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<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

A

格子の向こうの人の群れ

作者: 灰撒しずる

 四角い石と木の柱で組まれた箱型の建物の、隙間の空いた柵のような並び。

 疎らに、通りや道の概念もなく、ただ均された土地に適当な間隔で建てられた古い建物たち。その間に少し古い建物が建ち――古い建物と少し古い建物の間に、横の壁に拳一つだけ隙間を空けて新しめの建物が建つ。そうしてどうにかやっと道が出来た町の片隅は所謂歓楽街というところで、「隅の」という現地語そのままに、バージと名前が付けられていた。

 アンナヴーヌ・バージ。それがたった十二コルドのこの地区の名前だった。アンナヴーヌの南端。道を一本、進むのではなく越えれば隣町アンデルイに至る、ある意味では中心の、隅だ。

 そんな、どちらの町からも特別なやりとりを経ずに人が往来する賑やかしい隅の、一番大きな通りの裏側。そこに娼館シェーンはあった。 建物自体の造りは周囲とも大差ない三階建て。しかし、道に面した壁は少々特異な外見をしていた。

 柵、格子――檻。建物の一階部分から、柱と同じ材木で拵えられた檻が、主張激しく道側に突き出しているのだ。檻は宿の一部屋はあろうかという大きな代物で、店の名を告げる看板よりも余程人目につく。隅に素焼きの壺だけが置かれ、後は吹き込んだ砂埃だけがあった。檻の中は通りと共に静かだった。

 その横、檻の外で。薄汚れた椅子に腰かけ、ソメオは大口を開けて欠伸をした。

「ったりぃー……」

 低い声でぼやき、脚を組み替え、視線を上に向ける。腰に刷いた曲刀の先が地を擦っても、さして気にする様子はない。

 薄っぺらで安っぽい服を着た、三十前の男。ソメオは剣士で、娼館に雇われた用心棒――〝護り〟の一人だった。直毛の黒髪と眇めるように細いオリーヴ色の目はともかく、低い鼻と大きく存在感のある口を顔面に据える顔つきは、この界隈ではあまり見られないものだ。彼は此処カトナではなく、国一つ、大河と山脈を挟んで東にあるメェレンという国の出身だった。 とはいえこの国には異人が多い。その子供たち、混血もまた然り。そもそも三つの国であったのを央国(おうこく)が統一してしまったのだから、何が異人で何が同胞なのだか、定義などあってないようなものでもある。だから異人が特別に扱われることはあまり多くなかった。平穏な雑踏の中では、あまり、という前置き付きではあるが。

 そういうわけで、元より色は目立たぬこの青年剣士もまた、今は風景に埋没した置物だった。身分にしても身形にしても、彼は顔以外はこの地で特筆すべき点のない男だった。隣の檻のほうがよほど奇妙な、違和感のある存在なのだ。

 ソメオが見上げた空はまだ青さを残していて、護りの仕事が交代になるまではもう少しかかる。彼は細い弓形の眉をひん曲げて、溜息を吐く。 接触を避けた建物の間の見えない壁――隙間から、表側の様子が窺えた。日暮れ前の今はまだ、目的を持ってこの場所を訪れているのではなく、通り過ぎるだけの人々が多いようだった。誰もがこちらに見向きもせず、進む道の先へと顔を向けていた。

 建物の隙間からは風もよく流れた。今日は風向きもよく、香水や汗、腐りかけの残飯や犬の糞便の臭いも飛んで、裏通りは過ごしやすい状態になっている。

 乾いた黒髪を掻き回しながら欠伸をし、ソメオは特徴的な細い目を擦って椅子から立ち上がった。別段痩せているわけでもないのにひょろりとして見えるのは、人より背が高いのに加えて手足が長いからだ。

 座りっぱなしで温まっていた尻や足を風が撫でる。指も長い手を腰に添えて、彼はひょっと足を前に出した。目は日陰で横になっている犬を見ていた。 軽い足取りで歩いて。呼吸で上下する肋骨の浮いた腹、禿げの目立つ皮膚をしげしげと見ながら近づき――指が腰から離れて湾曲する鞘の上を滑る。

