やり直し
食後の口直しも食べ終わり、ライリーは侯爵に促されるまま、奥で湯を使わせてもらった。
昨夜は長旅で汚れたまま寝台に倒れ込んだため、今朝水を浴びて身綺麗にしたつもりだった。美しい姉弟には埃っぽく見えたのだろうか。それとも、今日は嫌な汗をかいたせいで臭いが気になったか。
そんな状態でハリエットとふたりきりになってしまったのかと、後悔が襲ってくる。
馬車でハリエットはなにも話さなかった。ライリーも何を言えばいいのか分からなかった。
狭い空間で向かい合って、密着せずに背中をさする方法も思いつかず、ただ泣き続けるハリエットをぼんやりと眺めるしかなかった。
ハリエットがライリーが手渡した手巾を顔から離さなかったのは、まさか彼の体臭のせいもあったのかと思うと、絞った布で身体を擦る手に力が入った。
湯上がりに用意された夜着は、侯爵の物だろうか。上質な絹の肌触りが心地好い。少しばかり丈が足りないが、贅沢を言える立場ではない。
夜着の袖口から手首が見えてしまっているライリーを見て侯爵は少し笑った。今日ライリーが借りる寝所に案内すると言うので、黙ってついて歩く。
「義兄上、僕のことはウィルと呼んでください」
向かい合って食事をして、さんざん笑い合った後だったので、畏れ多いと辞退することはできなかった。
「ウィルフレッド様がライリーと呼んでくださるなら」
侯爵はにっこり笑って申し出を受け入れた。
「ライリー。おやすみなさい」
侯爵が当たり前のように開けた扉の中に、自然な流れで背を押されて足を踏み入れた。
明日朝のライリーの予定を考慮した、少し早い就寝の挨拶に返事をする間もなく、扉は閉められた。
「………………‼︎」
ライリーは一瞬で自分の置かれた状況を理解し、扉に飛びついた。
だから風呂を勧めたのか!
向こう側ではウィルフレッドが扉を全力で押さえている。どうやら、主人に命じられた使用人のひとりも一緒だ。
騎士の膂力舐めんな。
ライリーは咄嗟の力比べにムキになって、扉を僅かに押し開けた。できた隙間から見えるウィルフレッドに懇願する。
「ウィル! ウィルフレッド様! お願いします、無理です!」
小声で必死に言い募るが、義弟は鼻で笑った。
「今日はこの部屋しか用意できません。城門もとっくに閉まってることですし、朝までごゆっくり」
「ウィルの部屋に泊めてください」
「イヤですよ。男と同室なんてゾッとする」
「馬小屋! 馬小屋の隅で寝ます! 大丈夫、得意分野です!」
「恥をかかせないでくださいよ。立派な騎士様を馬小屋に泊まらせたなんて知られたら、世間でなんと噂されるか」
「…………尻の皮が剥けてるんです」
ライリーは扉の隙間に顔を寄せ、恥を忍んで打ち明けた。
「……尻?」
「二日間馬を駆ったせいで、皮膚が破けたんです! ついでに脚はまともに動きません!」
「あー……」
整った顔に同情の色を浮かべたウィルフレッドに、ここぞとばかりに訴えかける。
「分かりますよね?」
「……まあ、下半身の状態が万全だったとしても、どうせあなたは何もせず帰ったでしょうし」
あまりの最終宣告に、足の踏ん張りが効かなくなった。
それならなおさら。
訴えるべき相手は、すかさず鍵を閉めて去ってしまった。
「…………!」
往生際悪く把手に取り縋ったライリーは、頑丈な錠の存在感に天井を仰いだ。
本気でなんとかしようと思ったら、扉を蹴破ることは可能かもしれない。だが、さすがに他人様の屋敷を破壊することはできない。
恐る恐る振り返って部屋の中を見る。
天蓋付きの豪奢な寝台から、驚いた顔でこちらを見ているハリエットと目が合った。
ああ、この顔か。
侯爵が酷評していた理由が分かってしまった。
失礼なことを考えたのが伝わったのか、ハリエットは慌てて寝台に突っ伏した。
なんだこの可愛い生き物は。
ライリーは慌てて、吹き出しかけた口を押さえた。
きっと、侯爵は朝まで鍵を開けてくれない。窓から出て行くのは簡単なことだが、そこまで必死になって逃げる気はなくなってしまった。
未婚の令嬢が相手であれば話は別だが、ハリエットはライリーの妻だ。同じ寝室で一晩過ごしても、誰に恥じる必要もない。
頑なに顔を見せようとしないハリエットを見て、ライリーは開き直ることを決めた。一晩共に過ごすなら、少しでも快適なほうがいい。
ハリエットの私室を断りなく横切って、ひだを贅沢にとったカーテンを引く。日没直後のぼんやりした薄闇が、完全な暗闇になる。
「見えなくなりましたよ」
寝台の上で、そろりと身を起こす気配がした。
「ライリー様?」
急に暗くなったので、心細くなったのだろうか。不安気な呼びかけに、大股で近寄って手探りで手を握る。
「ここにいます。いても、いいでしょうか」
「……弟がごめんなさい。すぐにちゃんとした部屋を用意させます」
「いえ。もしお嫌でなければ、そこの長椅子をお借りしてもよろしいですか?」
闇に慣れかけた目で見つけた長椅子を指差すと、なぜかハリエットは吹き出した。
「でも。皮が破れて、って」
暗くして正解だった。笑いの発作に襲われたハリエットを前に、ライリーは頬が熱くなるのを感じた。
「うつぶせで寝ます」
