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ロブフォード侯爵令嬢

 未婚の侯爵夫人と呼ばれたロブフォード侯爵令嬢は、元々は普通の、どこにでもいるような少女だった。普通に淑女教育を受けて、当たり前にそれらを嫌った。

 幼い頃は同じ年頃の子どものほとんどがそうであるように裸足で領地を駆けることが大好きで、乳姉妹と共謀してよくいたずらをした。五歳のときに生まれた弟のことは心の底から可愛いと思っていたし、本気でいじめることもした。

 乳母や家庭教師に叱られることはしょっちゅうで、つまりお転婆娘がやらかすようなことはひととおり経験している。そんな当たり前の少女だった。

 淑女教育が本格化する頃からは幾分かおしとやかにすることを覚えた。その頃から物語の騎士に夢中になり、結婚するなら素敵な騎士様だと宣言した。同年代の少女より少しばかり夢見がちが過ぎる娘を、侯爵夫妻は苦笑と共に温かく見守っていた。

 素直で夢見がちな、愛らしい普通の貴族令嬢だったのだ。

 彼女の生活は、両親の死によって一変した。

 滑落事故によりいっぺんに両親を亡くし、少女時代を終えることを余儀なくされた。

 事故には不審な点が多くあった。怪しい人物の目星もついた。だがそれだけだ。

 事故の原因を追及する暇もなく、令嬢は領地平定に奔走した。亡き父の弟の口出しを封じるために、国王に爵位を預かる旨を願い出た。

 女の身での爵位預りは前例がないことは分かっていた。

 だが、慣例に従って叔父が侯爵領を治めることになれば、領地が荒れることは目に見えている。近隣諸国との小競り合いが絶えない情勢もあり、王も国の平定を優先して彼女に侯爵代理を務めることを許した。

 歴史の浅い国であることが幸いして、慣例は王の一声で簡単に覆された。

 国王に特例を認めさせたなら、それを上回る働きが必要だ。

 領地の平定はもちろん、社交界で泳ぎながら諜報員の真似事のようなこともやらされた。社交の能力を活かせと外交にも駆り出された。

 淑女教育しか受けていない十七の少女には、政治の深い話は分からない。相手の地雷を踏まず、美しく装っておだてて口を軽くさせろ、と無茶を言われてそのとおりにした。

 本来であれば、それは王族の姫や妃の仕事だ。人手が足りない、と都合よく使われた。

 すべて、侯爵家を守るためにやったことだ。幼い弟が成長して侯爵位を継ぐまでの、つなぎの侯爵代理。

 やっと終わった。弟が成人した。やっと、侯爵令嬢に戻れたのだ。

 戻れたと思ったのに、今度は正式に夫人と呼ばれるようになってしまった。

 弟と叔父公爵とがふたりで盛り上がって縁談をまとめてしまったのだ。

 わたしがあの方の妻になるなんて、とんでもないことだ。訴えたときにはもう遅かった。

 伯爵の色好い返事をもらってきたと、叔父公爵が機嫌良く報告に現れた。茫然としていると、陛下の許可も取り付けたよと弟が涼しい顔で告げた。

 今更取り消すことなんてできないところまで話が進んでいたのだ。

 つい先日まで、侯爵代理を務める彼女の頭越しに物事が決まることはなかった。侯爵家のすべての決定権は、侯爵代理にあった。

 それがどうだ。正式に侯爵位を継いだ途端、弟は一言の相談もなく、姉の行く末を決めてしまった。

 あんまりじゃないかと弟をなじったが、彼はしれっと言い放った。

「姉上の好きにさせていたら、いつまで経っても話が進まないでしょう」

 ここまで育ててもらった恩返しです。姉孝行ですよ。

 幼い頃のようないたずら小僧の顔で、弟は笑ってそう言った。

「だから言ったじゃない。上手くいきっこないって」

 王妃の私的なお茶会に招待された帰り、子爵夫人は憮然として呟いた。侯爵夫人と呼ばれていた頃から、何かにつけて気にかけていただいている王妃にまで、気を遣わせてしまった。

 新米騎士ライリーの評判にかかわることだから、詳細には話していない。ただ、国主の妃であるというだけでなく、亡くした母のように接してくれる王妃に、嘘をつくことはできなかった。

 夫は、わたしにはもったいない方です。

 それだけ伝えて、弟と訪問して弟と退室した。新婚のはずの夫と上手くいっていないことは充分伝わっただろう。

「あなただって、ずっと歳上の花嫁なんて嫌でしょう。ライリー様だってそう思うわよ」

「そうですね。歳ばっかり取っていつまでも子どもみたいな花嫁は、確かに嫌です」

 終わりのない姉の文句に辟易して、侯爵は途中で用がある、と回廊を曲がってどこかへ行ってしまった。

 馬車は姉上が使ってください。用が済んだら歩いて帰ります。と女性に対する気遣いを忘れないあたり、なかなかいい男に育ったのでは、と身内贔屓な思考になる。

 どこに行くのだろう。姉の相手をすることに疲れて、逃げただけだろうか。

 弟の背中をぼんやり見送って、用もないことだし帰ろうか、それとも他に挨拶しておく義理のある方はいらしただろうかと考える。

 弟侯爵が去った方向とは反対に曲がれば、今は使われていない離宮に辿り着く。離宮までの廊下は人通りが少ないのを知ってからは、こっそり休むための秘密の場所にしていた。

 急いで侯爵家に帰る必要もない。知人のところにお使いを頼んだアンナが戻るのを待って一緒に帰っても問題はない。久しぶりに、廊下から見える中庭の景色を眺めてのんびりしようか。