 そこで、ソメオの耳にゴトと重い足音が届いた。

「おい、メェレーノ」

 メェレンの奴、と足音の主はソメオを呼んだ。ソメオは億劫そうに顔を上げてそちらを見遣った。彼と大して変わらぬ身なりの男は、頬に傷がある。

 男は〝護り〟の、言うなればソメオの同僚だった。仕事の話以外は用はないと言葉すら用いず表情で告げるソメオに、娼館の店先、大きな檻の中で笑いかける。

 彼が右手で引っ張っていた物を前に突き出すと、小さな悲鳴が上がった。

「見ろよ、オトモダチだぜ?」

 ソメオは動きを止めた後、一度微かな瞬きをして檻へと近づいた。男はニヤニヤし続けていた。 目前の木枠を掴んで震える手は小さく。襟首掴まれ、仔猫のように扱われているのは長い黒髪の少女だった。手には麻の布紐で出来た拘束があり、素足の甲には粗雑な薄墨の刺青でこの店の屋号が書かれている。何処からか売られてきた、店の新しい娼婦に違いなかった。

 格子の外から覗き、暗い顔で俯く少女の顔つきを確かめたソメオは、今度はわざとらしく、分かりやすく瞬きした。

 少女のすっとした切れ長の目と低く下に落ちるだけの鼻梁は、この辺りの娘とは違う雰囲気を持っている。目は瞳孔の見えづらい、暗い黄緑色。

「……あー、こいつもメェレーノなん? ふーん」

 自分と並べば兄妹のように見えることだろう、十三、四の小柄な娘を見たまま、ソメオは独り言の声音で問うた。すぐに頷きが返る。ソメオの同僚は何か手柄でも立てたように鼻を膨らませていた。「川向うから買い上げたらしいな。異国人は物珍しいから、見てくれは並でも普通より高値だ。しばらく稼げる」

 ああ。とソメオは合点した。彼の同僚は、別にこの事が楽しいわけではない。買い付けに護衛としてついていった彼は、たった今給金の支払いがあったのだ。遠出した分、これから丸一日休みだということも併せて、彼は愉快で仕方がない。

 その愉快さを、話し相手の男――ソメオがまだ仕事で、明日も仕事だという事実が与える優越感と共に楽しんでいるのだ。ちぇ、とソメオは舌打ちして口を尖らせた。やけに子供じみた仕草だった。

「……俺ァ異国人でも賃金上げてくんないのになー」

「野郎の見てくれが違うからなんだってんだ。怪しいだけだろうが。それともケツで稼ぎてぇか?」

「どっこのだっれが買うってんだよ。クソッタレ」

 羨ましいと思いながら、そして、見せつけるようにしながら。彼らは口では別のことを喋る。ぼやきに下卑た冗談、罵倒が重なる。

 それでもソメオは同族の少女を見つめ続けていた。艶のある黒い髪、少し焼けた肌、薄い一枚着の下にある体はあまり肉付きがよくないが、健康的で毒気のない体ではあった。

 身の丈そのままの生娘だった。まだ木枠を掴む指先が綺麗で、爪が丸く傷がないことが、ソメオの目を引き続けていた。

「ま、どぉせ、稼いだからって本人の懐に入るわけじゃねーよ。ちょっとは美味い飯が食えるかもしれないけどな。――同郷同士、仲良くしてやれよ」

「そぉーだねぇー……」

 囃したてるかの揶揄に豪く間延びした調子で応じたところで、ソメオはやっと顔を上げた。気づけば辺りは一段薄暗く陰に入り、夜へと歩み始めていた。ある店では早くも灯りを吊り始めている。人の気配がじわりと増えるのが、彼らにも肌に感じられた。

 三人の立つ娼館の中からも、生気と言うには淡い、息遣いが滲み始めていた。

「おい、入ってろ。こン中でお客様に見てもらうんだ、精々愛想振りまいとけよ」

 男は少女に言って乱暴に手を離した。また悲鳴があって、木枠に触れる手に力が篭もる。

 外からは見えづらい位置にある扉を開けて中へと戻っていく同僚の背を羨ましげにたっぷり見つめてから、ソメオは少女へと眼を戻した。視線の動きが分かりづらい細目ではあるが、顔の向きも変わったので、少女は自分が見られていると気づくことができた。

