不思議なその人
薄暗い美術室で教室の端と端にいる2人の人物は、お互い動きを止めじっと相手を見ていた。それは観察するような視線ではなく、相手がここにいることが信じられないような視線だ。
2人の間にしばし沈黙が流れる。
先に動き出したのは教室の奥にいる人物──白雪玲衣だ。
再び律に背を向け、しゃがみ込む。机が視角になっているため律の方から玲衣を見ることはできない。律の方はというと、衝撃すぎて呆然としていた。
律は今、1番会いたくなかった人──玲衣に会ってしまったのだ。
気まずい空気が教室を埋め尽くし、律は今すぐこの場から逃げ出したかったのだが、変に教室を出るのも気まずい気がする。
律はとりあえず自分の席に移動しようとぎこちなく歩き出す。
その瞬間、誰かが美術室の廊下を歩いてこっちに向かってくるような足音が聞こえてきた。直感的に先生だと感じる。
ここに先生が来てくれたらこの気まずい空気をなんとかしてくれるかもしれないと律の期待が高まる中、事態はそれをあっさりと裏切った。
金属と金属が触れ合うような音が聞こえたかと思ったら瞬く間に足音は遠ざかっていったのだ。
(俺の期待を返せ!)
足音の主に勝手ながらも文句をぶつける。ただの八つ当たりであるのは承知の上で。
(まてよ…?)
あの金属と金属が触れ合うような音。
(まさか…!)
律は1つの可能性が頭に浮かぶ。それは史上最悪の可能性だ。
慌てて教室のドアに近づきドアノブを回してみた──が、最後まで回らなかった。
(閉められた!)
律はガチャガチャとドアノブを何回か回してみたが開かない。
異変に気づいたのか、玲衣が律の方へゆっくりと近づいてきた。
「どうか、しましたか…?」
玲衣の問いに律は事実だけを正直に伝える。
「…閉められました」
気まずい空気でする会話はぎこちなかったが、逆に事態の緊迫感を伝えることはできたようだ。
瞬時に状況を察した玲衣はドアに近づき律と同じようにドアノブを回す。だが律の時と同様に開く様子はない。
「困りましたね…」
事態を確認した玲衣はぽつりと呟く。しかし、あくまで冷静だった。
律はとりあえず薄暗い部屋の電気をつける。パッと電気はついたが、状況は大して変わらない。
「電話は…」
玲衣の言いかけた声を聞いて、律は教室に設置されているはずの電話をすぐさま確認する。
壁に貼り付けられている電話の横には赤い字で、それはもうデカデカと『故障中!!使用禁止!!』と書かれていた。
その貼り紙に絶望する律。
(こんな時に限って故障中…)
他に何かないのかと考えていた律はふと思い至る。
(そういや、次の授業は美術だから誰かくるのか)
こんなに必死に脱出方法を考えなくてもどうせ授業の時間になったら誰かくる。
その時、誰かがこの教室に鍵がかかっていることに気づいてくれるはずだ。
律はホッとして身体の力を抜く。玲衣を見れば、まだ何かを考えている様子でドア付近に突っ立っていた。
(このこと、伝えた方がいいよな…)
なんと言えばいいのだろうか。律は玲衣に怒ったという前科持ちな為、下手に伝えれば罪が重くなるかもしれない。
いや、もう手遅れなのか。
だが、なかなか言う勇気が出ない。保健室で玲衣にいろいろ言った時は言えたというのに。
(あの時は感情が暴走してたせい…)
言い訳のような理由が思い浮かぶ。
律はまだ何か考えている様子の玲衣をちらっと見てみた。
少しふわっとした茶色っぽい髪の毛は腰より少し上の位置。ハーフアップのような髪型で複雑に編み込まれており、よく手入れがされているとひと目で分かる。
きらきらと輝く髪飾りも白い肌も光輝く瞳も洗礼された佇まいも、全てが自分とは真逆の到底敵わない人なのだと感じた。
玲衣にちゃんと伝えられるだろうか。どんな言葉を使えば失礼にならないだろうか。
いろんな考えが頭に浮かびホッとした気持ちは不安で埋め尽くされてしまった。
(怖いのか…?)
