夫婦と弟
どれだけ時間が経っただろう。中途半端な姿勢が辛くなって、ライリーは何度も体勢を変えた。
「…………あのう」
もう泣き止んでもいいのではないだろうか。そもそも何故このひとは泣いているのだ。
(俺のせい?)
ライリーは嗜みとして持ち歩いてはいるものの、色褪せてしまっている手巾を差し出した。一筋の光る涙をぬぐうのは躊躇してしまったが、洟水を拭くには頃合いの使い古しだ。
「大丈夫ですか」
「…………」
なぜ嗚咽する声が高くなったのだろう。声のかけ方を間違えたか。
「……そろそろ場所を変えたいのですが、その前にひとつ」
ライリーが右手を取ってそっと促すと、彼女は左手の手巾で鼻を押さえたまま、大人しく立ち上がった。
「五年前の心残りを解消させてください」
涙に濡れた瞳で見上げてくる彼女に一歩近づいてささやく。
「お名前を、教えてください」
本当は、こうやって始めたかった。こうやって、名前を訊ねるところから始めるべきだったのだ。
こんなのは茶番だ。彼女の名などとっくに知っている。自分から訊かなくとも、噂話はたくさん耳に入った。婚姻に必要な書類には、正式な名前が書かれていた。
水滴のついた長い睫毛が、ぱちりと上下した。
くしゃりと崩れる、その顔は泣いているのか笑っているのか。
「……ハリエットです騎士様。前のロブフォード侯爵の長女、ハリエット・エリーゼ・ド・ロブフォードと申します」
彼女は震える声で、結婚式くらいにしか使わない、長い名乗りをした。
「ハリエット様。私はライリー・ティンバートン・ホークラム。ティンバートン伯爵の次男で、ホークラム子爵領を拝領しております、王立騎士団所属の騎士です」
自惚れても、いいのだろうか。
彼女は五年前にライリーと出逢ったことを覚えていた。
五年前の再現に涙を流し、彼の手巾を受け取った。
名前を訊くところからやり直したいと言う彼に付き合って、正式な名を教えてくれた。
求婚をしてもいないのに承諾されたような心地がして、ライリーは大胆になった。
左手をハリエットの背中に添えて、膝裏に当てた右手を持ち上げる。
脚の筋肉が心配ではあったが、それは杞憂に終わった。彼女はドレスの重量を足してもなお、羽のように軽かった。
「そのお顔で歩くわけにはいかないでしょう。体調を崩したふりをしていてください」
侯爵は広い王宮を、姉を探して歩き回っていた。
姉のハリエットは先に帰ったはずなのに、侯爵家の紋章入りの馬車は、待合場所に残っていた。
子どもじゃないのだから、放っておこうかとも思った。だが、傷心中の姉が、どこかで馬鹿なことをしてやしないかと心配になった。
馬鹿なこと。そう、たとえば、以前と同じように、こっそり意中の人を見に行くとか。
これまでと同じように、遠慮して遠目に見るだけならいい。開き直って直接乗りこむようなことをしてしまったら、どんな噂が流されるか。それによって、またどれだけ彼女が傷つくことになるか。
侯爵夫人がそんなことをするとは思えないが、昔のお転婆な姉なら、何をしでかすか想像がつかない。ただの侯爵令嬢だった頃の姉は、世間一般で言われる姉らしく、それはそれは恐ろしい存在だった。
その強さで子どもだった自分を守って、彼女は侯爵代理で在り続けた。
やっと大人の仲間入りできる歳になった。正式にロブフォード侯爵を名乗れることになった。今度は、僕が姉上を守る番だ。
今回強引にまとめた結婚は、失敗だったのか? 姉を幸せにするために決めた相手は、彼女の夫としてふさわしくない男だった。
さんざん心当たりを探し歩いて、一旦馬車の待合場所に戻った侯爵は、そこで姉の夫を見た。
彼が大事そうに抱えている女性のドレスは、姉が着ていたものだった。
なぜ彼がここに。なぜ姉は顔を隠してこちらを見ようとしない。
無性に腹が立って、侯爵は馬車の扉を手で押さえてふたりを中に押し込んだ。
「こ、侯爵?」
「屋敷まで護衛を頼みます。明日の朝まで休暇を取られているのでしょう?」
「なんでそれを」
知っているかって? 先ほど、義兄が所属する騎士団の小隊長に聞いたからだ。いつの間にか姉達夫婦が仲良くしている間にだ。
「僕は御者台に座ります。到着までにその人を泣き止ませておいてください」
「ムリです」
困った顔で即答された。一体いつからどこで泣いていたんだろうか。
「まかせました」
「ちょっ、付き添い無しでふたりきりは、」
正式な夫婦なのだから問題はない。途中で気づいて言葉を途切らせた、背の高い騎士に鼻を鳴らす。何を言っているんだ、この男は。
扉を閉めて、さっと御者の隣に座った。
何があったかは知らないが、鬱々としていた姉があれだけ泣いたならもう大丈夫だろう。まとまるようにまとまったのだ。そういうことは婚礼の儀式の前に済ませておいてほしい。
騎士団の隊務のために王都を離れられないライリーの都合を無視して、結婚式の準備を急がせたことは棚に上げておく。適齢期を逃しかけている姉を持つ弟心を分かってほしい。
ガラガラと馬車の車輪が立てる音のせいで、中の声は聞こえない。振り返れば窓から様子を見ることくらいはできるが、そんな無粋な真似はしたくない。
「解決したんですか? お嬢さまの問題は」
幼い頃から姉弟を知る御者がのんびり問いかけてくる。
「どうだろうね。僕にはよく分からないよ」
分かりたくもない。姉夫婦の問題ならともかく、あれはそれ以前の問題だ。
義兄のあの甘い顔はどうした。男の自分が見てもちょっと憧れてしまうような、凛々しい騎士の顔をしていたはずなのに。泣き顔を隠してずっと手巾を手放さない姉の、恥じらうような仕草にはぞっとした。
身内の恋愛沙汰なんて、首を突っ込むものじゃない。
「坊ちゃんもまだまだですねえ」
「まだまだでいいよ。僕はあんな風には絶対なりたくない」
馬車の中は平和なようだ。少なくとも、外まで響くような大声は聞こえない。義兄のあの様子だと、いつ外から見られるか分からないような場所で女性に迫るような真似はしないだろうし、多少は話ができたのではないだろうか。
王都に滞在するための屋敷は、二代前のロブフォード侯爵が購入したものだ。今年からはひとりで使うのか、それには広すぎるなと考えていたのに、あっさりと姉が出戻ってきた。その夫も一緒の今なら、広くてよかったと思える。
「中へどうぞ義兄上。このまま帰ったり、なさいませんよね?」