「……。〈どこから来たの(サン・ネルリセン)?〉」

 ソメオは少し考えてから、メェレンの共用語で尋ねた。少女は檻に入れられた時と同じ怯えた顔でソメオを見上げた。薄い唇が何か物を言おうとして、途中で止まる。

 沈黙。それを返答と捉えて、ソメオは笑う。

「――なんだ、言葉も喋れねーのか?」

「知らないの」

「お?」

 次いでカトナの共用語(モルミネ)で言うと応じて唇が震えた。鈴の音のような可愛らしい声を吐息と共にか細く指先に吹きつけ、少女はまた俯く。ソメオは愉快そうにしていた。

「……今の、貴方の国の言葉?」

 再びの沈黙の後絞り出される問いに吹き出し、肩を揺らして拳を木枠に置く。その微かな振動にさえ、少女は怯えて震えた。「おいおい、チビちゃんの国だろ」

「私、生まれたのこの国だから……」

「ああ、移民の子供かぁ。なんだ。じゃー名前は?」

 半笑いの言葉に今度はしっかりと応答が返り、二人のやりとりは会話になった。道理でと納得したソメオの拳は下へと滑り、緩く解けて少女の指に触れる。

 震えて息を呑みはしたが、少女は逃げはしなかった。俊敏でないのは確かだが、身動きがとれなかったわけではない。ソメオの手は押さえつけるのでなく軽く触れているだけだ。それでも彼女は動かなかった。

 その反応がソメオの心に僅かな波を立てた。

「……ナーディニ」

 小さく、告げられる名前。それはこの国でも珍しい異国の響きだった。ソメオの名と同じように。

「へーぇ、いー名前だ」

「どういう意味?」

 聞き覚えのある響きに、ソメオは細い目を更に細めて言った。嘲るのではなくしみじみとした声調はナーディニの口を突き動かした。

 少女は会話に飢えていた。この国の言葉は訛りを考慮しなければ問題なく理解できる彼女だが、ここ一月ほど彼女を取り巻いていた言葉はほとんど理解しがたいもので、理解したくもないものだった。か弱い小娘にとってはまったく別の世界の、悪魔の囁きにしか聞こえない部類の。

「ねえ、どういう意味なの、私の名前」

 今までよりも随分力強く、ナーディニは口を動かした。オリーヴ色の瞳も幾らか力を取り戻していた。

 五年ほど前にもされた問いかけは、当時より必死に、痛々しいほど切実な声で繰り返される。

 「貴女が大人になったら教えてあげるわ」と言ったまま、名前の意味を言えずに死んだ母親が、彼女には居た。失ったと思われた答えを目の前の男は知っている。それは少女にとって、一筋の希望のように感じられた。

 ――単純に。同族、自分と似た見目の人が、ただそれだけで安堵感を齎してしまうこと。相手がたとえ見知らぬ男でも、異国で出会う同じ血脈の者に旅人は魅力を感じてしまうのだということを、ナーディニは知らなかった。

 だから彼女は、ソメオが此処で働く者だということを外に置いて、半ば形式的に得た安堵感を彼の印象として定着させた。彼はこの場でましな存在だと、自身の中でそう位置づけたのだ。

 十三の不運な境遇の少女に客観的な視点を持てと言うのは酷なことだが、賢者が居たならば、その浅はかさを彼女の耳元で囁いたことだろう。

「それも知んねぇのか。はは」

 しかし、アンナヴーヌ・バージに優しき賢者はいない。見つめる眼差しと同じ色をしたソメオの目は、自らが触れた指の先ばかりを見ている。縋るように格子を掴んだ手。傷らしい傷の無い、滑らかな肌。栄養を欠いていないつやのある半透明の爪。

 ははは、とソメオは楽しげに笑い続けた。問いには答えないまま、少女の熱意に応えないまま。

「おい、うるせぇぞ! 旦那に聞こえてるぞ!」

「お前の声のがでっけーよバーカ」

 まだ酒場に繰り出していなかったらしい同僚の叱責が、少し空いた扉の向こうから跳んできた。笑い混じりの声で言い返したソメオは少女から手を離し、歪む大きな口を撫でた。踵を返して檻から離れて、椅子へと戻る。 彼は探しもしなかったが、少女が檻に入れられるより先に意識を向けていた痩せ犬は既に姿を消していた。

