出逢い
飲みに行った翌日は非番だったので、ライリーは思いきり寝過ごした。二日酔いの頭を抱えてぼんやり考えを巡らす。
昨夜飲み過ぎなければ、今朝は生まれて初めて娼館で目覚めるはずだった。飲み過ぎて正解だったのだ。小隊長の話を真に受けるならば。
どうやって酒場を出たかは覚えていないが、上官の背中から降ろされてよたよた歩き始めたあたりからのことは記憶に残っている。
夫婦になることを拒否されていない可能性があった?
もしそうだったと言うなら、部屋に一歩も入れず、顔も見せないのは不誠実ではないか。つい先程まで完璧な作法で花嫁として振る舞っていたのだから、その程度の余裕もなかったとは言わせない。
きちんと筋を通してくれたなら、自分だって騎士だ。礼儀正しく引き下がって、披露宴会場に水を差さないようこっそり薬湯の手配をすることもできたし、翌朝花の一本も持って見舞うことだってできた。
それをさせなかったなら、結局同じことじゃないか。
なんなんだよ。今更戻ることなんてできない。
噂の侯爵夫人は、恋多き女性だという。国王陛下に公爵に、他にも言い寄る貴族はたくさんいて、多くの男の愛を受け入れ、また利用してきたと聞く。奔放な女だと眉を顰める者ももちろんいるが、不思議と悪女だと罵る声は少ない。
優雅な仕草で社交界の注目を集め、いるだけでその場が明るくなる。流行を生み出す侯爵夫人は若い令嬢の憧れの的となり、貴族の子息は目が合っただけで逆上せ上がった。
公平で公正、いつも正しいことしかしない。身分の上下に関わらず交流し、人への敬意を忘れない。
だから彼女は人気者なのだ。見せかけだけの美しさだけじゃない。自分の足で立ち、自分の頭で考える賢さがあるが故の侯爵『夫人』なのだ。普通の令嬢ではあり得ない人格とその振る舞い。
…………ああそうだ。
あのひとが、どんな理由であろうと夫にと選んだ男を、理不尽に傷つけるはずがないのだ。
悪いのは俺だ。
ライリーは寝台に仰向けに倒れ込み、両手で顔を覆った。
悪いほうにばかり考えて、卑屈になった俺が悪いんだ。
五年前の出逢いを思い返す。自分はなんと言って彼女に声をかけた?
「大丈夫ですか? お部屋までお送りしましょうか?」
従者として付いていた騎士とはぐれて広い王宮で迷ってしまい、泣きべそをかきそうなときだった。
ひと気のない廊下の隅に座り込んで、ぼんやりしている貴婦人を見つけた。やっと人に会えたとほっとして、溢れそうになっていた涙を無理矢理引っ込めた。
採光窓から射し込む陽光に煌めく金髪、すっきりとした線を描く輪郭、紅をはいた唇はぼんやりと薄く開いていた。鼻の形もきれいで、真夏の青空を写したような瞳がライリーに焦点を合わせたときは、息が止まるかと思った。
どこの姫君だろうか。こんなに美しい人は見たことがない。
夢のように綺麗な貴婦人が、なぜこんな廊下に座り込んでいるのだ。辛そうな顔をしている。具合が悪いのだろうか。
心配して手を差し伸べると、ほっそりした手がこちらに向かって伸ばされた。次の瞬間、口の中に甘い塊を放り込まれた。
「あなたのほうは大丈夫かしら? 小さな騎士さん。帰り道が分からなくなってしまったの?」
従者になったばかりの少年はぱっと顔を赤くして、素直に頷いた。
「はい。主人とはぐれてしまいました」
「道を教えてあげましょうね。代わりに部屋まで送ってくださる?」
右手を差し出されて、緊張しながら左手でうやうやしく捧げもった。
立ち上がった彼女は、十三歳のライリーよりも背が高かった。
そのことがひどく悔しい気がしたし、同時に肩の力が抜けるような安心感も覚えた。
自分はまだ子どもで、この美しいひとに恋を語る資格はない。まだ、恋をはじめるわけにはいかない。男らしくない意気地のなさに対する、ちょうどいい言い訳になったのだ。
「あなたはきっと素敵な騎士になるわ。小さな騎士さん、本物の騎士様になれたら、わたしのお茶会にいらしてね。約束よ」
ふんわり柔らかく微笑んだ彼女は、確かに大人に見えた。幼い少年に対して向ける態度だった。
最初に見た、寄るべない子どものように座り込んでいた彼女とは違う人物のようだった。
守って差し上げたいと、身の程知らずにも強く思ったのだ。騎士になる修行中の少年の心を突き動かすほど、座り込んだ様子は壊れそうで頼りなかった。最初は同じ年頃の少女かと思ったくらいだ。
あのとき、心に誓ったんだ。この美しいひとを守れるような、強い騎士になるのだと。
清らかな乙女のように見えた。その後、耳にした噂はまるで違うものだったが、高潔な人柄は噂話のなかでもそのままだった。
どういうつもりで、伯爵家の次男でしかないライリーに縁談を持ちかけたのかは知らない。だが、筋を通すべきは自分だ。会いに行って、謝らなければならない。
だがなんと言って? 今更、どんな顔をして戻ればいいのだろう。