第十話 届かぬ想い(ローランド視点)
※本話より、ローランド視点の物語が始まります。
ローランド視点では「重すぎる執着」が描かれますが、安心してください。
彼は少しずつ成長していきます。
本編後の番外編では、オリヴィアにしっかり尻に敷かれ、結婚前の不満を思いきりぶつけられるシーンも登場します(笑)
オリヴィアが好きすぎて、必死に囲い込もうと努力するも空回り、思惑もことごとく外れ、ついには狂気すら感じるローランドの姿を、笑いつつ、少しだけ震えながら楽しんでいただければ幸いです。
彼女を見た瞬間、世界が変わった。
それまで無彩色だった景色に、鮮やかな色が差し込んだようだった。
ローズゴールドの髪。月明かりのように静かな灰色の瞳。そして、控えめな微笑み――。
(……これだ。間違いない。彼女が、私の番だ)
昔から語られる竜人の伝承。
王家の始祖が竜人であったという神話を、私は信じていなかった。
国をまとめるために捏造された美談。そう思っていた。
だが、ひと目見た瞬間にわかった。
この人を手放したら、私はきっと壊れる。
公爵家と王家の間でのみ、密かに語り継がれてきた伝承がある。
――番と結ばれなければ、竜人は心を病み、生きる意味を見失う。
あのとき、確信した。
これは、ただの恋ではない。
この感情は、運命に刻まれた渇きだ。
***
エルセリア王国使節団が到着した歓迎式典で彼女を見つけた後、私は使節団の連絡係に近づき、彼女の素性を尋ねた。
オリヴィア・サリスタン伯爵令嬢。
それが彼女の名前だった。エルセリア王国で初の女性外交官の卵として期待されているそうだ。
美貌だけではなく、知性も兼ね備えた女性――ウィンターガルド公爵家の次期公爵夫人として申し分ない。
本当はすぐにでも彼女に話しかけたかった。
だが、彼女は迎賓館に滞在している。急いで接触する必要はない。
焦るな、ローランド。彼女は逃げない。
まずは、段取りを整えることが先だ。
女性を口説いたことは、一度もない。
だが、取引や交渉ならいくらでも経験がある。
ならば、今回も同じように進めればいい――交渉と同じ手順で。
焦燥感を抱えたまま、足早に父上の執務室へ向かった。私の番を見つけたと伝えると、父上はたいそう喜ばれた。父上はウィンターガルドの家督を早く譲りたがっていた。番の母上と別荘に移り住んでのんびり暮らしたいらしい。ウィンターガルド公爵家では代々その傾向がある。
王家に匹敵するほどの権力を持つが、当主は権力に興味がなく、妻を溺愛する。次世代が育ったらすぐに家督を譲る。不思議で仕方がなかったが、今なら、わかる気がする。仕事なんてせず、最愛の人と一日中、一緒にいる方が楽しいだろう。
父上から『番との婚約を取り付けろ』と命じられ、一部の権限を得た。
良い。これで計画は進めやすくなる。
まずは相手の情報を集める。交渉において、相手の立場や弱点を知るのは基本中の基本だ。
我がウィンターガルド公爵領には大規模な軍組織がある。その中の隠密部隊の一部隊を使うことにした。すぐに執事に指示を出した。
「サリスタン伯爵家のことを調べろ。彼女の立場、家族構成、財政状況、交友関係――すべてだ」
だがすぐにエルセリア王国に向かわせたとしても、報告が上がるまでに数日はかかるだろう。情報が集まるまでの時間がもどかしい。
それまでに、まずは彼女と出会わなければならない。印象を良くすることが大事だ。無礼者だと思われては困る。
絶対に、彼女を手に入れる。
まずは、その第一歩。
彼女との出会いからだ
***
翌日の歓迎夜会で、自然に近づくつもりだったが、計画は狂ってしまった。
夜会での彼女は美しく着飾り、ひときわ目立っていた。ローズゴールドの髪をハーフアップにまとめ、耳元には小さなローズゴールドの花飾りが輝いている。背中をなぞるように流れた髪が、彼女の首筋を際立たせていた。ドレスは淡いシルバーブルー。光を受けるたびにシルバーの刺繍が繊細に輝き、胸元から裾へと蔦模様が流れていた。袖は肘上までの五分丈で、透け感のあるオーガンジーが肌をほのかに透かし、儚げな印象を与えている。ウエストにはローズゴールドのリボンが結ばれ、歩くたびにスカートが揺れ、裾の刺繍が星屑のように煌めいた。
(可愛い可愛い可愛い可愛い)
完璧な女性だ。壇上に立ち挨拶をする公爵夫妻のやや後ろに立ち、ずっと彼女を見ていた。父の挨拶は長く感じた。じっと耐えながら、彼女を見つめ続けた。時折、彼女がこちらを見ているような気がして、心臓が高鳴る。だが、彼女の視線はすぐに逸れた。
落ち着け。
自然なタイミングで近づくんだ。
偶然を装ってさわやかな笑顔で彼女に話しかけるんだ。
そう自分に言い聞かせながら、歓談の時間になり、近くにいる使節団の連中と挨拶を交わしながら少しずつ彼女の元へ向かう。少しずつでも確実に歩を進めていた――その時。
可憐な声が響き、彼女の笑顔が広がる。レグナス王国の貴族男性たちと楽しそうに会話を交わす彼女。私の心臓が、焼けるように熱くなる。
(なぜ、私以外の男と話しているんだ?)
