聖女は残虐王を誘拐してしまった。勇者はただ隣にいるだけ。
主人公のセリフは、ギャルというよりも田舎の女子高生の口調で読んでください。
勇者たち一行は、すでに住民のいなくなった廃村に逗留し、王城へ攻め入る機会を窺っていた。
「勇者様! 大変です! 聖女が現れ暴れ狂っています!!」
勇者は手入れ中の剣から視線だけをずらし、駆け寄って来た兵士を睨んだ。
「聖女が、暴れ狂っている、だと? 意味がわからん」
「私も信じられませんが、本当なのです。近寄って取り押さえようとすると、『聖女の弓』をふりかざし……。まさにあれは鬼神のごとく、我々にはとても手に負えません」
「近寄ったのなら、弓相手に引けを取ることはないだろう。そもそも、聖女の弓とは弓だけで矢はないはずだ」
「いえ、だから、聖女は弓で攻撃してくるのです」
「何を言っている」
「だから! 聖女が、弓でボコボコに殴りかかってくるのです!」
「……は?」
勇者がやっと振り向いた。
*****
私は農村に暮らす女子高生だった。学校の休みには畑仕事を手伝い、卒業後は東京の大学に行きたいなー、と漠然と思っているごく普通の田舎の女の子だった。
ある朝、スクールバスの乗り場までいつものように自転車をこいでいた。すると、突然空が真っ黒に曇り一筋の雷が轟いた。びっくりした私はあぜ道にひっくり返り、そのまま田んぼへ転がっていった。
泥まみれになった顔を上げると、そこは見たこともない畑のど真ん中で、首にタオルを巻き麦わら帽子をかぶったおじさんとおばさんがぽかんと口を開けて、私を見つめていた。
そのおじさんとおばさんの髪が水色と深緑色だったので、私はすぐに「あ、ここ異世界だ」とわかった。友達が貸してくれたマンガで読んだ、異世界転移ってやつだ。地元とたいして景色の変わらない農村地帯ではなく、どうせならヨーロッパ風のおしゃれなところへ行きたかった。
私は親切なおじさんとおばさんの家でやっかいになることになった。細々と暮らすふたりは子供がいなくて、働き手が増えるのは助かると言ってくれた。貧しいのはこのふたりだけではなかった。村自体、いや、この国全体もひどく貧しく、豪勢な暮らしをしているのは王城の人たちだけなんだそうだ。自分に少しでも逆らったり意見する人は、すぐに処罰してしまうという王様は陰で残虐王と呼ばれている。でも、この村から出たことのない私にはそういう話はいまいちピンと来ていない。
異世界に転移するにあたって、私にも一応チートらしきものがあった。
ずば抜けた運動神経とバカ力だ。有り余る体力でおじさんとおばさんの畑だけでなく、村の働き手の少ないお家も手伝っていたら、少しだけ村は潤ってきたらしい。おかげで皆は私にとても優しくしてくれるし、お礼の野菜もたくさんもらうことができて、毎日お腹いっぱい食べて暮らすことができている。
野焼きを手伝うために、村の男の人たちと一緒に郊外へ向かったら、雑木林の中にターコイズブルーの大きな棒が落ちていた。拾い上げるとそれは私の身長と同じくらいの大きさの弓だった。弓はとたんにキラキラと輝きだし、つるりとした表面は鏡のように私の顔が映るくらい滑らかだった。
「すっごいもの拾っちゃった」
「ずいぶんと立派な弓だなあ。隣の廃村にどこかの兵隊の基地ができていたから、そこの人たちの落とし物じゃないかい?」
村の情報通のお兄さんが言った。皆で首を傾げていたが、こんな高価そうなものを持って帰るわけにもいかないので、私はひとりこの落とし物を届けに行くことにした。
「ひとりで大丈夫かい」
「うん。私の足で走れば、一時間もしないで届けられると思うよ。行ってくるね」
山を駆け上り、林を抜け、獣道から農道に飛び出すと、背後から男の人の叫び声が聞こえた。
「誰だ! お前は! そこで何をしている!」
鉄の鎧を着た兵士が驚愕の表情で私に槍を向けている。ああ、そうか。こんな藪から飛び出して来たら誰だってびっくりするよね。
「あのう、これあなたたちの落とし物ではないですか? 届けに来たんですけど」
「そっ、それは、聖女の弓ではないか! お前! 聖女様をどこへやった!!」
兵士の叫び声を聞いて、次々と同じ鎧を着た兵士たちが集まって来てしまった。一様に私に向けて槍や剣を向け、じりじりと近付いて来る。
「いや、ちょっと待って、聞いて……」
「怪しい女だ! 捕まえろ!」
「人の話を聞きなさいよ!」
思わず手に持っていた弓で兵士の頭を殴ったら、兵士はばたりと倒れて動かなくった。やばっ、と思って弓を見たら、傷ひとつ付いていなかった。次々と向かってくる槍を弓で薙ぎ払い、剣を蹴り上げ、ひたすら弓を振り回した。ばたり、ばたり、と兵士が倒れてゆき、最後のひとりがひっくり返った向こう側に、銀髪で背の高い青年と兵士が一人立っていた。