「……ご、ごめんなさい。笑ったりして。さっき、弟に聞きました。ご実家まで会いに来てくださったのですね」
「ハリエット様にお会いしたくて。王宮にも、あなたを探しに行ったところでした」
真っ赤になった尻を想像されながらの告白は、ちっとも情緒がなかった。喜劇にしかならない。
その証拠にハリエットはますます笑いを止められなくなっている。
馬鹿馬鹿しくなって、ライリーは肩を落とした。借りますね、と呟いて、長椅子を寝台の左側に、少し離して設置する。両方から伸ばせば、ぎりぎり手を繋げる距離で並んで眠れる。今のふたりには、このくらいの距離は必要だろう。
ライリーは右肩を下にして、長椅子に横になった。右肘をついて頭を支え、寝台のほうを眺める。
ハリエットは寝台の上に座って、まだ肩を震わせていた。
泣いたり笑ったり、忙しいひとだ。
完璧な貴婦人だと思っていた。自分を前にして、こんなにも豊かな感情を見せてくれるとは想像もしていなかった。
「かわいい」
「ええ?」
「さきほど、お顔が見えました。確かにいつもと違ったけど、可愛いから俺にも見せてほしいです。泣き顔も可愛いし、笑ってるお顔も好きです」
「……ライリー様?」
転がって言う台詞ではないか。
ライリーは起き上がって、寝台の横の床に膝を突いた。
「あなたのことが好きです」
ハリエットに会えたら、言おうと思っていた。これを言うために、駆けずり回っていたのだ。
「五年前、俺は子どもだったから、お名前を訊きたくても訊けなかった。ひとりでうずくまっていたあなたを守れるようになりたくて、お茶会に呼んでもらいたくて、俺は騎士になりました」
「でも」
「ずっとお慕いしてましたとは言いません。俺は子どもで、大人の女性に恋をしたら駄目だと思ってました。だけど俺の心の支えはずっとあなたでした。婚礼の日に、あなたより大きくなったことに気づいて、もう恋をしても許されるだろうかと考えていました」
ハリエットはどんな顔をしているのだろう。もう笑いの気配はない。
こんなふうに想いを押しつけて、迷惑に思われてはいないだろうか。
「あなたとのお話をいただいてからずっと、嬉しくて、浮かれてしまって。……拒絶されたのだと思ったら、耐えられなくなって逃げてしまいました」
ハリエットのほうがずっと辛かったのに、察することができなかった。経験豊富な夫人に教えてもらえと言われて、そういうものかと思ってしまっていた。なんて心得違いをしていたのか。
貞淑な令嬢が婚礼の日にそんな話を耳にして、どれだけ不安な思いをしただろう。拒絶されても当然だった。
「体調が悪かったとうかがっています。勝手に出て行ってしまい、申し訳ありませんでした」
「いいえ。わたしこそ、子どもみたいなことをしてしまって。あの、……わたしも、ライリー様との結婚式が楽しみで、子どもみたいに熱を出したことにびっくりしてしまって、あの日も、こんな顔に」
今度はライリーが笑う番だった。
「可愛いです。ウィルフレッド様が『ぶっさいく』なんて言うから、どんな顔かと身構えてましたけど」
騙し討ちのようにハリエットの寝室に閉じ込められた意趣返しに、さりげなく言いつけてやる。明日朝にでも、親代わりの姉に叱られるといい。
確かに瞼が腫れて形のよい目が半分しか開いていないし、鼻の周りは真っ赤になってしまっていたが、そこまでして隠さなくても、と思う。完璧な貴婦人に気後れしていたライリーがこうして軽口を叩けるくらいに肩の力が抜けたのは、意外と『ぶっさいく』な泣き腫らし顔のおかげだ。可愛らしいものだと思う。
「鍛錬中に怪我をしたら、もっとすごい顔になりますよ。顔が倍に腫れ上がって、面白がって兄に見せに行ったら、俺だと気づいてもらえなかった」
それと比べたら、と言うが、比べないでください、と返される。
「……騎士に、なられたのですね」
ハリエットの声の調子が穏やかになったので、ライリーも微笑んで答えた。
「なりました。あなたのおかげです」
「お茶会に招待したら、来てくださる?」
「楽しみにしてます。ハリエット様」
闇に慣れた目でハリエットの手を探り当てると、両手でおしいただいた。
「俺に意気地が無かったせいで、あなたを不安にさせてしまいました。本当なら、五年前逃げずにお名前を訊いて、大人になるまで待っていてくださいと言うべきだった。騎士になってすぐに婚約の申し入れに来ていたら、御膳立てなんかしてもらわずに済んだんだ」
ふるふると頼りなげに首を振るハリエットが愛おしい。
「遅くなりましたが、あなたに結婚を申し込みたい」
「!」
「ハリエット様」
「っ駄目です……」
なぜだ。今の流れの何が駄目だった。
想いが通じたと思ったのは勘違いか? 結婚を楽しみにしていた、と言っていなかったか?
戸惑うライリーの手を振り払って、ハリエットはきっぱり告げた。
「顔が直って、きちんとドレスを着ているときにしてください」
かお? ドレス? それはそんなに重要なのか?
今動いたら、うっかり大声を上げてしまいそうだ。ライリーはゆっくり息を吸い込んで、吐く息に混ぜて言葉を絞り出した。
「……………………わかりました。日を改めます」




