素敵な旦那さま
なんて素敵な旦那さまだろう。
ハリエットは初めて夫と同じ夜を過ごした日に、空気を読まない我儘を言った自覚はあった。
ライリーがハリエットとの出逢いを覚えていたことを知って、感極まって泣いてしまった。それはもう、生まれたばかりの赤子も呆れるくらい泣き続けてしまった。
当然の結果として、瞼が腫れ上がった。そんな顔で、一生に一度の求婚をしてもらうわけにはいかないと思った。とはいえだ。
どうしても嫌だったわけではない。ただ自分の身に起きようとしていることが信じられなかった。
ライリーのことが好きだった。
五年前に少し言葉を交わしただけ、二年の間遠くから見つめるだけの、幼いままごとのような恋だったけれど、心のよすがにしていた。自分の中だけではじめて、自分の中だけで完結するはずの、大切にしていた想いだった。
自分の感知しないところで、結婚の話が決まっていた。ライリーの話を聞かせていた弟が画策したのだ。一度は失敗に終わったと思った。
それなのに。すでに結婚誓約書に署名を済ませたというのに、ライリーは自分の意思で求婚してくれると言う。
混乱して当然だと思う。
弟や侍女に話せば呆れられると分かっていたから、何も言っていない。
五年前、十三歳の少年だったライリーが恋を語らなかったのは自然なことだ。もしそんな子どもに口説かれていたら、笑ってしまったかもしれない。
なのに、彼は自分のせいだとすべてを背負って、最初からはじめようとしてくれた。
すべてを諦めていたハリエットは、突然降って湧いた幸せをつかむのが怖くなった。
一度引くことくらい、許してほしい。
理不尽なハリエットの我儘に付き合って、ライリーは長椅子で窮屈そうに一晩過ごすと、翌朝早くに起き出した。ひどく腫れ上がった瞼を寝具にくるまって隠す彼女に、また来ますと優しい囁きを残して、騎士の務めを果たしに出かけた。
完璧だ。
完璧な旦那さまだ。
十代の初々しい令嬢のように、恋に浮かれたって許してほしい。
すでに結婚が成立しているというのに、一から恋をはじめさせてくれるなんて想像もしていなかった。
ハリエットは、自分を迎えに行くために向こう一ヶ月の休暇を前借りした、というライリーに会うために、王宮に通った。
長年にわたる侯爵夫人の振る舞いのたまものと言えるだろうか、王宮への出入りは自由にできる。門番にいちいち来意を告げる必要はなく、理由は彼らが勝手にあれこれ想像してくれた。恋人に会いに、と言ったら、彼らはどんな顔をするだろうか。
ライリーの仕事の邪魔をするわけにはいかない。結婚前のように遠くから、時にはわざと彼の目に触れる距離で隊務の見学をした。
警備中にぎょっとした顔をする恋人の反応は、いちいち新鮮だった。
彼らは知らないかもしれないが、凛々しい姿の騎士は、既婚未婚問わず貴婦人達の憧れだ。黄色い歓声を上げる令嬢と交流する振りをして、見学の集団に紛れるのは簡単なことだった。
毎日はやめてください。と家長となった弟に懇願されたため、四日か五日に一度、そうやって初めての恋に浮かれる令嬢の生活を楽しんだ。
ライリーは夜番明けの昼にはハリエットと食事をする約束をして、毎回律儀に予定を手紙で知らせてくれた。手紙の末尾に添えられた恋人の言葉は変化に乏しく、文机に向かって頭を抱える彼の様子が目に浮かんだ。
手紙の内容は事務連絡だけでいいですよと言うと、次からは本当に要件だけの素っ気ないものが届くようになった。正直過ぎる彼がおかしかった。
三度目に侯爵家を訪問した際に小規模な庭園でふたりきりになると、宣言した通りに跪いて求婚してくれた。最初の勢いをハリエットが台無しにしたせいで、日を改めたライリーはひどく不本意そうな赤い顔をしていた。
ハリエットが思わず笑ってしまうと、彼は羞恥に耐えかねた様子で、跪いたままがっくりと肩を落とした。そして、目線が同じ高さになるまでしゃがんだ恋人の唇にキスをして慌てさせた。
つまり彼女達の恋人ごっこはとても順調で、彼女達はとても幸せだったのだ。
外では落ち着いた侯爵のウィルフレッドは、そんな姉達を白けた目で見ていた。姉の幸せを温かく見守るには、まだまだ難しい年頃だ。