話し相手の言葉が耳を通り過ぎていく。
「――で、それで……」
「ではまた後ほど」
言い終わる前に足を向けたのは、彼女のもとだった。勢いよく近づく私に気づき、彼女は目を丸くする。ぶしつけだとは思ったが、構わない。彼女が他の男と話しているのは、どうしても耐えられなかった。
「失礼、ご令嬢」
声が上ずるのを抑え込み、自己紹介を済ませると、すぐにダンスに誘った。
「ローランド・ウィンターガルドと申します。使節団の方ですよね……ずっと、お話ししてみたかった。よろしければ――一曲、お付き合い願えますか?」
だが、彼女はなかなか返事をくれない。突然の申し出にどう返事をするか思案しているようだった。数秒の沈黙が永遠に思えた。まずい。断られる可能性が頭をよぎる。咄嗟に笑顔を取り繕った。
「はは、怖がらせてしまったかな?」
逃がすまいと手を差し出した。断らせるはずがない。少し威圧してしまった自覚はある。
「……いえ。喜んで、ご一緒しますわ」
彼女は微笑んでいるが、その目は明らかに不信感を宿していた。
(しまった!失敗したーーーーー!!!)
焦らずに近づこうとしていたのに、気づけば足が勝手に動いていた。
ここから挽回しなければ。
そう思考を巡らせていたはずだったのに、彼女が私の手を取った瞬間、すべての思考が吹き飛んだ。
手袋越しでも伝わる柔らかな感触に、胸の奥が熱くなる。薄い布が、彼女との間に立ちはだかる壁のように思えた。
直接触れたい――そんな衝動が、胸を焼く。
だが、手袋越しとはいえ、彼女の手を包んでいるという事実はたまらなく嬉しい。
滑らかな手袋の下に確かに存在する彼女の指。温もりを感じるたびに、心臓が鼓動を強める。こんな形でしか触れられないことが、もどかしくて、苦しい。
だが、それでも、今はこの感触だけでも堪能したい。
ダンスが始まった後も、彼女の手を握りしめたまま、食い入るように彼女を見つめた。目が離せない。
彼女は緊張しているのか、表情が硬い。このような外交の場にいるのだから当然だろう。
もしかすると、初めての異国での夜会かもしれない。見知らぬ国、慣れない文化、そして大勢の貴族たち。不安もあるだろう。
少しでも心をほぐしてやらねば。私との時間が、少しでも安心できるものになればいい。
そしてできることなら、良い印象を持ってほしい。そんな思いで、彼女に話しかけた。
「レグナス王国までの船旅はいかがでしたか?」
彼女の唇が微かに動く。
「ええ。嵐に遭うこともなく、とても快適でしたわ」
心臓が高鳴った。彼女の声が思ったよりも近く、耳に響く。だが、彼女の言葉の裏にある意図に気付いた。
竜風――。
それは幾度となくエルセリア王国の侵攻船を沈めてきた、不思議な風だ。レグナス王国は島国である。侵攻するには、大軍を率いて海を渡らなければならない。だが、なぜか敵意を持った船は必ず沈むと伝えられている。建国から二千年。レグナス王国はその「風」に守られてきた。
彼女の言葉には、その意味が含まれているのだろう。私たちは敵意を持っていない――そんなメッセージ。貴族らしい、控えめで上品な伝え方だ。思わず笑みがこぼれた。
「はは、それは良かった。では安心だ」
「ええ。今回の使節が、両国の友好関係をさらに深めるきっかけになることを願っています」
私は、あなたと関係を深めたい。すぐにでも。
「私も、心から、そう思っています」
だが、焦るな。まずは確認しなければならない。彼女に婚約者がいるのか――。隠密隊の報告はまだ数日かかる。待っていられなかった。
「ところで――突然に思われるかもしれませんが、港の歓迎式典で、あなたをお見掛けしてから……ずっと気になっていました。失礼ですが……婚約者や恋人はいらっしゃいますか?」
胸が高鳴る。
(いないといってくれ。でないと私はどうなるかわからない)
祈るような思いで彼女の顔を見つめた。彼女の唇が、緩やかに笑みの形を取る。
「うふふ、お上手ですのね。ご想像にお任せいたしますわ」
あくまで柔らかく、けれど確実にかわされた。
(なぜごまかす?まさか……いるのか?)