「待て。弓を下ろせ。まずはこちらの話を聞いてくれ」
整ってはいるが冷たい表情をした青年が挙げた右手をこちらに向け、落ち着いた口調で言った。
「いや、私の話を聞かなかったのはそっちでしょ」
隣にいる青年にじろりと睨まれた兵士は、びくりと肩を震わせた。いや、でも、だって、としどろもどろで言い訳を始めた兵士を遮って、私は声を張り上げた。
「私はこれを拾ったから、あなたたちの落とし物じゃないかと届けにきただけだよ。それを、話を聞きもせずに先に暴力をふるって来たのはそっちじゃない」
「それは大変申し訳ないことをした。しかし、お前はそれを拾った、と言ったな」
「そうよ。ここから一山超えた向こうの雑木林で拾ったの。高価そうだったから大切なものじゃないかと思って、急いで来てあげたのに」
「その弓の近くに人はいなかったか?」
「誰もいなかったよ。でも、手紙っぽいものは一緒に置いてあった。私、こっちの字はまだ読めないから、何が書いてあるか分かんないんだけど」
私がポケットから白い紙の切れ端を取り出すと、兵士がへっぴり腰でおそるおそる受け取り、青年に手渡した。白い紙はあわててメモ用紙を破ったように端がギザギザになっていた。ざっと目を通した青年は、眉根を寄せ、小さくため息をついた。
「読んでやれ」と、紙を渡された兵士は老眼なのか、あごを引き目を細めて読み始めた。
「ええと、『もう聖女とか無理。クーデターに巻き込まれるのも無理。私は恋人ともっと平和な国へ逃げます。探さないでください』って書いてあります」
「え、聖女様が駆け落ち? かっこいいー」
私がのん気な声を上げると、青年が更に不機嫌そうに目を細めた。
「あれ? じゃあ、この弓はその駆け落ち聖女様のものだったわけ? いらないなら私もらってもいいのかなあ。畑おこしに使えそう」
「というか、まあ、それはお前だけのものだ。俺たちには持つ資格がない」
「しかく?」
「聖女の弓は、聖女が触れることによってその姿を現すんだ。だから、聖女の手から離れたら、俺たちにはもうその弓は見えない」
「えっ、本当?」
私が弓をお手玉のように右手から左手、左手から右手と、ぽんと放り投げては受け取るのを繰り返したら、兵士が「あ、消えた! あ、見えた! 消えた! 見えた!」と首を左右に振って叫んだ。
「時に、お前は一山超えてここまでやって来たと言っていたな。馬などが見当たらないが、どうやってここまで来たんだ」
「ん? 走って来たよ。私って運動神経良いから、これくらいなら走って一時間くらいだったよ」
「走って一時間!?」
無表情のまま動かない青年の代わりに兵士がオーバーリアクションで声を上げた。
あごに拳をあて、少し考える仕草をした青年が、再び私に視線を戻して口を開いた。
「もしやお前は、異世界人ではないだろうか」
「えっ、どうしてわかったの? 初めて気付かれた!」
「やはりそうか。この世界にはお前のような黒髪に黒目の人間はいない。うちの国にはたまに異世界人がやって来るが、この国にはいないようだから、きっと誰もその存在を知らないのだろう」
「へえ、そうなんだあ」
「なるほど。異世界人の特殊能力だと思えば、その人知を超えた筋力と体力にも納得がいく」
「えへへ、それほどでも」
「別に褒めてはいない」
無表情のままの青年は冷静に私にツッコむと、無駄のない動きで地面に片膝をついた。そして、そっと胸に右手をあて顔を上げた。
「新たに聖女となった少女よ。どうかその類まれな力を我々に貸してはもらえないだろうか」
私が殴り倒した兵士たちを回収し、彼らがキャンプしている廃村で温かいコーヒーをごちそうになった。日本にいるときはそれほど飲まなかったコーヒーも、3年ぶりとなると懐かしい。この国では嗜好品はとても高級で貴族しか口にすることはできないのだ。
「で、お兄さんたちは何か困ってるの?」
コーヒーにどばどばと砂糖を入れる私の手元を見つめていた青年が顔を上げた。
「私の名はロザーリオ。隣国で勇者の称号を賜っている」
「勇者なの!? かっこいい! 本当にいるんだ!」
砂糖壺のふたをそっと閉めた勇者は、膝の上に肘を置き指を組んだ。
「我々はこの国の王太子ミロを救出すべくやってきた。王太子は現在、王宮に幽閉されている。この国を憂いた教会が密かに我々に協力してくれ、王城へ忍びこむために偽造の入城証を用意してくれたんだ。その入城証を聖女が届けに来るはずだった」