律が感情に飲み込まれている時、ふと玲衣が話しかけてきた。まるで奥底へ沈む律を救うと言わんばかりの凛として透き通った、優しい声で。
「次の時間、ここで授業をするのですか?」
玲衣は律の教材に目を向けながら聞いてきた。
「えっと、はい…」
律の答えに玲衣は安心したように微笑む。
「それなら大丈夫そうですね」
とりあえず玲衣に心配がないことが伝わって良かったと思う。それと同時にまた言い出せなかったことを後悔した。
(あの時と同じだ)
心の中で自嘲する。玲衣があそこまで具合が悪くなったのも、気づいていて言えなかった自分のせいだ。
後悔するとわかっているのに言えない。臆病な自分が嫌いだ。
律と玲衣の間になんとも言えない空気がゆっくりと流れ、授業開始のチャイムが聞こえてきた。
だが、教室には律と玲衣以外に人はいない。1分が過ぎても2分が過ぎても人が来る気配が全くしてこなかった。
律と玲衣もそろそろ変だと気づき窓から外の景色を見てみたりしたがいつもと何にも変わらない。
木の葉の新緑がわさわさと風に揺れ、春らしい風が優しく吹いてくるだけ。
その光景に少し安堵するがそれでも不安が募っていく。
(もしかして俺、授業間違えたのか…?)
そう思って壁に貼ってあるクラス別の美術の授業内容を確認してみたが今日のこの時間は律のクラスである1年1組としっかり書いてある。
なのに律以外の生徒が誰1人来ないのだ。
(どういうことだ?)
律が通っている領成高校は抜きん出た、才能溢れる生徒のための学校。将来をもっとより良いものにするためにオリジナルの教育をする。
オリジナルと言っても授業内容は他の高校と大して変わらない。
違うところといえば1年1組、1年2組の中でさらにクラス分けをすること。
それぞれの授業でA〜Cにクラス分けをすることで1人ひとりのレベルに合った授業を受けることができる。
Aクラスはその分野で入学した人や、その教科が得意な人。
Bクラスは一般の高校のペースと変わらない。普通で、1番シンプル。ほとんどの人がBクラスになることが多い。
Cクラスはその教科が苦手な人や、ゆっくり進めたい人が入る。
Aクラスだからすごいとか、Cクラスだから悪いとかは関係ないと律は思う。ただそういう方針で授業を進めるだけだ。
この教室はBクラスの教室で律の他に、クラスメイトのほとんどがここを使っている。
この教室の隣は作品置き場とAクラスが使っている教室がある。美術でCクラスをとっている人はほとんどいないため専用の教室はない。
ということは本来ならBクラスには沢山の生徒が来るはずなのに、2人以外、誰もいないということ。
もう授業開始から5分が過ぎようとしていた。
(つーことは授業変更か…)
「もしかすると授業変更があったのではないでしょうか」
律の心の声とぴったり重なったそれは玲衣の声だった。
「そうですね…」
律は友達がいないせいでよく授業変更に気づかないことがある。この前も危うく気づかず授業に遅れるところだったことは記憶に新しい。
本当は今すぐ自分の教室に戻って確認したいところだが、閉じ込められているこの状態ではどうすることもできない。
(はぁ…)
これから授業が終わるチャイムがなるまで玲衣とこの教室にいなければならない。
律は心に決めた。
「あ、あの… 」
律は恐る恐る声をかけると、玲衣はふわりと微笑んだ。
「どうかしましたか?」
律はばっと頭を下げながら重々しくその言葉を口にする。
「この前は本当にすみませんでした」
「えっ…?」
突然の律の謝罪に驚きの声が上から降ってくる。
この前というのはもちろん保健室での出来事である。なにか処分が下されるのはもう覚悟している。だが、それとは別に玲衣に謝罪をしたかった。
玲衣の事情を何も知らないのに勝手なことを言ったことに。
無言が続いたが律はぐっと玲衣の言葉を待つ。
「顔を、上げてください」
玲衣の言葉に恐る恐る顔を上げる。
すると、自分よりも少し低い位置にある玲衣の顔がよく見えた。
その顔はいつも通り微笑んでいるように見える。だが、律は聖女の微笑みでも、作り笑顔でもない気がした。
それは自然な笑顔。律が見た、到底敵わない人とは違う、律と同じ高校生のような雰囲気。ほんの少しだけ、玲衣の本当の素顔が見えた気がした。
「この前というのは、保健室での件ですか?それでしたらわたくしの方がお礼を言いたいです」
(お礼…?)