「つれないな。――では、次期公爵夫人という立場にご興味は?」
まだ時期尚早だとわかっている。だが、言わずにはいられなかった。引き寄せておきたい。誰にも取られたくない。彼女の眉が僅かに動いた。
「裏切れない相手がおりますの。社交辞令とはいえ、魅力的なお誘いに感謝申し上げますわ」
頭を殴られたような衝撃を受けた。顔から笑みが消えたのが、自分でもわかった。
(恋人が、いる、だと……?)
頭の奥でその言葉が反響する。胸の奥が熱く、何かが渦巻くような感覚が広がる。
許せない。会わせたくない。もう二度と、その恋人とは会わせない。
「――申し訳ないが、その恋人とは――」
言葉を発する前に、彼女の手を握りしめたまま、強引にターンさせた。曲調が激しくなり、リードが強くなる。抑えきれず、声が漏れた。
――……二度と会えない。
掻き消されるような、かすれた声。楽団の音が大広間に響き渡り、その一瞬の呟きは掻き消された。
「……え?」
彼女に聞こえたかどうかはわからない。
(彼女は、私のものだ。誰にも渡さない)
ダンスの旋律が余韻を残しながら終わる。彼女が感謝を述べようと口を開きかけた瞬間、私は静かに一礼し、そして、片膝を床についた。大広間のざわめきが、一瞬にして凍りつく。音楽も止まり、視線が私たち二人に集中する。まるで重厚な儀式の始まりのように。
彼女の瞳を逃がさないように見つめ続けた。胸の奥から湧き上がった言葉が、理性を突き破るように溢れ出す。
「私と、結婚してください」
まるで騎士が忠誠を誓うかのような姿勢だった。声は震えていない。むしろ、妙に澄んでいる。彼女の唇が開き、そして静かに――。
「……お断りします」
静まり返った大広間に、その言葉だけが、はっきりと響き渡った。
拒絶。
彼女の言葉が、まるで鈍器で殴られたかのように頭の中で響く。一瞬、耳鳴りがして、自分が何を言われたのか理解できなかった。彼女の唇が動いた。冷静で、柔らかい声音で。
彼女は私を拒絶した。
その事実が、じわじわと胸の奥に染み込んでいく。重く、冷たく、胃の奥に鉛を詰め込まれたような感覚。心臓が鼓動を打っているのに、体の中から音が消えていくようだった。
(なぜ――?)
自分の胸元に手を置く。脈打つ鼓動だけが、唯一の現実感だった。
私が求婚した。私が忠誠を誓った。この場で、公爵家の嫡男として、彼女に全てを捧げる覚悟を示したというのに。それなのに、断られた。彼女の瞳に私は、どのように映ったのだろうか。
彼女の唇に浮かぶ微笑みは、冷たく感じられる。
今しがた膝をついて求婚した自分が滑稽に思えてならない。喉の奥が渇く。口の中が苦い。彼女の拒絶が、私の中に芽生えた狂気に火をつける。
許せない。脳裏に浮かぶのは、彼女の言葉の一片。
――裏切れない相手がおりますの
彼女が私を拒絶した理由が、その男の存在だとしたら……?いや、そうに違いない。それ以外に考えられない。
指先が震える。震えを隠すように手を握りしめた。冷たい汗が背中を伝う。胸の奥で渦巻く感情は嫉妬か、憎悪か、それとも絶望か。
彼女は私を拒んだ。私の求婚を、たやすく、簡単に、笑顔で拒絶した。
だが、それで終わるわけがない。
オリヴィアは私のものだ。
拒絶されたなら、どうする?
奪えばいい。
その考えが頭の中を支配した瞬間、私は立ち上がり、口元に笑みを浮かべた。
彼女の瞳に映るのは、私だけでいい。
その微笑みも、その声も、その髪の一筋も――。
奪ってやる。
どんな手を使ってでも。