「そっかあ。聖女様、それを利用して逃げちゃったんだあ」
「せめて入城証を置いて行ってくれれば良かったものを」
「勇者ってのも大変だね。お隣の国まで助けなきゃいけないなんて」
勇者は組んだ指を一度組み換え、そしてぎゅっと握った。
「ミロは昔、俺の国に留学していた。その間、俺と奴は寮の同部屋だった。伯父である残虐王をいつか改心させ国を立て直したい、といつも口にしていたんだ。残虐王の逆鱗に触れ幽閉されたとなると、処刑されるのも時間の問題だ」
珍しくちょっぴり感情的に声を震わせた勇者の顔を、私はのぞきこんだ。声とは対照的に、前髪の影が差した白い肌が人形めいて見えた。
「あいつを助けたい。聖女よ、どうかその力を貸してはくれぬだろうか」
「いいよー」
私が軽く返事をすると、勇者が目を見開いて顔を上げた。その周りで濡らしたタオルでたんこぶを冷やす兵士たちも、驚いた顔をしていた。
「人を殺したりするのはちょっと嫌だけど、それ以外なら手伝うよ。あと、来週から田植えが始まるからそれまでには帰りたい」
「あ、ああ。聖女、本当に協力してくれるのか」
私は勇者の声を遮るように右手を挙げた。勇者は少しがっかりしたように眉をひそめ、口を閉じた。
「ちょっと待って。聖女ってそんな大そうな呼び方やめてよ。私は向こうの村に住む普通の女の子だから」
「では、名は何という」
「野々花。野々下野々花。イカれた母親に名付けられたイカれた名前。笑いたければ笑えばいいさ」
「別に笑いはしない。そんな名前の者はこの世界にはたくさんいる。では、ノノカ。お前の力を貸してほしい」
「うん。私は何をしたらいいの」
「王城へ忍び込んで、王太子を救出してきてほしい。お前の運動神経ならできるだろう」
「うん、いいよー」
二度目の私の軽い返事に、さすがに勇者が訝し気な表情をした。
「本当に、大丈夫なのか」
「王城行って、王太子さんをここへ連れて来ればいいんだね」
私は立ち上がりお尻についた土をはらった。空き家から拾って来た椅子はひどく汚れていたのだ。良い人っぽい王太子さんが王様になれば、この廃村の人たちもここへ戻って来れるようになるかもしれない。
「待て。今から行くのか」
「うん。死刑にされちゃうかもしれないなら、早い方がいいでしょ。私が走れば今日の夕方までには王城まで行けると思うよ」
「途中まで馬で送ろう」
「ううん。もっかいこの山超えて、一度村に寄ってから行くよ。お世話になってるおじさんとおばさんに、ちょっと王太子助けに行ってくるって言っておかないと心配するから」
「言うと余計心配するのではないか」
「だいじょぶ、だいじょぶ。じゃあ、行ってきまーす」
兵士に縄を付けてもらった聖女の弓を背負い、私は再び藪に飛び込んだ。
走り続けたら予定通り王都へ到着することができた。おじさんがくれたお小遣いで冷たいレモン水を買ってごくごくと飲んでいたら、街の人たちが遠巻きに私をじろじろと眺めている。ああ、そうか。聖女の弓を背負っているからか。説明するのが面倒なので、笑顔で軽く頭を下げたら街の人たちもつられて笑顔で礼を返してくれた。
休憩して喉も潤ったので、寄り道せずに王城へ向かった。裏口が分からなかったので適当に開いている門をくぐったら、あっさり番兵に見つかってしまった。
弓を振り回して兵士たちをなぎ倒し、私はお濠にかかった橋を駆けて助走をつけ、扉に両足で飛び蹴りをした。頑丈そうな扉は案外あっさりと壊れ、無事城の中に入ることのできた私は、くるりと一回転して着地した。
手を付いた先には、箒の上に尻もちをついて震えているメイドのお姉さんがいた。
「王太子さんはどこにいるの?」
私が口に手をあててこっそり聞くと、さらに体を震わせながら二階へと続く階段を指さした。
なんかこんな階段ニュースで見たことある。総理大臣と他の大臣が一緒にぞろぞろ下りてきて記念撮影していた、あの大きな階段と似ているような気がする。階段を駆け上がりながらそんなことを考えていた。
階段は途中から左右に分かれていた。適当に右を選んで再び階段を上ると、一番奥の部屋のドアの前に兵士が5人も立って守っている。王太子はあの部屋に閉じ込められてるのかな。全力で走り寄り、弓で兵士の持つ剣を叩き落とし、一番前にいる兵士を突き飛ばした。私のバカ力のせいで兵士は後ろにいた兵士たちを巻き込んで吹っ飛んで行った。突き飛ばしたくらいで人間があんな距離を飛ぶと思わなかったので、私もびっくりした。
一応確認したら、気絶しているだけで死んではいないようだったので、気にしないでドアを開けた。
