第一話 予期せぬ求婚
異国の港町に降り立った瞬間、オリヴィアは胸の奥で鼓動が高鳴るのを感じた。
(これが、私の初舞台。夢見た外交官への第一歩だわ)
足元を撫でる潮風は、生まれ育ったエルセリア王国とは違う匂いを運んできた。白い石畳が港から街へと続き、その道の先には威圧感すら覚える黒い石の防壁がそびえ立っていた。
(ここが、レグナス王国……)
港には、この地を治めるウィンターガルド公爵家の紋章を掲げた旗がはためき、整列した兵士たちが使節団を出迎えていた。港の一角に簡易的な壇が設けられ、エルセリア使節団の到着を祝う歓迎式典が行われた。船旅の疲れも考慮して短時間で終える簡易的なものだった。オリヴィアはふと視線を感じて振り返ったが、そこは人混み。誰かが自分を見ていた気がしたが、勘違いだったようだ。しばらく滞在する迎賓館へ向かう馬車に乗り込んだ。
外交使節団の一員としてこの地を訪れるのは、これが初めてだった。形式的な友好条約の確認に加え、交易の拡大や文化交流に関する協議も予定されている。その一環として、オリヴィアは使節団補佐官という肩書きで同行を許された。本来なら男性の補佐官が就くはずの役職に、名門伯爵家の令嬢が抜擢されたのは異例だった。……とはいえ、正式な交渉には関わらない。オリヴィアの役目は、あくまで社交場での顔見せと、式典の補佐に限られている。だがオリヴィアは、外交の現場に立つと幼い頃から誓い、各国語と交渉術を必死に学び、ようやくこの機会を得たのだ。
――父の推薦がなければ、この場に立つことすら叶わなかっただろう。
もっとも、その父は、いまだに娘の結婚を願っている。国内ではオリヴィアに結婚願望がないことはよく知られているため、外交の場で良縁があれば……と淡い期待を抱いて、彼女を送り出したのだろう。
「結婚なんて、する暇があると思ってるのかしら」
(だって今の私は、エルセリアの初の女性外交官候補としてこの舞台に立っているのだから)
鏡越しに映る自分の姿は、まるで舞台に立つ女優のようだった。
***
ここは、レグナス王国最大の交易港があるウィンターガルド公爵領。エルセリア王国とレグナス王国が正式に国交を結んでから、まだ数十年しか経っていない。大陸の北西に位置するエルセリア王国。その海を挟んだ北側に、この島国レグナス王国はある。建国二千年以上の歴史を誇るこの国は、かつて幾度も侵攻の危機にさらされた。だが、そのたびに竜風と呼ばれる神秘的な嵐が発生し、敵国の軍船をすべて沈めてきた。ただ不思議なことに、不穏な目的を持たない船だけは無事に港へ辿り着けるという。ゆえに今も、レグナス王国は「神に守られた国」として、畏敬の念をもって語られている。
今回の使節訪問は、表向きこそ文化交流の名目だが、実際の狙いは魔鉱石の交易路拡大にあることを、オリヴィアは理解していた。魔鉱石――それは魔道具の動力源となる、極めて希少な鉱石である。魔道具には、水の出ない土地から水を汲み上げる装置や、遠く離れた相手と連絡を取る通信具など、生活を一変させる機能が宿っている。しかし、その力は魔鉱石があってこそ発揮されるものであり、石が尽きればただの飾りにすぎない。
魔鉱石が採れる場所は限られており、レグナス王国はその一大産出国だ。だが他国への輸出は行っていない。希少な魔鉱石と、それを加工した魔道具はどちらも高価で、一定期間ごとに魔鉱石を交換しなければ機能しない。したがって、その維持には莫大な費用がかかる。ゆえに、魔道具を持つことが許されるのは、レグナス国内でも王族や上級貴族、一部の非常に裕福な商人に限られていた。
魔鉱石を安定して輸入できれば、エルセリアにとっては技術的にも政治的にも大きな一歩となる。使節団の一員として名を連ねたことに、オリヴィアは誇りを感じていた。自分にできることは少ないかもしれないが、せめて少しでも役立ちたい。そう考えながら、オリヴィアは意気込んでいた。
***
使節団の歓迎を兼ねた夜会が開かれた。会場は、レグナス王国最大の交易港を有するとともに魔鉱石の最大産出地でもあるウィンターガルド公爵邸の大広間だ。足を踏み入れた瞬間、オリヴィアは目を見張った。天井は通常の部屋よりも高く、開放感が広がっている。中央には巨大なシャンデリアが吊るされており、魔鉱石が織り込まれたそれが揺らめく光を放っていた。煌めく光は壁面の装飾を照らし出し、空間全体に神秘的な雰囲気をもたらしている。オリヴィアは、静かに息を呑んだ。異国の格式と魔鉱石が放つ神秘的な力を、初めて肌で感じた気がする。
