最大のピンチ
少年と少女の歯車はどのように動き出すのだろうか。
ここは、とあるビルの一室。部屋の中には3人の男がいる。何か密談をしている訳ではない。それぞれ作業をしているようだ。
部屋に入って正面にいる男はヘッドホンを付け、何やらパソコンと真剣に向き合っている。そして、ドアの近くにいる男は無表情で淡々と何かをこなしているようだ。
もう1人の男はパソコンと向き合っているもののなかなか手が進んでいない。時折り視線をさまよわせ、何か考え事をしているかのよう。
突然男は、ばっと机にふせたかと思ったら独り言をもらした。
「あーもうマジで…」
律は今、今世紀最大のピンチと直面していた。
今いる場所はいつも律が通っているビルである。
いつものように由氏からの課題が与えられているのだが、一向に進んでいない。それにすら手がつけられらないくらい、さっきからずうっと悩んでいるからだ。
律がこんなにも頭を悩ませている理由は玲衣のこと。先日、保健室で玲衣に怒ってしまったことは今思い出しても本当に後悔しかない。つい、感情的になってしまった。
(らしくない…)
律は積極的に他人と関わろうとしない。なのにほとんど話したこともない人に怒るなんて。しかも最悪なことに相手は最高権力者の娘である白雪玲衣。
本当にあの時は、自分をぶん殴ってでも止めたかった。
ヘマをすれば即退学の噂は本当かどうか定かではないが、あんなことをすればただでは済まないだろう。
はぁ…と深いため息が無意識に口から漏れる。入学早々こんな問題を起こすなんて親に何と言われるか。
「俺の高校生活が…」
まさに一瞬である。ここはもう、自分はこの学校とは合わなかったんだと開き直るしかない。
そんなふうに律がいろいろ考えていると上から能天気な声が聞こえてきた。
「あれぇ〜?マシキツ君、課題は?もしかして難しすぎた?」
律が大変な事態に陥っているとは梅雨知らない、いつも通りすぎる由氏。その顔をじっと見て、再び深いため息をつく律に由氏は首をかしげる。
「ちょっとちょっと!どうしたの。人の顔見てため息つくなんて」
「いや、そうじゃなくて…」
律がなんと言おうか迷っていると視界から紙らしきものが映った。不思議に思って見上げると、感情の読めない顔で筆談用のノートを持っている誠がいた。
『どうかしたんですか?私でいいのなら、相談にのりますよ』
律は誠の優しい言葉に涙が出そうになった。
「誠さん…!」
律が感動に浸かっていると、由氏までもが「僕も相談にのるよ?」と言ってきた。
まさか2人にそんなことを言われるなんて。だが、由氏の課題に一向に手がつけられていないのだからよほど深刻なように思えたのかもしれない。まぁ、深刻なのに変わりはないのだが。
「可愛い部下の相談にはのらないとね。主人公のギルアもそう言ってたし」
アニメ好きの由氏はウキウキとした様子。心なしかさっきよりも生き生きしている。
そこで律は気がついた。由氏がヘッドホンを首から下げていることを。
由氏はアニメを見る時だけヘッドホンをつける。だから今さっきアニメを見ていたことは誰の目にも明らかだ。
どうせさっき見たアニメの主人公かなんかなのだろう、ギルアという人は。
由氏は困ったことに職場でアニメを見ることになんの躊躇もない。昨日なんて漫画を持ってきて会議の合間に読んでいたことを律は知っている。社長というのは皆、こういうものなのだろうか。いや、この人がおかしいだけか。
(前言撤回だな)
由氏はこんな時でさえブレない。本当に悲しいくらい、ブレない。
先日からずっと考えて、考えすぎて思考が悲鳴をあげている律は何か言おうという気なんてもう起きなかった。
とりあえず2人に相談することに決めた。いろいろ悩むのはそれからだ。
「驚かないで聞いてください。実は、ですね…」
事の経緯を話し終えた後、律たちがいる部屋は何の音も聞こえなくなった。この部屋に人がいるのかと疑いたくなるほどに何の音も聞こえない。
