がこの取引に応じるような人物ならば、そんな判断を下す人間にオリヴィアを任せることはできない。
いまここで、私はエルセリア王国の本心を見極めようとしていた。
責任者は重々しく口を開いた。
「オリヴィア嬢は名門伯爵家のご令嬢です。無責任な真似は出来かねます」
責任者は、一見、誠実な対応を見せた。だが外交の場では、これは当然だ。好条件を引き出すために。
これが本当の誠実さなのかを試すように、私は好条件を提示した。
「問題ない。サリスタン伯爵家に求婚状を用意した。あなたから伯爵に渡してほしい。ウィンターガルド公爵家は、妻の生家になら魔鉱石を融通する用意がある。魔鉱石の輸出は禁止されているが、特例だ」
責任者の目が見開かれた。
使節団の責任者を通じて届けさせることで、エルセリア側もこの婚約に賛成しているという形を取れという政略結婚の申し出だ。サリスタン伯爵への圧力としては、申し分ないだろう。これに乗るようでは、他の国での圧力にすぐ屈するだろう。
人よりも利益を優先する野心ある者なら、こんな好機を逃すはずがない。魔鉱石の輸出も数は少ないが実現となったら大きな成果となる。たとえ輸出先がサリスタン伯爵のみだとしても。そこからエルセリア王家には当然流れるだろうが、想定内だ。思案したのか責任者の目が揺れた――。
(揺らいだ)
私は静かに笑った。
そんな国の価値観に、彼女を委ねるわけにはいかない。
「……承知しました。私から、伯爵に責任を持ってお渡しいたします」
「ああ、頼む」
「オリヴィア嬢には説明しますが、納得しない場合は……」
俺は少しだけ身を乗り出し、声を潜めて囁いた。
「夜中に出航するんだ。……できるだけ、彼女には気づかれないようにな」
責任者は、目を伏せた。
「……はい」
こうして、夜逃げのような出立が行われた。
……分かっている。
結局、私も交渉の場に彼女を使ってしまっている。
本当はそんなこと、したくはなかった。
だが、それでも――彼女を守れるのは、私だけだと信じていた。
もしこの時、責任者が彼女を連れ帰ると言うなら、帰国を許可するつもりだった。
ただ、ウィンターガルド家の者は、国外に出ることを禁止されている。
ウィンターガルド領は王国南部の防衛の要。私のような立場の者が軽々しく国を離れれば、それは国境を脅かす隙となると見なされているのだ。
だからその後、私はできる限りの手を尽くすつもりだった。
王国への婚約申請も、外交交渉も、彼女への手紙も――すべてを。
それでも彼女が私を拒むなら、その時は……ウィンターガルドを捨ててでも、彼女のもとへ向かう覚悟だった。
彼女を失ったら、私は狂う。自分でも、それが分かっていた。
***
そこからは彼女と二人っきりの時間が増えた。
彼女を救った気でいた私は、すっかり舞い上がっていた。
まるで新婚生活のようだった。誰にも邪魔されない、二人きりの空間。素晴らしい。
私も迎賓館の客室で寝泊まりするようになった。移動する時間すら惜しい。その時間を彼女と過ごしたかった。必要な書類を持ち込み、執務も空き部屋で済ませた。だが、浮かれる私とは対照的に、彼女は「国に帰りたい」と繰り返した。
(帰りたい?なぜそんなことを言うんだ)
もう求婚状はサリスタン伯爵に届いているはずだ。伯爵家にとって破格の条件だ。断るはずがない。そしてもう彼女は、貧しく愚かな恋人には二度と会えない。
(会えなければ、そのうち忘れるだろう。早く私を見てほしい)
そういえば気になることがある。エルセリア王国に派遣した隠密隊からの報告によると、彼女は婚約者はおらず、恋人も見当たらないようだ。
(秘密の恋人か?ただの身分違いではない……?もしかすると、不貞?)
使節団には既婚者が多かったが、まさか……。彼女を粗末に扱った者がいるかもしれないと、怒りが思考を支配しそうになったが、理性で打ち消した。もう、どちらでもいい。もう彼女がその最低な男と再会することは、決してないのだから。
数日後。サリスタン伯爵が港に着いたという知らせが届いた。求婚状を受け取り、すぐにこちらに向かったらしい。
私は自ら港まで迎えに行った。伯爵は公爵家嫡男自らが迎えに来たことに驚いていた。
だが、オリヴィアが大切にされていることを喜んでいる様子だった。もちろん、結婚には賛成してくれた。迎賓館に案内し、オリヴィアと三人で話をした。だが、彼女は結婚を承諾しなかった。
(よほど、恋人のことが好きなのか?)
沈む気持ちを抑えて、それとなく伯爵に探りを入れてみたが、浮いた話はなかったという。それどころか、オリヴィアは外交官になるのが夢で、他のことには目もくれなかったらしい。
(外交官か。次はその方向でアプローチしてみるか)
帰りたがる理由が街並みへの郷愁なら、このウィンターガルド領内に彼女の故郷の街並みを再現すればいい。彼女が喜ぶなら、そこに新居も建てる。次期公爵夫人の故郷の街なら観光客も増える。商業的にも採算が取れる見込みだった。だが、その提案を伝えた時。オリヴィアの顔がみるみる曇った。
(なぜだ?)