「先日は助けてくださり、本当にありがとうございました」
そう言って綺麗な礼をした。
「処分は…?」
まだ状況が理解できていない律。
「処分?なんのことでしょうか?」
不思議そうな玲衣の言葉にますます混乱してくる。
「処分が下されるんじゃないんですか…?」
律が思っていた事態ではない。
「あの、その話を詳しくお聞かせ願いたいのですが…」
今の状況を完全に理解できていない律は玲衣に説明することになった。
玲衣の機嫌を損ねれば即退学をされるという噂。本人に直接話すのは気が引けたが、何故か玲衣が知りたそうにしていたので、出来るだけ言葉をオブラートに包みながら話した。
「……ということなんです。俺も詳しくは知らないし噂程度ですが」
律の話を静かに聞いていた玲衣はとりあえず納得したようだ。
「だからあの時の人は退学と恐れていた訳ですね…」
苦々しく言葉をしぼり出す姿は迷子の子供のよう。
噂を本気にしている人は律以外にもいたのだろう。なんせ相手は最高権力者の娘だ。噂を気にしない方がおかしい。
だが、こうして噂を知った玲衣の表情は暗く、諦めた何かをまた恨んでいるようにも、何かに絶望しているようにも見える。
その姿を見て、噂を信じた自分が嫌になってきた。処分だの、退学だの。玲衣は何もしていないのに傷ついている。
真っ暗闇の洞窟にひとり取り残され、黒い黒い波が襲ってくるように感じた。
教室を漂う空気は律を飲み込んで奥深くに閉じ込める。深い沈黙が続いた。
重い沈黙を破ったのは玲衣だった。
「話してくださり、ありがとうございました」
玲衣はふわっと笑う。さっきの暗い表情はもう見えない。でもきっとその笑顔の下には…。
「そんなに苦しそうにしないでください。貴方は気にする必要なんてないのですから」
無意識に顔を歪ませていたようで、玲衣が心配そうに見てくる。
自分で玲衣に感情を押し殺すなと言ったのに律がそんな顔をさせている。
自己嫌悪でどうにかなりそうだった。
ふと律は玲衣が手に持っている絵に目がいった。
そのことに玲衣も気づいたようで嬉しそうに説明してくれた。
「美術の授業の時に、自分の行ってみたい所の景色を描くという課題を出されたんです。ですが、わたくしが使いたい色の絵の具がなかったので、家に持ち帰って描いて提出しようと思ったんです」
「自分の行ってみたい所の景色…」
律は玲衣が渡してくれた絵をじっくりと眺めた。
青空がずっと遠くまで広がっていて、太陽の柔らかい日差しが感じられる。白いワンピース姿の少女が背を向けて、白い鳥を見上げていた。
少女と鳥以外誰もいない。少女が立っているところは鏡のように青空を映し出していた。
それは不思議な空間だった。
「そこは自由な世界なんです。少女と動物しかいない、不思議な世界」
(ここに行ってみたいと…)
玲衣が言う自由な世界。そこに行けば玲衣は心から笑えるのだろうか。
(──にしても上手いなこの絵)
A4サイズの2倍ほどの大きさに描かれている絵は繊細で細かい。本当にその世界が広がっているように見える。写真だと言われても信じるくらい、空も雲も鳥もまるで本物のように丁寧に描かれていた。
素人レベルの絵ではない。律が何時間もかけて描いたとしてもこのレベルには到底追いつかないだろう。
「あの、もしかして…美術のクラスって、Aクラスですか?」
「は、はい」
玲衣はぎこちなく頷く。
玲衣の肯定に律は納得した。だからこんなにも絵が上手なのか。
だが、だとすると何故ここに玲衣が居るのかわからない。ここはBクラスの教室。玲衣とは組が違うから詳しいことはわからないが、今までで何回か授業があったはずだから、間違えたとは考えにくい。
律の疑問を察したのか、玲衣が説明してくれた。
「実は、作品が完成したらBクラスの教室に置いておいてと言われこの教室に来てみたのですが、具体的にどこに置けば良いのか分からなくなってしまって…。せっかくBクラスの教室に来たのですから教室を見て回っていたんです。そうしたら貴方が来たので、もう帰ろうと思ったら鍵を閉められてしまった、という訳です」
(なるほどね…)
いろいろツッコミたいことはあったが相手が相手なため言いづらい。
それは置いておいて。
途端に話題がなくなった教室は静かになってしまった。
どうしようかと律が考えていると、玲衣が声をかけてきた。
「不必要なことだったら申し訳ないのですが…。わたくしは、貴方の話しやすい言葉で話してくださって構いません」
「へ…?」
思ってもみない提案だったため、変な声が出てしまった。
「それはどういう…」
まさか律が敬語なのに気をつかってのことだろうか。
「敬語だと堅苦しく思ったので、もしよろしければその、友達口調で、と…」
玲衣の言う友達口調はタメ口のことだろう。その気遣いはありがたい。だが、ここでタメ口にしても良いのだろうか。相手はあの白雪玲衣である。その相手にタメ口で話すことに抵抗しないと言えば嘘になる。
(ん〜でも本人が言ってるんだからいいのか?)