「ねえ――」

「今怒られたばっかだろ。黙ってな」

「……ねぇ、」

 ナーディニが声を潜めたところで答えはない。離れた男の横顔は些か近寄りがたい空気を持ちつつあり、ナーディニは諦めて俯いた。此処がなんという町でどういうところなのか、自分はこれからどうなるのか、聞きたいことは沢山あったが、どうしようもなかった。

 町についてはともかく、店についてはすぐに知れることだった。

 町が暗さを増し、どこの店も灯りを点け始め、客に供す料理の匂いが裏通りにすら至った頃。檻の奥の扉が開き、ナーディニとも近い年頃の娘たちが、中からぞろぞろと現れる。 皆、彼女と同じように腕を縛られて、足に刺青されていた。黒髪に茶髪、金髪も銀髪も居たが、外の国の血が入っていると思われるのはナーディニだけだった。

「新しい子だね」

 少年のように短く髪を刈られた金の巻き毛の娘が、ナーディニを見て掠れた低い声で言う。微笑は優しかったが、諦観を多分に含んでいた。

「そのうち慣れるよ」

 見返す瞳にそれだけ告げ、彼女も木枠に手をかけて、ぼんやりと通りを眺めた。賑やかな表通りから零れた、享楽を求める人の足音が裏通りに近づきつつあった。[newpage] シェーンの檻は客寄せの看板だった。

 売る女の実物を見せ、客の足を止めて中へと引き込む。その為の設備だ。

「おい、いいか」

 檻の前に灯りが出されるや否や、やって来た男が亜麻色の髪に白い肌の娘を指差してソメオを呼んだ。

「あ、すんません俺ただの虫払いなんでちょっと……おーい兄さん、来たよ」

 ただでも暗かった娘の顔が翳るのを、ナーディニは見た。すぐに三つ目の灯りを手に出てきた取次の男が阿り笑いながら、客を中へと導くのも。僅かだけ間を置き、指差されていた娘が名を呼ばれ、扉の奥へと引っ張り込まれる。

 灯りがすべて並んで商いが始まると、店の中から男たちが出てきて、檻の前に立った。歩調を緩め足を止める男を見ては、身形を確かめながら声をかける。

「肉付きはちっと悪いですが、あっちの女は締まりが良いって評判ですんで」

「黒髪はお好きでしたよねぇ、如何でしょう? え。ああ、ああ、それは勿論」

「そうですねぇ、銀貨を戴ければ、そういうことも、うちの旦那に相談できますよ……」

 自分を指差した後に動く口が何かとても嫌なことを言っているのだけは、ナーディニにも分かった。先程に声をかけてくれた娘が消え、やつれて虚ろな目の女が消え、ナーディニよりも幼い、あどけない少女が消える。そうして五人目が、ナーディニの番だった。

 店先を通りかかったのは細身のシャツの胸を肌蹴させた若い男。客引きが声をかけて持ち上げ囃して、檻の前まで連れて行く。

 男からは既に酒の臭いが漂っていた。酒精に浮かされた熱い眼差しが、まだ事態を理解しきっていない、怯える娘に注がれる。嫌な目だ、怖い人だ、と、泣きたいのを堪えながら、ナーディニは顔を背け続けた。 酒臭い息を零す口の端が上がった。「買おう」と短く言葉が発された。客引きがハイと応じて微笑んだ。

 それからの事は、ナーディニ自身予想していたように酷いものだった。経験と想像力の不足を計算に含めるなら、思っていた以上に違いない。

 客は客引きと共に店の中に消えたが、再会はすぐだった。悪い予感に竦む少女の腕を掴んで檻から中へと引っ張ったのはまた別の男で、暗い階段を上らされ三階の部屋に入ると、彼女を囲む男は三人になった。

 狭い部屋には寝台が一つきり。その横で、太い蝋燭が火を灯されていた。消えるまでが娼婦の一仕事分だ。偶に他の部屋から、男の声や女の声、何か軋む音が聞こえてくるのが、ナーディニは怖くて仕方がなかった。