 侯爵代理になりたての頃は、よくここで休んでいた。

 好きでもないドレスに、老けて見える派手な化粧、自分を大きく見せるための踵の高い靴。何もかもが嫌になって、子どものように座り込んでお菓子を食べていたこともある。

 よく目撃されなかったものだ。もしかしたら、見た人もいたのだろうか。行儀悪くうずくまる女が、噂の侯爵夫人だと気づかなかっただけかもしれない。変な女だと、関わり合いを避けられたために、ひとりの時間を邪魔されなかったのだろうか。

 長い廊下の隅にドレスの裾を広げて座り込むと、思い出される出来事がある。

 成人した自分よりも背の低い男の子と出会った。

 具合が悪いのかと声をかけてきたのは、後にも先にもあの子だけだ。

 道に迷って泣きそうになっていたのに、自分の涙は引っ込めて手を差し伸べてくれた。身内以外の人間から、打算も下心もない感情を久しぶりに向けられた気がした。

 こんな人もいるんだ。忘れていた。ほんの数ヶ月前までは当たり前のように周囲に溢れていた純粋な善意に、張り詰めていた心がくずおれそうになった。自分より小さな少年にとりすがりたい衝動にかられた。

 今頃、彼はどうしているだろうか。今の時刻なら、騎士団の仕事中だろうか。

 王宮の敷地内のどこかにいるはずだ。会いたい。会って誤解を解いて、妻にしてくださいと頼んだら、そうしてくれるだろうか。

 ……そんなことはできない。

 普通、妻は少し歳下のほうが従順でよいとされている。ライリーもそうだろう。

 彼は強要されて年増の女を娶る羽目になり、義務的に初夜の訪いをして、理不尽に拒絶されたと思っている。怒って当然だ。彼を傷つけてしまった。

 今更何が言えるだろう。拒絶の意思はなかった、当たり前の夫婦のように仲良くしてほしいなどと、図々しいことは言えない。

 五年前のあの日、この場所で出逢ったことなど、きっと彼は忘れてしまっている。偽りだらけの女の、ささくれた心を癒やしてくれた。きっと、その自覚はないままに。

 再び少年を見かけたのは、二年前だ。

 従者の少年が大きくなって、従騎士として式典に参加していたのだ。

 ひと目であのときの少年だと分かった。顔付きが凛々しくなって、見違えるほど背が伸びていたが、笑顔はあのときのままだった。

 胸が痛くなるほど高鳴ったのを覚えている。

 恋多き侯爵夫人と噂されながら、初めて恋を自覚したのはそのときだ。

 赤褐色の短い髪が爽やかだ。陽に灼けた肌は健康そのもので、翠の瞳はなんて優しい色を湛えているんだろう。少年の顔付きなのに、背は周りの騎士達と変わらないほど高い。成長途中の手足は、細身ながらも逞しい。

 侍女や弟に呆れられながら、遠目に騎士団の鍛錬場を見るためだけに王宮に通った。その姿を見られた日は、憂鬱な予定も面倒な付き合いも笑ってこなせた。

 見ているだけで、幸せだった。

 欲張ったのが、いけなかったのだ。

 流されて婚礼の日を迎える頃には、期待する心を抑えられなくなってしまった。当たり前の娘のように素敵な結婚をする、夢を見てもいいだろうかと、思ってしまった。

 許されるわけがないのに。

 わたしは、侯爵家の存続のためにはなんでもやってきた。叔母の嫁ぎ先も、主君すらも利用してきた。邪魔する者は排除してきた。立ちはだかる者を許さなかった。

 そんな女が、役目を終えたからと言って、幸せな結婚を望んでいいはずがない。

 ある意味お似合いの結末だ。

 奔放な侯爵夫人は名ばかりの結婚をして夫に打ち捨てられ、ひとり寂しく老いていく。

 名を借りた夫には悪いことをした。彼には幸せになる権利があったのに、その未来を奪ってしまった。

 せめて、彼がこれから同じ年頃の娘と恋をして、添い遂げてくれたら。その娘は妾という立場になってしまうが、本妻として扱っても文句は言うまい。そのときは黙って祝福しよう。

 だから。だけど、せめて。許されるなら。

 もし願うことを許されるなら。もう一度だけでもいい。

 彼に会いたい。

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