序
婚礼は粛々と行われた。
ティンバートン伯爵領にある教会で、近しい親族と、花婿と親しい付き合いのある上官だけが参列した。
花嫁の生家を思えば質素ですらあった。だがそれは、花嫁本人が望んだことだった。伯爵家の継嗣ですらない次男の結婚式があまり派手では外聞が悪いと、夫の立場を慮った。
領民への披露目もせず、婚礼当日に予定されたのは、最低限必要な教会での宣誓と小規模な披露宴のみ。招待客は当日午後に伯爵家へ到着しても、婚礼の儀式すべてに立ち会うことができた。
キャストリカ王国の薔薇と褒めそやされた花嫁は美しかった。
白いベールでは隠しきれない輝きを放つ黄金色の髪は、一筋の乱れもなく結い上げられている。銀糸で豪華な刺繍が施された天青色のドレスは、長く引き摺った裾まで計算され尽くしたかのように、芸術的な後ろ姿を形作っていた。長いベールから透けて見える腰からは折れそうな細さが見て取れるのに、相対して見た上半身の柔らかな曲線は実に女性的だった。
すらりと背の高い花嫁は、女性が欲しがるすべての特徴を持ち合わせているようだった。
これまで数えきれないほどのドレスを身に纏ってきた彼女も、花嫁衣装を着るのは初めてのはずだ。なのに、それを着こなしているようにすら見えた。
緊張で固くなっていた花婿も、これから妻となる花嫁の登場に頬を染めた。
その初々しさに、招待客からは笑みがこぼれた。
そうだ。笑うべきなのだ。今日はめでたい日だ。伯爵はようやく表情を緩めた。
まだまだ子どもだと思っていた息子が、才覚溢れる美しい妻を得たのだ。
婚姻に先立って父の二つ目の爵位である子爵位を正式に継いだ花婿は、宴会場を後にした。
本来であれば、招待客が主役を引き留めているような刻限だ。勧められる酒を断れずに初夜をすっぽかした、などという笑い話も珍しくない。
だが、今夜はそのような失態は許されないのだ。皆が遠慮して、早々に花婿を送り出した。幼い頃から彼を知る人々は、祈るような仕草を見せた。
(やめろ)
いつもの宴会よりは早くに抜けてきたものの、披露宴が始まってそれなりの時間が経っている。乾杯の後は付き合い程度に舐めたくらいで、酒の味を覚えて間もない身でも、すっかり酒精は抜けてしまっている。
飲みすぎるなよ。
失敗するぞ。
花嫁が離れた隙に、親族やら騎士団の上司やらが囁いていくのだ。
なに、困ったら向こうがなんとかしてくれるさ。言いなりになっとけば間違いない、なんたってあの侯爵夫人だ。とにかくお前は役に立ちさえすればいい。だから今日は飲むなよ。
通常であれば、我先に潰しにかかって、その失態を肴にまた飲むような連中がだ。
いわゆる初夜である。婚礼の夜の締めである。本番と言ってもいい。
花婿であれば、緊張しながらも心躍らせているのが正しい姿だろう。
自分の心は躍り出す気配を見せない。
とまでは言わないが、底に緊張と畏れが堆積していて、その重さで躍ることができそうにない。
踊りたい。こう見えてダンスは割と得意なのだ。踊れるはずだ。
湯を使いながら、妻となった女性の姿を思い浮かべた。
うつくしかった。
綺麗な方だとは思っていたが、ベールを上げるときに間近で見た顔は意外なほどに若々しく、その唇は驚くほど柔らかかった。
くちづけるときに手が震えたのはご愛嬌だ。花嫁は励ますように微笑んでくれた。
そう。自分には勿体ないような美人を妻にしたのだ。今夜、あの美しい人を独占するのは自分だ。今夜だけじゃない。この先ずっとだ。死がふたりを分かつまで。
(よし。気分が乗ってきたぞ)
十も歳上だっていいじゃないか。身分が上だからなんだというのだ。歳上の美人だからって気後れすることはない。向こうが自分に惚れたと言っているのだ。自信を持っていいはずだ。今だって彼女は、婚礼衣装を脱いで、身を清めて自分を待っているのだ。
急いで妻の元へ行くのが礼儀というものだろう。
湯からあがって新品の夜着に着替えると、幼い頃のように両親が身支度を確認しにきた。
色々な感情が入り混じって泣きそうな父と母をあしらって、さっと廊下に出る。
「俺は花嫁か」
同じく心配して現れた兄が吹き出す。
「仕方ないだろう。心配なんだ」
「そんなに俺が信用できないなら、兄上が代わりますか?」
「花婿の代わり? 冗談じゃない! 花嫁ががっかりするだろう」
花嫁が待つ部屋より手前で、兄は立ち止まった。
「おまえの妻は、国一番美しい花嫁だったよ。畏れる必要はない。お優しい方だ。失礼のないように、とは言わないが、傷つけるなよ」
「分かってます」
ここからはひとりだ。だが恐れることはない。
敵と対峙するわけではないのだ。この先にいるのは、自分よりはるかにか弱い女性ひとり。
深呼吸ひとつして、扉を叩く。
翌朝、花婿は変わり果てた姿で発見された。