「やっぱり処女じゃないとなぁ!」

 ――最初に彼女を買ったのは、隣町の小金持ち、香水商の次男坊。彼は彼女を散々馬鹿にして、痛めつけた。貧しくとも愛されて育った、年頃の娘らしい繊細な心が挫けるにはそれで十分だった。

「女は若いほうがいい。この肉付きはたまらんね」

 次は高い声の肥えた大男。その次は記憶が曖昧だった。朝が来て客が絶え、ナーディニは他の娘と共に、流し込むように食事をさせられた。そして少し寝かされて、また夜が来ると檻に入れられ、客を待つことになる。

 発達途上の体を触られ、揉まれ、舐られ、時に叩かれ蹴られ。鞭を使われることもあった。

「貧相だな。そんな胸でどうやって男を誘うんだ?」

 喉が痛くなるほど叫んだのも、血が滲んでももがき続けたのも、耳が痛くなるほど怒鳴られたのも、初めてだった。男をこんなに恐ろしく感じたのは初めてだった。触れられるだけで、鳥肌が立つどころか、吐き気がした。

「なかなかそそるものがある」

 ナーディニはいつだって怯えていた。顔から生気が失せ、瞳が翳り、声が上手く出せなくなるには三日で足りた。

「かわいそうにねぇ、かわいそうに……はははは」

 彼女は檻に出されると、扉の奥に連れ戻されないように顔を背け続けた。そうして嫌がる娘を手籠めにするのを好む男も多いので大した意味はないようだったが――目論見通りに客が付かなかったときはそのときで、店の主人からの扱いが酷くなり、食事を減らされ折檻された。しかしそれくらいは、客を取らされるのに比べれば別段堪えることではない。

 ――「そのうち慣れるよ」。

 少女は、言われた通り、こんな生活にも段々と慣れていく自分を恐ろしく感じていた。

 最初の夜、ナーディニが最初の客を相手して檻に戻された時、既に外にソメオの姿はなく、別の〝護り〟が椅子に座っていた。縋るものを失った気がして、ナーディニはそれは心細く感じたものだった。

 ソメオと仕事を交代した無精髭を生やす荒くれ者らしい見てくれの男は、娘たちが中から戻ってくる度に「どうだ稼げたか」と粘ついた声で尋ねていた。それも涙が出るほど嫌だったが、他にも嫌な護りや客引きは居た。ちょっとしたことで怒鳴られたり、得物の先で胸などを突かれたりすることはしばしばあって、数えるのも馬鹿々々しい。

 ソメオは、けしてそういうことをしなかった。彼はただ手持無沙汰な顔をして椅子に座り、時に立ち、他人から声をかけられた時だけ応じた。客が難癖つけて暴れ始めた時にだけ、剣に手をかけた。 だからナーディニは、外にソメオが立っていると少しだけ安心した。仕事がなくなるわけでも、優しくしてもらえるわけでもないけれども。ソメオは自分と同じように、仕方なく、この仕事をやっているようにさえ見えた。

 ソメオは淡々と退屈そうに仕事をこなしていたが、最中、よくナーディニのほうを見た。他の女にはほとんど興味を抱かなかったが、ナーディニにだけは関心があるようだった。それを同僚に揶揄されても、へらへらと笑って見せるだけで、特に何を言うでもなかったが。[newpage]

 少女というものは、えてして、自らを助けてくれそうな人を常に探しているものだ。

 半月が過ぎて、ナーディニは大分シェーンに適応してしまった。全力で泣き叫んでいた頃とは違う。以前言葉をかけた娘のように、諦観が彼女の顔を覆っていた。

 しかしその日、彼女は体にあった全力を用いて、声を発した。

「ねえ」

 夜明け前。客引きは奥に引き込みだらけ始め、檻の外には護り――ソメオだけが居た。客足も絶えて、品定めもしない遠巻きな通行人だけが格子の向こうに見てとれた。

 檻の中には今、ナーディニしかいない。

 十人が客や店の者と共に中に居て、残りは昨日、他所に売られた。ナーディニにとっては初めての事だが、シェーンは三ヶ月に一度、遣い勝手の悪くなった娘たちを投げ売りにする。 そうして少し広くなった檻は、偶然にもナーディニの個室になっていた。ナーディニは今、檻の格子を隔ててソメオと二人きりだった。