「ひぃぃっ!」
入った部屋は意外と質素で、家具も少なかった。大きなテーブルの向こう側に、やたらと高い背もたれのついた椅子が倒れていた。そのそばの床に転がるようにしてブルブルと震えるおじさんがいた。さっきの悲鳴はこのおじさんのものらしい。私が部屋に入ってきたことに驚いて、椅子からひっくり返ったようだ。
おじさんは高級そうで動きにくそうな服を着ているけれど痩せこけていて、鼻の下に細長いひげを生やしていた。糸目をがんばって見開いて私を見ようとしている。
たくさんの人が駆けて来る足音が聞こえてきたので、持って来た麻の布袋をばさばさと広げ、有無を言わせずおじさんにかぶせた。
袋の中で暴れるおじさんを肩にかつぎ、ベランダに出た。ここからなら何とかなりそう。私は手すりに足をかけてそのまま飛び降りた。きちんと両足で着地したはずだが、肩にかついでいるおじさんは動かなくなってしまった。
おじさんの様子を確認している暇はなさそうだったので、気にせずそのまま適当に走ってお濠をジャンプして超えた。丈夫そうだからいけるかな、と、弓の先を塀にぶっ刺してみたら、さっくりと刺さった。弓をピッケル代わりに塀を登り、無事お城の外に出た。追いかけて来るたくさんの叫び声を聞きながら、私は全速力で走って逃げた。
「……っ、お前は、バカか」
袋からおじさんを出すと、勇者はきれいな顔を歪めながらそう吐き捨てるように言った。
「あれ? もしかしてこの人じゃなかった? 部屋に閉じ込められてたから、てっきりこの人が王太子かと思っちゃった」
「こいつが俺の同級生だと思ったのか?」
「あ」
「ちっ、バカに頼むんじゃなかった」
「ごめんごめん。えっと、じゃあ、これ、誰?」
白目をむきながら地面に転がっているおじさんを指さすと、眉間のしわを深くしていた勇者は急に真顔に戻った。
「こいつが残虐王だ」
「えっ、この国の王様ってこと?」
「そうだ」
「えええええ、私、王様を誘拐して来ちゃったの!?」
私の大声に、王様の肩がびくりと動いた。糸目がわずかに開かれると、私と目が合い、王様は寝ころんだまま飛び上がった。
「ぎゃあああ! わ、わしをどうするつもりじゃ!」
「王様、何であんな部屋に閉じこもってるのよ。まぎらわしい」
「うるさい! 門で下賤な女が暴れていると聞いたから、奥の間に避難しておったのじゃ!」
「はあ? 誰が中の下よ」
「下賤とは中の下のことではない! 下、しか合っておらぬわ! お前なんか下の下じゃ!」
「ノノカ、俺は下の下とは思わないぞ。中の……いや、やはり中の下くらいじゃないか?」
「お前ら揃って失礼だな!」
口を挟んできた勇者に振り返り、弓を振り上げた。自分が殴られると思ったのか、王様はブルブルと震えながら身を縮めて地面にうずくまってしまった。その姿をじっと睨みつけていた勇者は、ため息をつくと右手で目元を隠して黙ってしまった。私は振り上げた弓をそっと下ろし、王様の肩に手を置いた。
「ごめんごめん、王様。人違いだったんだ。これからすぐに走って、お城に帰してあげるから許してよ」
ぱっと顔を上げた王様は、少しだけ顔色を取り戻して私の顔色を窺うように覗き込んできた。指の隙間からちらりと私を見た勇者が、もう一度ため息をついた。
「……俺も行く。お前に任せたらまたとんでもないことを起こしそうだ」
とりあえず、今日はもう夜なので皆でキャンプすることになった。
兵士たちが火を起こし、野菜がたくさん入ったスープを作ってくれている。私はズボンの裾をまくり、ひとり川に入った。これだけ屈強な男性がたくさんいて、野菜スープだけでお腹がいっぱいになるはずがない。前かがみになって意識を集中した。水の流れに感覚を研ぎ澄ませ、わずかな揺らめきを感じ取る。
「そこだ!」
私は右手をすくい上げるように水面に叩きつけた。大きな魚が川から飛び出し、川岸に打ち上げられた。元気よく尾を振って体を跳ねさせている。気付けばそこには魚の山ができていた。これくらいあれば全員でお腹いっぱいになれるだろう。
「あの女は熊なのか?」
獣避けのたき火に身を寄せながら、王様が何かを言っているが、距離があって良く聞こえなかった。すぐそばにいる勇者はこちらを向いたまま返事もしていないようだったので、きっと王様の独り言なのだろう。
兵士が集めてくれた木の枝に魚を刺し、次々とたき火にかざしていく。
「ねえ、王様はどの魚がいい? 大きいやつがいい? それともきれいなやつ?」
「む? 魚だと? これが魚、……なのか?」
「王様、魚見たことないの!?」
私がきょとんとすると、王様も同じようにきょとんとした顔をした。