「あなたみたいにお金と権力で周囲を固めて人を支配しようとする人、絶対に嫌! それに、つかみどころがなくて無神経なところも無理!」
その言葉が、私の胸を貫いた。
――嫌?無理?
「好きな女性に愛の言葉一つも囁けない人のところになんか、嫁ぎませんから!!!」
ドアを強く閉める音が響き渡る。
「……愛の、言葉?」
どういうことだ?私は、愛の言葉を、ずっと尽くしていたはずだが――
その夜。父上に連れられて、娼館が連なる花街に足を踏み入れた。
夜風に乗って甘い香水の香りが漂う。華やかな灯りが通りを照らし、艶やかな声が行き交う中、父上が足を止めたのは、一際落ち着いた雰囲気の店だった。派手な装飾は控えめで、上質な調度品が整然と並べられている。
父上はマダムに軽く挨拶をし、「今日は無礼講だ。遠慮せず、はっきり言ってやってくれ」と促す。父上と一通り会話を交わした後、店の女主人であるマダムが涼しげな笑みを浮かべて尋ねた。
「若様は、その女性をどう思っているのですか?」
「彼女と結婚したい」
「それは何をしたいかですわ。そうではなく、彼女のことをどう思っているのかをお聞かせください。彼女へ愛の言葉を囁くために、若様の本当のお気持ちを」
私は、少し考えたあと、自分の胸の内をさらけ出した。
「……彼女を愛している。いつも笑っていてほしい。幸せにしたい。私を、好きになってほしい。それが叶わないのなら、せめて彼女を他の誰にも見せたくない。できれば、閉じ込めたい。私がいなければ息もできないほどになればいい。逃げようとするならば、彼女の四肢を縛りつけてでも、逃がしたくない。それでも逃げようとするなら――」
「いやいやいやいや、ちょっとお待ちください!」
マダムは慌てて私の言葉を遮った。動揺を隠し切れない顔で、それでも無理に笑みを作って言う。
「怖すぎますわ」
マダムの言葉が意外すぎて、私は一瞬目を見開いた。怖い?
「女性というものは、甘い言葉にこそ酔いしれるものですのよ。若様がその方を手に入れたいと思われるなら、もっとロマンチックに囁かなければなりません」
「だが、すでに家格の話はした。彼女はそれになびかなかった」
「は? ……いえ、それならなおのこと、お金や現実的な話ではなく、詩的な表現が良いかと思います」
マダムの顔が引きつっている。詩的な表現?何を言っているのだ。詩が何の役に立つというのだ。私は混乱しながらも問い返す。
「好きな女性に愛の言葉一つも囁けない人のところになんか、嫁ぎたくないと言われたが、私はどうすればいいのか?」
「愛していることは、お伝えになりましたか?」
マダムは軽く首を傾け、まるで当たり前のことを聞くように言った。
「……そんなこと、私の態度を見ればわかることだろう」
私はぶっきらぼうに答えた。すかさず父上が口を開いた。
「は? お前、まさかそれも伝えてないのか?」
私はすぐに父上に答えた。
「今までの私の行動で分かるはずです」
父上は唇を引き結び、何も言わなかった。横で、マダムがため息をつきながら言った。
「女性というものは、行動だけではなく、言葉でも伝えてほしい生き物なのです。『愛している』『君だけを見ている』――そういった直接的な言葉を相手に届けるべきですわ」
「だが、皆の前でプロポーズをした。断られても何度も誘い結婚のメリットを説いた。それでも分からないというのか?」
自分の声が少し荒くなっているのが分かる。
なぜ伝わらない?
あれほど大勢の前で、私の名誉もかけて申し込んだというのに――。
マダムは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに微笑を取り戻し、優しく言った。
「……お相手は外国の方とおっしゃいましたよね? 文化が違う可能性もありますわ。だからこそ、若様。もっと直接的に、分かりやすく伝えて差し上げてくださいませ」
「……具体的には?」
「できれば、若様が考えている本心の、上澄みの甘い部分だけをすくって届けるんですわ。心の底の欲望は隠して」
私は眉をひそめた。
「すべて伝えたらどうなる?」
マダムはにっこりと微笑んだ。
「怖がって逃げるでしょうね」
「……上澄みの甘い部分とは?」
「束縛する言葉を省いて、若様の想いを伝えるのです。甘くて美しい、きれいな言葉で」
「だが……それは……甘い言葉など、私には……」
無意識に頬が熱くなるのを感じた。
「恥ずかしくても、若様の心が伝われば、きっと響きますわ」
(恥ずかしい?私が?)
「お相手の方が好きな表現を知るのが一番良いのですけど」
「……彼女は、恋愛小説を好んで読んでいる」
彼女のそばについている隠密隊からの報告を告げた。
「まあ! それは素敵ですね。では、ロマンチックな表現が好ましいかと」
「ロマンチックな表現?」
「きっと、その恋愛小説のようなアプローチの仕方が、お相手の方の心を打つ表現ですわ。若様も読んでみてください」
マダムは他にもいろいろ、アドバイスをくれた。
私は眉間にしわを寄せたまま、一筋の光を見るように、そのアドバイスに従った。