「もういや、もう無理。ねえ、お願い――私を此処から出してよ。お願い」

 一人だけ、売られたのではなく殺された娘が居る。

 ナーディニに微笑みかけたことのある、金の巻き毛の、中性的な美貌の娘だった。好事家に気に入られていた彼女は昨日の真夜中、金貨を支払ったその男の飼い犬に犯され噛み殺されてしまった。

「私も殺されちゃうの。今、逃げないと……」

 その好事家が、つい先程自分の上に覆いかぶさっていた。耳の奥にこびり付いた、また来るよと囁いた怖気の走る声に身震いし、ナーディニは格子を掴んだ。軋みさえしない頑丈な檻が、彼女と世間を隔てている。 ソメオは視線を流して、おもむろに椅子から立ち上がった。古い椅子は大仰なほどに音を立てた。

 歩き、娼婦を選ぶ客のように檻の前で立ち止まる。隙間からナーディニの手が伸び、ソメオが身に着けるシャツの、擦り切れそうな布地を掴んだ。

「私に何をしてもいいから。だからお願い、助けて」

 自分と同じオリーヴ色の瞳をじっと見、取り縋る少女の手へと視線を落として、ソメオは黙っていた。四度ほど瞬きをする。その後もナーディニが黙っていたので、彼が先に口を開いた。

「なんだよそれ」

 ソメオの口は、弧を描いていた。

 呆けた少女の手を掴み、握り閉めて、歌の調子をとるように揺らし始める。檻と両手を束ねる枷が邪魔をして、ナーディニに痛みを与えた。ナーディニの眉が寄ったのを見てソメオの口角は上がる。

「俺は清らかな選ばれし人々じゃない。お前と同じ土から出来てる黒い泥人形だよ。あー、お前のお母ちゃんはそれは教えてくれたのかな? まあなんだ、だから救済(きゅーさい)とかそういうのはできないよ。……そこが嫌なら頑張って戦えば?」

 メェレンの伝承――楽土からやって来た金の目の民と、彼らに作られた紛い物、濁った色の目をした泥細工の話を、彼はその笑んだ口で吐き出した。

 それぞれの子孫、他者を従えるに足る金の目の者たちと、劣る、泥色の目をした人々という構図。それはメェレンの国民であるならば、誰の心にも刻まれるものだ。

 ソメオは生まれながらに最下層の人間で、ソメオの記憶の限り、救済だ施しだというのは、常に上の者の言葉だ。彼の側では有り得なかった。 二人の手は格子にぶつかりながら揺れ続ける。そのまま、ソメオが手を引いて躍り出しそうな勢いがあった。ナーディニの指は他人のシャツを離していた。

「俺もさぁ、昔は道の隅っこで犬なんかとカビたパンなんか取り合いしてたもんだよ。ガキの頃からそんなのの繰り返しさ。でもよ、こうやってっ」

 突如、離れた手が曲刀の柄を掴んだ。素早く引き抜く動きは確かに手練れの様で、カビたパンの取り合いがいかに熾烈なものであったかを表していた。

 細い鋼の切っ先が檻の端を叩く。ナーディニは怯んで動けない。ソメオはやはり笑っていた。

「武器を手に頑張ってきた成果の今んところが、ここに居る俺なんだよ、分かるか? この国はあんま見た目とか気にしないらしいからどうとでもなるよ。ま、お貴族様大富豪ってわけにはいかねーけどそこそこの暮らしだろ。暴れて戦ってブン殴ってブッ殺して、そうすりゃどうにかなることもあるんだ。お前もやってみろよ」

 かりりと僅かな音を生じさせ、切っ先は枠を伝い――少女の指先に至る。以前より短く揃えられた爪は、まだ艶を失いきってはいない。

 ナーディニは慌てて手を引っ込めた。剣の間合い分後ろに下がっていたソメオと同じように、一歩、檻の内側へと退く。

「……武器もないし、無理よ、私はそんなこと……私の代わりに戦ってよ。わたし、何でもするから」

 そうして再び、声を絞り出す。腹の底から絞り出した、それにしてはか細い声だった。

 途端、ソメオは口を閉じて肩を下げた。動きはどれも微々たるものだったが、白けたのだとナーディニは分かった。ナーディニの反応が愉快ではなかったとき、男たちは皆こんな顔をするのだ。