「魚とは白くてふわふわとした食べ物だろう」
「え? それわたあめじゃない?」
私たちのかみ合わない会話に、勇者は呆れた様子で私の隣に腰かけた。
「王族は毒見されたものしか食べない。魚は事前に火を通され骨を抜き身をほぐしたものしか見たことがないのだろう」
「ええ、ちっちゃい子供みたいだね、王様」
「な、なんと……!」
私の言葉に少なからず傷付いた様子の王様は、そわそわと目をそらした。
「じゃあ、王様には食べやすそうな魚を選んであげるよ。えっと、どれがいいかな」
「これとこれが、骨が取りやすい。あと、これか」
勇者がぱっぱとすばやく魚を指さすと、それを顔ごと目で追っている王様は本当に幼い子供のようだった。
「わ、わしが、選んでいいのか?」
「いいよー。間違って誘拐しちゃったお詫びに、一番先に選ばせてあげる」
「で、では、目の大きなこれにする!」
王様は選んだ魚の前に座り、頬に手をあてて楽しそうに魚が焼ける様子をじっと見ていた。良い感じで焦げてきた魚を取ってあげると、両手で受け取り嬉しそうに目を輝かせた。おそるおそる魚の背にかぶりつくと、おいしそうに細い目をさらに細めた。それから夢中になって魚を頬張り、兵士から温かいスープを受け取り、おかわりまでして完食した。
私も満腹になり、兵士たちと一緒に地面に寝ころんでいた。空に浮かぶ丸い月はまだ山の中腹くらいまでしか上っておらず、寝るには早い時間だった。
「そうだ、相撲とろうよ。これだけ人数いるんだからさ、チーム戦で! 五、十、十五。うん、ちょうど二十人! 十人ずつに分かれよう」
「ちょっと待て。俺と王もその人数に入ってないか?」
勇者の冷静な声とは対照的に、王様が期待のこもった眼差しを向けて来る。
「あったり前じゃん。よし、じゃあ、勇者チームと野々花チームに分かれよう。誰かくじ作ってくれない?」
私たちは二手に分かれ、地面に丸く書いた円の中で相撲をとった。各チームから一人ずつ出てきて、勝ちの数の多い方が優勝だ。
「王様行けー!」
「王様! 王様! がんばれー!」
「王様ふんばれ!」
勇者チームになった王様が出てくると、一度はしんと静まり返った。しかし、一人の兵士が声を上げると、堰を切るかのように応援の声が上がり、王様が頬を真っ赤に染めた。やせっぽちの王様が兵士に敵うはずもなくあっさり負けたのだが、地面に転がった王様は大きな口を開けて笑っていた。つられて私たちも笑った。
勝敗は五勝四敗。私が勇者に勝てば野々花チームの優勝である。
私は心の中で密かにニヤリと笑った。私の有り余る体力とバカ力をなめんじゃないわよ。
ほぼやる気ゼロの顔で歩いてきた勇者に、私はいきなり体当たりした。不意をつかれたわりには勇者は私をしっかりと受け止めた。
「がんばれー! 勇者様ー!」
「ノノカ負けるなー!」
ひと際盛大になった歓声に背中を押されるように、私は腰を落として勇者とがっちりと組み合った。全力で押しても、持ち上げようとしても、勇者はびくともしない。冷めた目で私を高い所から見下ろし、私の一挙一動に注視していた。
おかしい。この私が力で負けるだなんて。
焦りが出たのか、私の左足がずるりと滑った。
「ノノカー! 負けるなー! がんばれー!」
一番前の応援席に座っていた王様が、我慢できずに叫んだ。思わず王様を振り返ってしまった私の隙を勇者が見逃すはずもなかった。勇者はすばやく私の足を払った。そして、
「お前は俺のチームだろう!」
と、言いながら、ポーンと私を軽々投げ飛ばした。
私は地面をゴロゴロと転がり、相撲大会は恨みっこなしの引き分けとなった。
この村の奥には温泉があるらしい。相撲で土まみれになった私たちは、ぞろぞろと揃って温泉に向かった。山のふもとの、ごつごつとした岩場へ行くと少しだけ硫黄の臭いがした。
「へえ、異世界にも温泉ってあるんだあ。じゃあ、火山もあるのかなあ」
「ちょっと待て。なぜ一緒に服を脱いでいる」
シャツのボタンを外していた私の手を勇者が止めた。その後ろでは兵士と王様が驚愕と期待のこもった目でその成り行きを見守っている。
「だって男湯と女湯があるわけじゃなし。なるべくそっちは見ないようにして入るから」
「そういうことを言っているのではない。天幕を張ってやるから、お前はそっちで一人で入れ」
勇者は兵士にテキパキと指示をして、あっという間に仕切りが作られた。あそこまで堂々とされると覗く気にもならない、と言う兵士の声が聞こえてくる。
温かいお湯に肩まで浸かるのは久しぶりで、日本の家のお風呂を思い出した。田舎だから、家のお風呂はお母さんと妹と一緒に入ってもまだ余裕があるくらい大きかった。皆元気かな。