悩んだ末、タメ口でいくことにした。玲衣がタメ口がいいと言っているのだからそうしよう。
いろいろ考えたら思考の沼に抜け出せなくなる。
「じゃあ、タメ口にしま…するわ」
しかし、急にタメ口にするのも変な感じがするものだ。
「本当ですか!?」
視線をさまよわせていた律は急な玲衣の歓喜に驚く。
「わたくしのことは気軽に呼んでくださいね!」
さっきまでのお嬢様らしいおしとやかな雰囲気はどこにいったのか。律がタメ口にすると言った時からテンションが高くなっている気がしてならない。
だが、悲しそうにしているのに比べたらこっちの玲衣の方がよほど良いと律は思う。
「白雪…って呼んでもいいか?」
さん付けにしようと思ったけど、やっぱりやめた。玲衣は気軽に呼んでほしいと、そう言ったから。
「はい!」
玲衣は力強く肯定した。それはもう嬉しそうに。
(普通逆じゃねーのか?お嬢様扱いされて嬉しいとは思わないんだな…)
玲衣と接していけばいくほど、律が思っていた人とはかけ離れていく。それはあくまでいい方向にだ。
「じゃあ、白雪も話しやすい言葉で話せよ。俺のことも気軽に呼んでいいからさ」
玲衣は律を気遣ってタメ口で話して良いと言ってくれた。律もその気遣いを玲衣にしたい。
そう提案した律は玲衣の表情に唖然とした。
玲衣の瞳の表面は水で満たされていた。もう少しで溢れそうな涙は、静かに玲衣の頬を流れた。
その涙は玲衣の特殊さをひしひしと伝えてくる。
「大丈夫、か…?」
心配になって思わず声をかけると玲衣は、はっと目を見開き、涙の跡を手で拭った。
そしてふっと笑う。
「お見苦しい姿をお見せしてしまい、申し訳ありません。では、月島さん…いえ、月島くんとお呼びしても構いませんか?」
「あぁ」
玲衣は嬉しそうに、柔らかく笑った。
「わたくしは敬語に慣れているので敬語のままでもいいでしょうか」
律は頷く。話しやすい言葉が1番良い。
話がひと段落したところで、この流れのまま律はあの件について誘ってみることにした。
「あのさ、俺の私的な話なんだけど。もし良かったらプログラミングのコンテストに出てみないかなって思って」
「プログラミングのコンテスト…ですか?」
玲衣は少し迷う素振りを見せる。そして苦々しい顔で告げた。
「わたくし、パソコンなど機械類の扱いが苦手で、ほとんど戦力にならないと思います」
(あ〜苦手かぁ)
その可能性は考えていなかった。勝手に玲衣は、なんでもできると思い込んでいた。苦手だったら仕方がない。他の人を探そう。
(いや、待てよ…?)
諦めかけていた律にある1つの考えが頭をよぎる。
「絵!」
急に声を上げた律を不思議そうに見つめる玲衣。
玲衣は機械類の扱いが苦手。しかし、絵はトップクラスの腕前。律は絵が苦手だ。
だから…。
「白雪には絵をお願いしたい」
「絵…?それでしたらご協力できると思いますが、そうなれば月島くんの負担が大きくなるのではないですか?」
「俺は大丈夫。それよりも絵が苦手だから協力してくれると助かる」
「分かりました。そのご依頼、お引き受け致します」
あっさり頷いた玲衣に提案した身ではあるが、驚きを隠せない律。
「え!?ほんとにいいの?」
「?…はい」
(ってことはコンテストに出れる!)
歓喜で叫びそうになる声を必死に抑えながら律は嬉しさで顔が緩む。
今からでも山に登って頂上で叫び出したいくらいだ。
「わたくしからもお願いをしていいでしょうか」
1人で舞い上がっていたところに冷静な玲衣の声が耳に入ってきて、現実に引き戻された。
「えっと、月島くん。パソコンはお得意ですか?」
「得意だけど…」
何を言い出すのかと身構えていたため、呆気に取られる。
「わたくしに教えていただけないでしょうか…!」
「教える…?」
律の頭の上に疑問符が浮かぶ。パソコンの技術は勝手に身につくものだと思っていたのだが、違うのだろうか。
(んーまぁでも、コンテストに参加してくれるって言うならこっちも協力したほうがいいか)
人に何かを教えるのはあまり得意ではないが、律の得意分野ならアドバイスくらいはできるかもしれない。
「ちょっとくらいなら教えられるかも」
「ありがとうございます」
玲衣が嬉しそうにしているのを見て、律は自然と口角が上がってくるのを感じる。
だがこの時、玲衣の指導は他の人とはかけ離れているなんて全く考えもしなかった律は、一緒にやってくれる人が見つかって良かったと心の中で舞い踊っているのだった。