想い出の場所
ライリーは王妃の私室に通じる回廊をゆっくり歩いていた。下半身の筋肉痛が癒えていないため、見苦しくないよう歩くには相当の努力を必要とした。
城下では騎士の正装は大袈裟過ぎて目立ってしまったが、王宮を歩くには好都合だった。
待ち伏せするのはいいのだが、用もないのにこれ以上王族の居室に近づくわけにはいかない。さてどうしたものか。
この先を真っ直ぐ進むには、正当な理由が必要だ。例えば、王族から招待されているとか。
招待状を持たない身でできることは、不審者として捕らえられない程度に離れた場所で時間をつぶすことくらいだ。
真っ直ぐ進めないならば、右に行くかそれとも左に行くかだ。逡巡の後に、左につま先を向ける。
我ながら感傷的、もしくは少女趣味がすぎる。
ライリーは自傷的な笑みを浮かべた。
このまま行くと、五年前侯爵代理に出逢った場所に辿り着く。
あのとき、道を聞ける人間に会えなかったわけだ。使われていない離宮に通じる廊下を使う者はいない。なぜあんなところに迷い込んでしまったのか、自分でも不思議だ。
今このときに限っては、ひと気がないのは好都合だ。一度どこかに座って内腿の筋肉をほぐしたかった。
回廊を離宮の方向にしばらく歩いて、適当な柱の影に入るようにして壁に寄りかかる。両手で、がちがちに固まった太腿を揉み解した。心地好い程度の痛みに、大きく息を吐く。
自分は何をしているんだろう。笑うしかなくなって、ずるずると座り込んだ。
結婚式の翌日に逃げ出したくせに。
こんなになるまで必死に馬を駆って、なのにその努力は空振りに終わって。実家まで訪問しても、また入れ違いだった。先触れを出すべきだった。作法通り、手紙を送って約束を取り付けてから会いに行くべきだったのだ。
落ち着け。とりあえず落ち着けライリー。
頭の中に酸素を取り込んで、なんとか思考を動かす。
王族を訪問中の上流貴族を待ち伏せするなんて非常識な真似は慎むべきだ。今すぐ官舎に戻って、明日の隊務に備えて少しでも身体を休めておくんだ。
王都にいることは分かっているのだ。次の非番の日に訪問する旨手紙を書いて、了承を得てから会いに行こう。
それから?
…………それから、逃げ出したことを謝罪して。許されなかったら、許されるまで何度でも通おう。子爵領の屋敷の修繕が終わったらお移りくださいと提案して、休暇を取れたときには会いに行くことを許してもらいたい。
常識に照らし合わせて考えると、すうっと波が引くように冷静になった。帰ろう。
ひとつ深呼吸して床につけた尻を持ち上げる。両膝を掴んで前方向に体重をかけてから、屈伸の要領で立ち上がった。
待ち伏せはやめだ。うっかり鉢合わせなんて格好悪いことにならないよう急いで帰ろう。
可能な限り足速に歩を進めたライリーだったが、数歩も行かぬうちに立ち止まることになった。
……前方の床に広がる若草色、あれはドレスか。
ということは、中身はあの柱の影だろうか。先ほどのライリーと同じように、柱に隠れるようにして座り込んでいるようだ。纏った布の多さのせいで、全然隠れられていないが。
よりによってこの場所で、こんなときに他人に会いたくなかった。
大事にしまっていた想い出に水を差されたようだと、胸の奥がもやっとした黒いものに覆われる。覆われたことに気づいてすぐ、慌てて黒いモヤモヤを振り払った。
こんなひと気のない場所で座り込んでいるなんて、あのご婦人は具合が悪いのかもしれない。手を貸すか、必要なら人を呼んでこなくてはいけない。
そう思って、ライリーは若草色のドレスの主に近づいた。近づくにつれ、その容貌がはっきりと見えるようになるにつれ、足の動きが鈍くなったのは仕方のないことだろう。
なぜ? なぜこのひとがここに?
ここは俺の、俺だけが大事にしてきた想い出の場所だ。このひとがここに来る理由などないはずだ。
五年前の再現のようだった。
初春の柔らかい陽光に煌めく金色の髪、陽灼けを知らない乳白色の顔、頬と唇だけ血色よく染まっていて。健康そうな顔色なのに、首筋の線は消えてしまいそうなほど儚げで、ライリーの庇護欲を強く刺激した。
昔と同じことを思った。このひとを守るのは、自分のこの手であってほしい。
空よりも鮮やかな青い瞳に自分の姿を映されて、抗うことができる男なんてどこにもいないだろう。
戸惑って足を止めたライリーと、目を見開いた彼女は、三回瞬くほどの間、視線を交わしたままの姿勢で動けなくなった。
「だいじょうぶですか」
平坦な口調になってしまった。彼女に先んじて口を開けただけ、及第点だ。ライリーは続けた。
「大丈夫ですか。お部屋までお送りしましょうか」
祈るように言葉を絞りだした。
その貴婦人は廊下に座り込んだまま、青い瞳をライリーに向けた。
「あなたのほうは大丈夫かしら? 騎士様はまた迷われたのですか?」
ふたりにしか分からない台詞。疲れた表情の貴婦人。迷子の従者。
ライリーは顔が歪むのを抑えられなかった。
覚えていた。このひとは、ほんのひととき、言葉を交わしただけの子どものことを覚えていた!
奥歯を強く噛み締めて、目から水滴が溢れる事態だけはなんとか回避する。ライリーは、ドレスを踏まないぎりぎりの距離で膝を突いた。
二日間、駆けずり回って追い求めた貴婦人が、手を伸ばせば届くところにいる。
「なんであなたが泣くんですか……」
届く距離にいるのだから、手を伸ばさずにはいられなかった。頬に触れたら、指先が濡れた。
上着の隠しにある手巾は、清潔さが心許ない。
貴婦人の涙を指で拭うことの是非については、他にやりようがないのだから仕方がないだろう。
頭の隅に言い訳を置いて、ライリーは柔らかい頬にできた涙の道筋を指の腹でさえぎった。
「申し訳ありません。どうしたらいいか分からない。泣かないでください」
「……ごめんなさい。ライリー様。ごめんなさい……」
「あやまるのは俺です。あなたに謝りにきました」
「ごめんなさい……」
顔を覆って泣き出した貴婦人を前にして、ライリーは途方に暮れてしまった。
しばらくそのまま膝を突いて、しゃくり上げる声が収まるのを待っていた。