お風呂から上がると、先に戻っていた兵士たちが小さなテントをたくさん張っておいてくれた。王様はいち早くたき火から一番近いテントを陣取った。私は誘拐しちゃったお詫びに王様の肩をもんであげている。
「はあ、今日は初めてのことばかりじゃった」
「ははは。初めてお魚見たんだもんね」
「そうじゃ。こんなにたくさんの者とたちと一緒に過ごすのも初めてじゃ」
「王様のお世話する人ってたくさんいるんじゃないの?」
「そりゃあたくさんおるが、言葉を交わすこともない。わしの言うことにただ返事をするだけじゃ。わしの世話が終わったら、皆、すぐにいなくなってしまう」
「そうなんだ。よくわかんないけど、偉い人って大変だね」
王様は糸目をさらに細め気持ち良さそうにしている。私は力を入れ過ぎないように注意しながら肩をもみ続けた。
「王様家族は? 奥さんや子供はいないの?」
「おらぬ。皆わしを恐れ、結婚しようとする者などいなかった。父も母も早くに亡くなった。弟もわしを殺そうとしたため、オスカルに処刑されてしまった。可愛がっていた甥のミロを王太子にしたが、つい先日、ミロまでもが幽閉されてしまった」
「オスカルって誰?」
「宰相じゃ。わしの幼馴染でのう。いつもひとりぼっちのわしの傍にいてくれた。とても頭が良いので、宰相としてわしの右腕になって働いてもらっておる。頑固なやつでのう。ミロは悪い貴族に騙されただけだと言っておるのだが、なかなか許してくれんのだ。ミロは……殺したくないのじゃが……のう……」
王様の首ががくりと落ち、寝息が聞こえてきた。王様に毛布をかけテントを出ると、たき火のそばに勇者がひとり立っていた。
「夜になるとやっぱり冷えるね」
私は体に毛布を巻きつけ、焚き火のそばの椅子に腰かけた。小枝をたき火にくべていた勇者は、返事はしなかったが静かに私の隣に腰を下ろした。
勇者の瞳は薄い緑色だった。彼の色みの全くない白い頬に、炎のゆらめく影が映るのをしばらく見つめていた。
「ねえ、勇者は生まれたときからずっと勇者なの?」
勇者はちらりとこちらを見たけれど、無表情で何を考えているのかわからない。
「いや。お前と同じように、勇者にしか抜くことのできない剣を抜いて、勇者になった」
「わあ、マンガみたい」
「? 俺は平凡な伯爵家の次男で、それまでは近衛騎士だった」
「へえ。このえ騎士って何か強そうだね。勇者って忙しいんじゃないの? いいの? 隣の国でキャンプしてて」
勇者は再び私をちらりと見た後、目を伏せた。あれ、聞いちゃいけないことを聞いちゃったのかな、と気まずい空気になった。
「魔王がいるわけでもない現在、俺の仕事は国境で魔物を倒すくらいだ。近衛のころの方がよっぽど忙しかったよ」
「へええ、そういうものなんだね。それにしても勇者って貴族だったんだあ。私たちとは何か違うって思ったぁー。お風呂上りでも品があるって感じがするもんね」
「気になるのはそっちの方か」
「勇者とか魔物とか、私、あんまりファンタジー読んだことないんだよね」
「お前の言うことはわからない言葉ばかりだ」
曇っていた顔を少しだけ緩めて、勇者がこちらを向いた。そして、何かに気付いたように眉を上げると、ゆっくりと一度瞬きをした。すると、私の頭の周りで温かい風が吹き、髪がふわりと浮いた。
「あ! 髪が乾いた? すごい! 今の魔法? 勇者って魔法使えるの?」
「ああ。勇者だからな」
膝に頬杖をつき、勇者が呆れた顔でこたえた。初めて体験した魔法に、私はここが異世界なのだと改めて実感した。
「お前は元の世界に帰りたいと思わないのか」
勇者がぽい、と小枝を炎に放り込むと、ぱちりと弾ける音がした。
「最初は帰りたかったけど、同級生ももう卒業して村には残ってないだろうし。今から帰ったって浦島太郎になっちゃうし。うちの村はたまに子供が神隠しに遭うことがあったから、親も今ごろもう私の事は諦めてると思うんだよね。こっちの村でお世話になってる人たちはみんないい人だから、別にもうこのままでいいかな」
「言ってることのほとんどは理解できなかったが、そのカミカクシとやらの被害者は、うちの国に来たのかもしれないな」
「え、私以外にも異世界人いるの?」
「この国にはいないようだが、魔力の強いうちの国にはたまに現れる。今はいないが」
「そうなんだー。会ってみたかったな。あーあ、私もこんな貧乏な国じゃなくてそっちの国に転移したかった。あの王様が改心して裕福な国にしてくれたらいいのに」