「あぁー、んん? ……それって今と何が違うのさ?」

 尻上がりの声。曲刀の切っ先がすっと落下して地面から拳一つ上の位置で止まり、空気を混ぜるように揺らされる。先程二人の手が揺れていたよりも散漫で、気怠げで、ぼんやりした動きだった。

「お前は男に股開いて、打たれても鳴いてるだけで、俺はいつでもお前を好きにできる。今と何が違う? お前なんかしたことになる?」

 今宵饒舌な剣士は、上り調子のまま続けた。小馬鹿にするような言葉を、しかし小馬鹿にしているほどの愉快さも見せず。彼は仕事の最中と同じように退屈そうで、声も仕方なく発しているようだった。ナーディニは薄い服に染みた汗が冷えるのを感じた。

 檻の外に掲げられた灯り。油の残量が少なくなって細る、頼りない火に照らされる男の顔は。

「いーやぁ、まあ、してないとも言いきれないかも知んねーけどさ、お前を外に出すと、面倒くせぇし大変なんだわ、俺が」

 ソメオの表情は、路傍に鎮座する石を見るようだった。喜怒哀楽が発露する前の一瞥の視線。力の入っていない頬の筋肉。無論顔の造作は変化などしていないというのに、以前ナーディニに与えた懐かしさなどは、一切取り去られた顔だった。

 ぼそぼそと言いながら彼は檻から離れていく。歩き、肩に剣を担いで――ふと、それが抜身であったことを思い出して鞘へと納める。

 ああきっと、とナーディニは鳥肌を立てて考えた。この男は人を斬った後でも、今のようになんてことはないように、ただ定位置を思い出したかのように武器をしまうのだ。と。その想像はナーディニに、今までに他の男たちが感じさせたのと遜色ない寒気と嫌悪感を齎した。

「一人世話しながら、ここのやつらと追っかけっこ。多分殺んなきゃなんねーだろうなぁ、ここの元締めの旦那はしつけぇっていうし。てなわけで疲れるし剣は磨り減るし駄目になるし、金がかかる。その割に収入がない」

 つまらなさそうでも饒舌な口がナーディニの想像を裏付けする。

「……救済は無理だっつったろ? 同胞(カーディシュレレ)。俺の殺しはさぁ、施しじゃなく売り物なんだよ。たんまりお金を貰わなきゃ、やってらんないね。お前にゃそれがない。だからお前の助けにはなれねぇよ。それともあれか、お前どっかに宝石とか隠し持ってる? 腹ン中も散々掻き回された後じゃ、見つかってないわけねーけどさ」

 長い脚が蹴るように前に出る。椅子の前まで戻って、しかしソメオは座らなかった。日の出の時刻、仕事が終わりになる時間が近づいていた。 裏通りにも、表通りにも人は少なく。また一夜喧騒を重ねたバージは静かだった。餌を探しにきた小鳥の囀りに、時折、酔っ払いの呻きや犬の鳴き声が混じる。

「俺はホントは〝護り〟じゃねーから、告げ口は勘弁しといてやるよ。あとは自分で考えて頑張りな。俺より馬鹿な男なら、体でつられてくれるかも知れねーな。――あ、そーだ、」

 肩を竦めての言葉は既に独り言の域に達していた。ナーディニの反応はない。

 言葉を切って、ソメオはもう一度ナーディニのほうを見た。自分を見返さない娘の顔を眺めて微笑む。それは確かに、商品を扱う店の者や、娼婦を吟味する客の眼差しではなかった。

 薄く開いたソメオの目は彼女を通して何か別のものを見ていた。彼は彼女を見ていたのではなく、自分の記憶の内を覗いていた。今に限らず、半月間、ずっとだ。

「お前も一応メェレーノだしアイサツぐらいしといてやるよ。俺、今日でこの仕事やめなんだわ。だからもう来ねぇけど、元気でやれよー」

 少女と青年では物差しが違うが、ソメオもおよそ、ナーディニと同じだった。同じメェレーノであるという点だけで彼女を評価していた。逆を言えば、それ以外は何も評価に値しないと考えている。