(さすがは……「神に守られた国」。ここが、ウィンターガルド公爵家――)
そしてこの場所で、彼女は「運命の出会い」を果たすことになる。
***
夜会の始まりを告げる挨拶を、領主であるウィンターガルド公爵が壇上で行った。
「ようこそ、遥々この地までお越しくださいました。レグナス王国とエルセリア王国との友好が、これまで以上に深まることを、心より願っております。本夜がその第一歩となりますように」
低く落ち着いた声が大広間全体に響き渡り、周囲から拍手が湧き起こった。明るい金髪の公爵の隣には、品のあるダークブロンドのウィンターガルド公爵夫人が控えていた。そしてそのやや後ろ、控えめに距離を置いて立つ一人の青年。
アッシュゴールドの髪に碧眼、背が高く、整った顔立ちのその青年は、壇上から大広間を見渡していたが、まるで的を絞ったかのように、オリヴィアをじっと見つめていた。その視線に気づいた瞬間、オリヴィアの背筋がわずかにこわばる。
(……なんなの、この人)
やがて挨拶が終わり、大広間は華やかな音楽に包まれる。今夜の夜会に合わせて舞踏用に整えられた空間の中央には、広々としたダンスフロアが設けられている。歓談やダンスが始まり、貴族たちはそれぞれの輪へと分かれていった。オリヴィアは直属の上司である外交官の傍らで、レグナス王国の若い貴族たちと挨拶を交わしていた。外交使節としての立場を崩さぬよう、丁寧に礼を取り、時折冗談を交えながら、和やかな空気を保っていた。
そんな中だった。目の前の空間を切り裂くように、先ほど壇上にいたアッシュゴールドの青年が、まっすぐオリヴィアのもとへと歩み寄ってきた。
「失礼、ご令嬢。ローランド・ウィンターガルドと申します。使節団の方ですよね……ずっと、お話ししてみたかった。よろしければ――一曲、お付き合い願えますか?」
その言葉は、突如として場の空気を一変させた。オリヴィアの周囲の、さっきまで談笑していたレグナスの貴族たちが、揃って言葉を失っていた。目を見開いたまま、ぽかんと口を開ける者もいれば、そっと息を呑む者もいる。
(ウィンターガルド……公爵家の嫡男ってことよね?)
渡航前の準備で、レグナス王国の有力貴族についてはひととおり学んできた。ウィンターガルド公爵家の子供は一人だけ。嫡男のみだ。この国で魔鉱石の取引に深く関わる公爵家。その嫡男に無礼を働けば、交渉の行方に響く。その考えが脳裏をよぎり、オリヴィアの背筋がひやりと冷たくなった。
(……でも、なんで私に?他にも令嬢は大勢いるのに)
一応、丁寧に名乗りはされた。だが――あまりにも唐突な申し出だった。場の空気をまるで考えていない。今しがたまで他の貴族と談笑していたというのに、いきなり誘ってくるなんて。立場の差も考えず、まるで当然のように声をかけてくるその様子に、オリヴィアは戸惑いと違和感を覚えた。しかし相手は公爵家の跡取りだ。視察団の立場を考えれば、ここで冷たく断るのは……得策ではない。
(失礼になるかもしれない……断るには、理由がいる)
そんな思考が一瞬でめぐった。目の前の青年は、にこやかな微笑を浮かべながら、ただじっとオリヴィアの返事を待っていた。その笑みの奥に、何か得体の知れないものが潜んでいる気がして、彼女は内心の警戒を強める。
「はは、怖がらせてしまったかな?」
ローランドは軽く笑い、優雅な仕草で手を差し出した。その笑顔には爽やかさがあるが、どこか底が見えない。断り文句を探していたはずなのに、その笑顔に有無を言わせぬ圧を感じて、気づけば承諾してしまっていた。
「……いえ。喜んで、ご一緒しますわ」
(……断れなかった。でも、良かったのかもしれないわ。下手に断って、余計な波風を立てるのは避けるべきだもの)
使節団の目的を思えば、この場で公爵家嫡男の顔を潰すような真似はできない。魔鉱石の取引という本懐を損なうかもしれない。楽団が奏でる華やかな旋律に合わせて、オリヴィアはウィンターガルド公爵令息とダンスの輪へと足を踏み入れた。
ローランド・ウィンターガルド。
アッシュゴールドの髪に、澄んだ碧眼。均整の取れた容姿と、威圧感を伴わぬ上品な立ち居振る舞い。まるで肖像画の中から抜け出してきたかのようなその姿は、大広間に集う誰の目にも印象深く映っただろう。だが、彼の視線が今、まっすぐ自分だけを捉えていることに、オリヴィアはむしろ居心地の悪さを覚えていた。
(どうして……私なの?)