王様が寝ているテントを見たら、大きないびきが聞こえてきた。どうにも残虐、という言葉とはほど遠い天然な王様みたいに見えるんだけど。私が何を考えているのかわかったのか、勇者はそっと目を逸らし、足を組みかえた。
「どうやら噂は本当のようだな」
「噂?」
「残虐王は実は愚鈍で、宰相の傀儡となっている。というものだ」
「そういえば、さっき王様の肩揉んでるとき、宰相は幼馴染で昔からいつもお世話してもらってるって言ってた」
「なるほどな」
勇者はそのまま拳を口にあて、考え込んでしまった。黙っていたら眠くなってきたので、私は静かに自分のテントへ行ってすぐに眠った。
「あー! いー! うー! えー! おー!」
「もっと大きな口を開けて! 王様ならできる! もっとできるッ」
「あー! いー! うー!」
明くる朝、私と王様が並んで歯を磨いていると、眉間にしわを寄せた勇者が何事かと様子を見に来た。
「目も口も大きく動かす表情筋のストレッチだよ。こういうの若いうちからやっとかないとさあ、あっという間にたるんでほうれい線ができちゃうからね! ねえ、一緒にやろうよ。勇者は表情筋絶命しちゃってんじゃん」
「表情筋が絶命……」
ショックを受けたのか、勇者は何も言わずに右手で口元を覆ってどこかへ行ってしまった。
荷馬車の中を整理して作ったスペースに、王様はご満悦だった。見張りのために一緒に乗った兵士二人を相手にトランプをしている。不規則に荷馬車を揺らす悪路に、キャッキャと笑い声をあげていた。
私は勇者の馬に乗せてもらっている。初めて乗る馬の背は想像していたよりも高く、私は必死で勇者にしがみついた。
町の様子は昨日と変わりがなかった。王様が誘拐されたのはバレていないらしい。こっそりお城の塀の前に置いてくれば何とかなりそう。
「一応確認するが、王城にはどこから入った」
勇者が振り返り、肩越しに話しかけてきた。
「赤い旗のついてる門をくぐって、大きい橋を渡って行ったよ」
「やはり正門から入ったのか……。まさかとは思っていたが、そのまさかだったな」
ここ一番の大きなため息をつき、勇者は前を向いた。どうやら私は間違えてしまっていたらしい。王城の入り口を間違え、王太子と王様を間違えた。手伝ってあげる、なんて言っておいて迷惑をかけてしまった。
「ごめんね。勇者。私、向こうの世界でも山と畑しかない田舎に住んでいたから、お城の入り方とか知らなかったんだ。きちんと聞いてから行けば良かったね」
つかまっている腕から、勇者が身じろぎしたのが伝わって来た。
「いや、そういうことを言っているのではないが……。しかし、まあ、ろくな説明も指示もしなかった俺が悪かった」
「だよねー! あはははは」
「…………」
それ以降、王城へ着くまで勇者は一言もしゃべらなかった。
勇者一行が向かっているという報せが先に届いていたのか、王城の前にはたくさんの兵士が立っていた。
王様をこっそり置いていく作戦は失敗した! 勇者に迷惑をかけたおわびに、ここは私が突入して王城の扉を突破しよう。
「ここは私に任せて!」
私は助走をつけてジャンプし、兵士たちの頭上を飛び越えた。弓を振り回しながら着地すれば、兵士たちがお濠に落ちてゆく。昨日と同じように、橋を駆け両足を揃えて扉へ向かって蹴りを放った。
「うりゃあああ!」
「扉を開けよ!」
王様の声が聞こえ、私の足が届く直前に扉はタイミング良く開かれた。私はそのまま開いた扉の向こうへと吸い込まれて行った。
「あーーれーーー」
何とか転ばずに着地できたものの、再びメイドのお姉さんが尻もちをついている。お姉さん以外の人たちは、私の顔を見るとあわてて走って逃げてしまい、玄関には誰もいなくなってしまった。勇者と兵士を従えた王様が、ゆっくりと扉をくぐって歩いて来る。
「なんじゃ、わしの帰りなのに出迎えもなしか」
遠くで人の走る音が聞こえてきて、私たちはそちらの方向へ歩いて行った。一番奥の部屋の扉が開いたままになっており、そこから人の話し声が聞こえてきた。
「あそこは王の間じゃ」
王様はそうつぶやくと、突然走り出した。私たちはその後を追った。
王の間はとても広いホールで、奥の壇上に豪華な椅子の玉座があった。玉座の階段下に金髪の青年が立っており、その足元には両手を後ろ手に縛られた中年の男の人ががっくりとうなだれ跪いていた。剣を手にした騎士たちが周りを取り囲んでおり、ただ事ではない雰囲気に私は息を呑んだ。
「オスカル! オスカル!」
王様はそう叫びながら、跪いている宰相に駆け寄った。騎士たちは一歩後ろに身を引き、道を開けた。宰相は背中に添えられた手にもまったく反応を示さない。ふたりの様子をじっと睨みつけていた金髪の青年が、ゆっくりとこちらに視線を移した。