 他は別段関心を引くところがない。それは先程の会話で確定的な事実になってしまった。ナーディニは、ソメオから見て魅力がなかったのだ。望まれたように振る舞ってやるほどの魅力が、見目にも、態度にもなかった。

 何かに抗おうとするにしては大人しすぎる小娘が、ソメオには気に食わなかった。

 バージに朝が来る。表通りの側から上がる太陽は、建物の隙間から細く細くだけ裏通りを照らした。気温がいくらか上がり始めたが、ナーディニの体は冷え切っていた。

「じゃな、ナーディニ(素晴らしい財産)ちゃん」

 手をひらと振り、ソメオは店の中へと足を踏み入れた。机上に用意された給金は契約どおりの額で、彼は不満なくそれを受け取って、雇い主たちに簡単な挨拶を済ませばすぐに裏口から外へと出た。鼻歌交じりにアンナヴーヌの中心へ向かう。

 入れ違いに、娼婦の世話係が檻の扉を開けて、ナーディニを呼んで腕を掴んだ。ナーディニは緩慢に顔を上げ、それから癇癪を起したように暴れ始めた。

 叫び声につられ、格子の向こう、建物と建物の間――表通りに立っていた人が、檻のほうを見た。ナーディニと目が合った。特別なことなど何もなかったように逸らされ、ナーディニの視線も解かれる。

 ナーディニが殴られるうちに人の姿は建物の影に消え、目で追うことも叶わなくなった。


  §


「ソメオ!」

 朝の町に響く、生き生きとした高く澄んだ声。束ねた黒髪を振って、年若い娘は男の胸へと飛び込んだ。

 抱きとめ、彼女の頭を撫でて腕を取り、ソメオは再び歩き出す。その肩に担がれていた荷袋を攫うように奪って抱え、横に並んだ娘はソメオを見上げる。

「ごめんね、無駄に働かせちゃって。私すぐ動けるから。すぐ稼ぐ」

「あー、ま、期待してるわ。もう痛みねぇの?」

「ない。大丈夫」

 答えつつ、荷から掌ほどのナイフを取り出して腰のベルトへ括りつける。黒い髪、オリーヴ色の瞳、健康的な白い肌。ソメオの目線からは、緩い男物のシャツの中に覗く胸に閉じたばかりの傷跡があるのが見えた。見えはしないが、肩にも同じような傷がある。薄く皮膚を押し上げている鎖骨は、つい最近にやっと元の形を取り戻したところだった。 ソメオと彼女――彼の妹分は、この前の仕事で少しばかり失敗をした。相手側の〝護り〟が思いのほか手強く、距離を見誤って怪我を負ったのだ。それは命に係わるほどの負傷ではなかったが、しばらく動くことができず、彼らは治療費を稼ぐためにアンナヴーヌに居座ることになった。娼館での〝護り〟業は、そうした繋ぎの仕事だ。

「ラクシュ。余りがあるからなんか美味いもん喰ってこう。俺も腹減ったわ。お前何がいい?」

 視線を下に移し、親指の付け根に傷がある手を眺めながら、ソメオは甘やかす声で彼女の名を呼んだ。彼が幼い頃からよく知る娘は、見た目はナーディニに似ているが、性状はまるで異なる。ソメオの知る限り、ラクシュは他人に助けを求めたことなどない。

 ソメオと同じメェレン人の娘はにっこりとして頷いた。荷袋の紐を硬く閉じて片手に下げ、開いた片手をソメオの手へと絡める。

 ソメオが応じて手を握り返し、笑みを深める。上機嫌な二人は、柵か格子のように隙間を空けて立ち並ぶ建物の前を通っていく。隙間の向こうには目もくれない。

「なんか機嫌いいね」

「そりゃ、妹が元気になったんだからそーだろうさ」

 妹分の快復は当然、己より惨めな他者を見て心が潤ったのも否めない。が、ソメオ自身はそのことに気づいてはいなかった。彼はとっくにナーディニのことなど忘れていて、ラクシュに隠すのではなくからかうように、口笛を吹くかの声音で言った。

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