余生をわたしと
「えっ?」
突然のことに驚くハリエットの耳元でライリーがささやく。
「くちづけてもいいですか」
はいもいいえも言う間もなく、唇をふさがれた。
初めてのことではないが、こんな唐突に触れられる理由が分からない。
ライリーは戸惑うハリエットに、ちょうどいい角度を探すように何度か触れるだけのキスをした。一日に二度以上くちづけられるのは初めてだ。されるがままになりながら、ハリエットはぼんやり考えた。
「俺より十歳上の、……あなたと同じくらいの男なら、ガツガツしないだろうと思って、我慢してました」
なにを、と反射的に返しかけて、慌てて口を閉じる。十七の頃から大人の振りをしてきたのだ。それくらい察せられる。
金髪に顔を寄せて、ライリーはしがみつくようにハリエットを抱きしめた。二十二歳なら、これはありなのかしら。
彼の中の二十二歳の男性像が気になるところだ。
「四つしか違わないなんて聞いてない。五年前、小さい女の子みたいだと思った自分の勘を信じればよかったんだ」
「十七にはなっていたので、小さくは」
「子どもみたいなものです。十三の小僧が口説いたって問題なかった」
それはどうだろう。
ほんの数ヶ月前まで十七歳だった恋人の言葉に口を挟んでいいものか、ハリエットは悩みながら耳を傾けた。
「おかしいと思ってたんだ。こんなに可愛いひとがそんな大人のわけないと思ってた」
誉めたいのか貶したいのか、自分で分かっているのだろうか。頭の上に直接響く声を聞いていると、いつも通り笑いが込み上げてくる。
最近、ハリエットは笑ってばかりだ。
十七の歳から背負ってきた荷物を下ろしたら、自分の存在も重いことに気づいてしまった。そんな自分を軽々と抱き上げてくれるライリーが現れてから、ハリエットの心は羽のように軽くなった。
「三十の私でも可愛いと言ってくださってありがとう」
「今のあなたは可愛いけど、八年後にも言えるかは分かりません」
ライリーにとって、四つの年の差は無視できるものなのだろうか。歳上であることを気にしていたのが馬鹿みたいだ。
今までになく遠慮のない口調は、彼本来のものなのか。
「ライリー様、割と失礼だわ」
「ライリーと呼んでください、……ハリエット」
不意打ちに、心臓がきゅっと音を立てた。
大人の振りをしていたライリーは、理想の騎士様に見えた。大人の振りをしてくれるライリーが愛おしくて嬉しくて、だからハリエットは少しだけ意識して若く見えるよう振る舞っていた。
いくつも歳上に見える派手な化粧は好きじゃなかったけど、どうしたら若くて可憐な令嬢に見えるだろうと、鏡の前で試行錯誤する時間は幸せだった。
余裕ぶった態度でお綺麗ですと囁いてくれるライリーは素敵だったけど、何かの拍子に顔を赤くして、赤くなった顔を隠すためにハリエットを抱きしめてかわいいと呟くライリーのほうこそ可愛いと思っていた。
これからは、理想の騎士様に代わって可愛いライリーがたくさん見られるということだろうか。
物語の騎士様のようなライリーは、きっと十年後にまた会える。振りじゃなくて、近い将来には本物になっている。
「ライリー。わたし、あなたのことが好きですってちゃんと言ったかしら」
「いいえ、初耳です。知ってましたけど」
「……なんだか、急に態度が変わったみたい。三十歳のほうがよかったですか?」
「まさか。思いがけず嬉しい話を聞いてしまって、落ち着かないみたいです。もう少しこのままでいさせてください」
そこまで喜ばれるのも複雑な気分だ。
ハリエットはもやもやした気持ちを抱えながら、ライリーの背に腕を回した。
「年齢がそんなに重要ですか」
「それはそうですよ」
即答だ。
さすがに失礼すぎやしないかと顔を上げると、すぐ目の前にライリーの顔があった。
今度のキスは、今までで一番長かった。
「今三十歳なら、俺より十二年も早く亡くなってしまうってことだ。俺は戦場に出るのが仕事だし、あなたを残して逝くことを考えたら却っていいのかもと思ってたけど。でもやっぱり、少しでも長く一緒にいられるほうがいいに決まってる」
「……余命の話?」
思わぬところに話が飛んだ。ハリエットは斜め上から取り出したような理由を聞いてしばたたいた。
「だってあなたと一緒に過ごした時間が一番長い男になりたい。今三十歳なら、六十歳、ふたりであと三十年生きなきゃならない。でも二十二ならなんとかなりそうだ」
熱心に何を語っているのか。感動すべきかと思ったが、感情も思考もついていかない。
意外と数字にこだわる人だということは分かった。
「……そんなふうに将来を語られたのは初めてです」
「…………」
溜め息をついたライリーに抱き寄せられた格好のまま、足が床を離れた。長椅子の上まで軽々と運ばれて、そっと降ろされる。
「……ウィルフレッドにお聞きしました。あなたは侯爵家のために、普通のご令嬢ではあり得ない働きをなさった。貴族のご令嬢は先に贅沢な暮らしという見返りを受け取っているのだから、家にとって最も益のある相手の元に嫁ぐのは当然のこと。俺もそう聞かされて育っているから、あなたが俺の元に来てくださる理由が分からなかった」
ライリーは長椅子に座るハリエットの正面に跪いて、白い手を取った。ひとつの瑕疵もない、作り物のような手だと、彼は思っていた。
この手で、ハリエットは多くのものを守ってきたのだ。
「あなたはもう一生分働いた。余生は自由に幸せになってほしいと、俺を結婚相手にご指名くださったそうです」
「……余生って」
「あなたが宣言されたと聞いていますよ? 余生は好きにするから、家のことはウィルに任せると」
「おしゃべりな子」
「それもウィルの邪魔にならないためだって、彼も分かってましたよ」
「ライリーを、わたしの我儘に巻き込んでしまったみたい」
「巻き込んでくださってありがとうございます。あなたの余生のために選んでいただいたんだから、俺はその期待に応えたい」
ハリエットは泣きそうになってしまい、慌ててくちびるを噛み締めた。
優しい顔をしたライリーが近づいてきて、引き結んだくちびるをぺろりと舐めるものだから、驚いて涙が引っ込んでしまった。
「あなたの号泣はもう懲り懲りです」
「…………もう泣きません」
「次の予定がなければ、好きなだけ泣いてくださって結構ですよ。今日は演劇を観に行く約束でしょう?」
子どものように両手を引っ張られて立ち上がる。勢いでライリーの胸に飛び込む形になった。離れがたい気がしてぎゅっとしがみつく。すかさず抱きしめ返してくれるのが当たり前になった、こんな関係になれるなんて夢みたいだ。
「大好きです」
「愛してますハリエット。……ふたりで住む家を用意します。引越す用意をしておいてください」
「はい」
このまま手を繋いで街を歩こう。優秀な護衛役を務めてくれる恋人となら、どこへでも自由に行ける。
残りの人生は、彼と手を繋いで自由に生きるのだ。
「姫君、どうか残りの余生をわたしと生きてください」
それは昔好きだった騎士物語の台詞だ。もちろん、余生なんて言葉は使われていなかったけれど。
口の軽い弟の仕込みが怖いくらいだ。
「棒読みにならずに言えるようになったら、はいとお返事してさしあげます」