由氏は哀れな顔で律を見つめ、普段表情が変化しにくい誠までもが何と言ったらいいのかという顔で見つめてくる。
「マシキツ君、それは冗談じゃないよね?」
この沈黙を破ったのは由氏だ。
「冗談だったらどんなに良いことか…」
遠くを見つめて言う律に本当の事だと悟った由氏はまたもや哀れな目を律に向ける。
『それは、深刻ですね』
誠の言葉に真顔で頷く。本当に深刻すぎる。下手をすれば生きるか死ぬかの問題にまでなってくるくらいに。
そこで思い出した。
「あ!そういえば入学式の時に白雪玲衣に聞こえるように悪口を言っていた人がいましたけど、その人たちは退学になったりしてないと思うのでもしかしたら大丈夫かも…」
「いやいや、退学にはなってないとしてもなんらかの処分は受けているでしょ。お偉い令嬢だよ?マシキツ君は直接言っちゃったからそれより酷い可能性あるよ」
律の願望に近い考えはあっさりと切り捨てられた。
「はぁ…」
もう諦めるしかない。そういう運命だと自分に言い聞かせよう。
話に終わりが見えたとき、由氏が律を元気づけるように1枚のチラシを差し出してきた。
律は力無く受け取り、チラシに目を通す。
そこに書かれていたのは『プログラミングをみんなでやろう!』というポップな文字。
その文字に反応した律はガバッと起き上がる。あっという間に沈んでいた気持ちはどこかに吹き飛んだ。
ポップな文字に目が釘付けにされる。頭の中はもう、プログラミングのことでいっぱいになった。
律はパソコンをいじるのが大好きである。だから毎日のようにここのビルに通っているし、家にも自分で改造したパソコンたちを使って自分の時間をほとんど費やし、熱中している。
特にプログラミングが好きで、暇さえあればゲームを作ったり、自作アプリを作ったりなど。
周りに呆れさせるほど好きで好きで仕方がない。
律は食い気味に、チラシにじっと目を通す。
(ゲーム制作か…)
自然と口角が上がってきた。
「マシキツ君、ここ見て」
少年を驚かせようと嬉しそうな顔になる由氏。
律は指で指し示された所を見てみた。
「……へ?」
驚きすぎて間抜けな声が漏れる。開いた口が塞がらない。
そこには顔写真と共に大きな字で『湯本功一教授がやってくる!』と書いてあったのだから。
湯本功一教授は世界的にも有名で偉大な人。律が尊敬する人ランキング上位にいる人だ。
プログラミングのプロで、数々のアプリや便利機能を開発している。特に最新のAIの開発に力を入れていて、今は世界で優秀なメンバーと共にアメリカで開発に専念しているとニュースで見たことがある。
律はどう受け取って良いのかわからなくなった。これは現実なのか。それとも夢なのか。
「びっくりしたでしょ?」
由氏はサプライズが成功したような顔で律を見つめてきた。
「ドッキリとかじゃないですよね?」
律は疑いの眼差しで由氏を見る。
律が疑うのは無理もない。それくらい有名で偉大な人なのだから。
「うん。もちろんドッキリじゃないよ」
由氏はそう言いながら尻ポケットに手を突っ込み、携帯を取り出して何やら操作をし出した。お目当てのものを見つけたようで、律に画面を差し出し、見てみろと言わんばかりな表情を向けてきた。
画面には湯本教授の顔写真と、『湯本教授が日本に帰ってくる!』という見出しの記事が書かれている。
「なんかね、研究がひと段落したみたいで久しぶりに故郷に帰るんだって。その時に開催するらしいよ〜」
記事の内容を簡単に話す由氏。
「だからもし良かったらマシキツ君、出てみないかって思ってね」
(絶対に出てぇ!)
現実だとわかった瞬間、頭の中は絶対に出たいという文字でいっぱいになった。
「絶対に出たいです!」
律が宣言らしい回答をしたら、視界に紙が映った。
『これは学生2人以上の参加が条件らしいですが…。』
その文章を読んだ瞬間、崖から絶景の景色を眺めていたところを誰かに突き飛ばされ、地上も見えない高さから落ちていくような感覚に襲われた。
(今、学生2人以上って言ったよな…?)