表情を崩さず笑顔を保ちつつ、胸の内では疑念が渦巻いていた。
(使節団の情報を探るため?あるいはただの物珍しさかしら。若い女性なら簡単に懐柔できるとでも?)
そんなことを考えながらも、オリヴィアは目の前の相手を観察していた。事前に目を通した資料によれば、彼はまだ婚約者もおらず独身。浮いた噂もない。これほどの家柄、容姿、立場なら、縁談話など山のように届くはずだ。つまり、断ってきたのだろう。
(……そうまでして自由を貫いてきた人が、どうして急に……?)
考え込んでいる間に、不意に声をかけられた。
「レグナス王国までの船旅はいかがでしたか?」
柔らかい笑みを浮かべたローランドの問いに、オリヴィアは瞬時に反応した。
「ええ。嵐に遭うこともなく、とても快適でしたわ」
さりげなく竜風の回避を強調する。自国は敵意を抱いていないという意思表示も含めての返答だ。ローランドは軽く笑い、涼しげな瞳でオリヴィアを見つめた。
「はは、それは良かった。では安心だ」
「今回の使節が、両国の友好関係をさらに深めるきっかけになることを願っていますわ」
「私も、心からそう思っています」
(今のところ、完璧な社交。上出来よ、私)
自画自賛する内心とは裏腹に、オリヴィアの胸はどこかざわついていた。そのときだった。
「ところで──突然に思われるかもしれませんが」
ローランドはわずかに距離を詰め、真っ直ぐにオリヴィアを見つめる。
「港の歓迎式典で、あなたをお見掛けしてから……ずっと気になっていました」
その眼差しは、熱を孕んでいた。言葉は穏やかでも、視線の強さが物語る。
「失礼ですが……婚約者や恋人はいらっしゃいますか?」
彼の声があまりに真剣で、一瞬だけ胸の鼓動が跳ね上がった。だが、オリヴィアは冷静さを崩さなかった。
「うふふ、お上手ですのね。ご想像にお任せいたしますわ」
あくまで柔らかく、けれど確実にかわす。
「つれないな。――では、次期公爵夫人という立場にご興味は?」
思わず、眉が動いた。
(普通、初対面でそんなこと言うかしら?これは、試されている?それとも、まさか本気?)
彼はにこやかだが、視線の熱は揺るがない。
「裏切れない相手がおりますの。社交辞令とはいえ、魅力的なお誘いに感謝申し上げますわ」
(相手は、もちろん仕事だけど)
外交官になり、結婚より国のために尽くすと決めていた。その意志に揺らぎはない。オリヴィアの言葉を聞いた瞬間、ローランドの微笑みが形を変えた。
「――申し訳ないが、その恋人とは」
一瞬、音が遠のいた。足の運びが乱れかけ、ローランドの力強いリードに引き寄せられた。
(何を……?)
彼の唇が動いた。声が耳に届く。
――……二度と会えない。
「……え?」
声は耳に届いたはずなのに、旋律にかき消されて言葉の意味が掴めない。ただ、確かに彼は何かを呟いた。曲調が激しくなり、楽団の音が大広間全体を包み込む。ローランドは何も言わず、リズムに合わせてオリヴィアを導く。彼の表情は静かで、けれど異様な何かが宿っている。
(……いま、何を言ったの?)
だが、心のどこかで確信していた。
「この男は、少しおかしい」と。
ダンスの旋律が余韻を残しながら終わる。最後の一歩まで優雅に舞い終えたオリヴィアは、礼儀としてパートナーへ感謝を述べようと、口を開きかけた。
「素敵な時間を……」
けれど、それよりもわずかに早くローランドが、静かに一礼し――
そして、片膝を床についた。
大広間のざわめきが、一瞬にして凍りつく。音楽も忘れられたように沈黙が広がった。まるで重厚な儀式の始まりのように。ローランドは真剣な瞳で彼女を見上げ、ひとこと。
「私と――結婚してください」
まるで騎士が忠誠を誓うかのような姿勢だった。彼の声は柔らかく、けれど確かな意志を持っていた。
(――は?)
オリヴィアは、ほとんど反射的に答えていた。
「……お断りします」
静まり返った大広間に、その言葉だけがはっきりと響き渡った。
この夜、オリヴィアはまだ気づいていなかった。
国に帰れなくなることを。