律が飲み込めないでいると由氏が困ったように付け足す。
「マシキツ君ここ見て」
律は戸惑いながら恐る恐る由氏が指差したところを読む。
「締め切りは7月1日まで…ってだいたい2ヶ月しかないんですか!?」
今は4月の中旬。それももう終わるくらいで下旬に差し掛かっている時期。
ゲーム制作にかかる時間はすごく個人差があり、いろいろなところにこだわりたい人や初心者だと4、5ヶ月はかかるし、会社などの本格的なものはだいたい1年〜3年くらいかかるらしい。
逆にこだわりなく、手慣れている人は1ヶ月もかからない。
律は1人で全てやっているが、あまり凝っていないので2ヶ月くらい。
だからゲーム制作の猶予がほぼ2ヶ月しかないのは人によってはかなりきつい。そこで律は納得した。
「だから複数人での参加か…」
おそらく湯本教授の帰国に合わせて企画してあるため忙しい日程なのだろう。
「作品自体は試作品でもいいんだって」
由氏の言葉に、ある程度余裕があることが分かってほっとする。
だが問題は複数人での参加である。
そもそも、一緒にできるような友達なんていないし、高校にももちろんいない。
今の今までこれが良いと思っていたのにこんな落とし穴があるなんて思いもしなかった。
だが諦める選択肢などない。絶対に出たいのだ。
あと一週間までに決めないと後が詰まるから出来るだけ早く決めたい。
(ほんっとに悩みが尽きないわ…)
問題や悩みは山積みだらけだが、頑張ろうと心に決めた律であった。
翌日からさっそく一緒にやってくれそうな人を探してみることにした。少ない候補の中にある行くあてはプログラミング部だ。この話を持ちかければ参加したがる人はいるだろう。
まずはプログラミング部を調査しようと部室に行こうとしたら、嬉しいことに顧問の先生を偶然廊下で発見した。見た目は30代後半くらいで、背は律より若干低め。髪の毛は少し寂しい感じで、雰囲気もそれに伴いどんよりしている。
律は覚悟を決め、先生に近寄り、声をかける。
「あの!プログラミング部のことについてなんですけど…」
律が話を切り出すと顧問の先生は急に顔を明るくさせ、嬉しそうに律の手を握ってぶんぶん腕を上下に振ってきた。地味に痛い。
「もしかして入部希望者かい?」
空腹の犬の前に山盛りの餌を与えた時の反応はこんな感じなのだろうか。
「今、我々プログラミング部は湯本教授がくるプログラミングの企画に向けて動いていて…。あっ!申し訳ない。わからないのに急にこんな話を…」
一気に餌を食べてしまい少し後悔しているが、それでも目の前の餌に目を輝かせている犬はこんな感じなのだろうか。
律は苦笑いを浮かべながらそっと距離をとる。このままではこの勢いに押されてしまいそうだ。
だが律がせっかく自然に取った距離は先生の一歩でなかったことになった。
「君はなんの分野が得意だい?プログラミング力で入学していないが、興味があって入部している人もいるさ!例えば将棋だったら記憶力を活かしてやったりだとかね!」
先生は一気にまくし立てる。
「初心者でも大歓迎だよ!今はみんなでどんなゲームを作るかプランを練っているところだ」
「あ、あの…ありがとうございます。ですが入部をする予定はないので…。失礼します」
律はさっとその場を離れた。
遠くの方から「興味があったらまた私にーー…」と声が聞こえてきたような気もしたが律は1人になれるような場所を探し、壁にもたれかかった。
はぁはぁと荒い息が自分の口から漏れる。思い出したくもない記憶が脳裏をかすめ律はそれを追い出すように頭を振る。
(この案はなしだな…)
そう思うと同時に不安が律を襲って来た。
(このまま誰も見つからなかったら諦めるしかなくなるのか…?)
それは絶対に避けたい。
律は深呼吸をして気持ちを切り替える。ふと時計を見ると次の授業が始まるまでに15分もあった。
「移動教室のところに行っとくか」
次は確か美術だったはずだ。人探しに時間がかかると思い教材は持ってきてある。
友達のいない律は誰かと雑談したり一緒に行動することはほぼない。だから休憩時間はすることがないのである。
今日は人探しは諦めようと決めた律は次の授業で使う美術室に向かった。
律はドアノブを回して扉を開けると中は誰もいないみたいだった。当然電気がついているはずもなく律は扉近くにある電気をパッとつけた。
その瞬間、教室の隅のほうにいた誰かが「あっ…」と言いながら立ち上がり後ろを振り向いた。
「おわっ!」
律は誰もいないと思い込んでいたせいで人の姿を見つけ反射的に飛び退く。その背中が電気のスイッチを押しまたパッと薄暗くなった。
だが律はそんなことなんて気にしていられなかった。律の顔はどんどん引きつり、空いた口は塞がらない。
今、律がもっとも会いたくなかった人物と会ってしまったのだから。
「マジか…」
なぜこうもピンチは次から次へと律を困らせるのか。いや、これは律の人生を大きく変える出来事になるかもしれない。