「ロザーリオ。教会のものたちから話は聞いた。私を助けに来てくれたそうだな」
この人が王太子ミロだったか! 私が見上げると、ちらっとこちらを見た勇者と目が合った。
「詳細は省くが、見ての通りこいつが新しい聖女だ。そして、手違いで王を誘拐してしまった」
勇者がそう言うと、王太子が訝し気に首を傾げた。私は手に提げていた弓を王太子によく見えるように持ち上げた。乱暴に扱ったわりには傷ひとつついていない弓がきらりと光る。
「詳しい話はあとで聞こう。君の協力には感謝する。……さて」
王太子はすっと視線を王様に戻した。王様は一生懸命宰相の背中をさすり、名前を呼んでいる。
「陛下、いえ、伯父上。先ほど、私はこの国の王となりました。手続きは全て終わっています」
王太子の静かな声に、驚く様子のない王様は跪いたままゆっくりと顔を上げた。
「もとより、そのつもりじゃった。そのつもりで、わしはここへ戻ってきたのじゃ」
王様の小さな、しかし、はっきりとした声に、王太子が目を見開いた。騎士たちもあっけに取られたようにたじろいでいる。責められている王様にいたたまれなくなった私は思わず駆け寄ろうとしたが、勇者に服を引っ張られ立ち止まった。
「王位はお前にやる。全てやる。しかし、わしの最後のわがままじゃ。こやつを、オスカルを、許してやってくれんか」
「……それはできません。あなたたちは、罪のない人たちを殺してきました。それは、けして許されるものではありません」
王様は王太子の声が聞こえているのかいないのか、必死に宰相を揺さぶり続けた。それでも宰相はうなだれたまま、何の反応もしなかった。
「のう、オスカル。わしは、昨日、初めて魚を見たんじゃ。子供の頃、そなたは小川で釣ってきたという魚を食べさせてくれたのう。あれは、食べやすいように骨を取り、身をほぐしてくれておったのじゃの。知らなかった。いつもそうじゃ。そなたはわしの一番近くでわしの面倒をみてくれていた」
宰相に語りかける王様の声は震えている。優しく優しく、なだめるような声が、静まり返ったホールに反響した。
「わしは昨日、自分で食べたい魚を選んだ。初めて自分で考えて、選んだのじゃ。自分で選ぶというのはかくも難しく悩ましい、じゃが誇らしいことじゃのう。兵士と相撲を取り、簡単に投げ飛ばされた。皆がわしを笑った。わしも笑った。皆と同じ風呂に入った。楽しかった……楽しかった。わしは皆と同じじゃった。同じ人間じゃった。わしは特別でも、選ばれた存在でもなかったのじゃ」
全員が王様の声に耳を傾けていた。騎士の衣擦れの音さえも聞こえるほどに静まり返ったホールは、まるで時間が止まったかのようだった。
「のう、オスカル。一緒に帰ろう。子供のころのように、また一緒に遊ぼう。多分、不便な所に引っ越しとなるが、ふたりでいればきっと楽しい。今度はわしが魚の骨を取ってやろう。最初はそなたがやり方を教えてくれ。だから、のう、オスカル……オスカル……こっちを向いておくれ」
それでも宰相は動かなかった。王様に揺さぶられ、その反動でがくりと膝がくずれたが、床に倒れたまま動かなかった。
オスカル、オスカル、と王様の呼ぶ声だけが残った。王太子が騎士に命じ、宰相を退出させた。王様はだまってその後ろをついてゆく。私たちは、その背中をずっと見えなくなるまで見つめていた。
あれからひと月。私利私欲のためにたくさんの人を処刑した宰相は、やはり死罪となった。「王は王家の被害者である」という勇者の一言のおかげで王様は死罪とはならず、王都から遠い遠い、辺境の塔に幽閉された。勇者ってそんなに影響力のある人だったんだなって、改めて実感した。
私はすぐに村に戻った。新しく王様になったミロには、王城に残ってほしいって言われたけれど、田植えがあるから、と断った。ミロが用意した兵士と一緒になら、王様に会いに行っても良いと許可をもらったので、そのうち遊びに行こうと思ってる。
せっせと農作業に精を出していたら、村にいるはずのない馬が駆けて来る音が聞こえてきて、私は顔を上げた。遠目でもよくわかる高そうな馬は、どんどんこちらに近付いて来る。
「ノノカ」
「勇者。どうしたの? 国へ帰ったんじゃなかったの?」
勇者はひらりと馬から飛び降りると、私の顔をまっすぐに見た。人形のようだった顔は少しだけ力が抜け、瞬きのたびに表情が違うような気がした。
「一度国へ戻ったが、やはりこちらの国で暮らすことにした。ミロに相談したら、この村を含むこの辺り一帯を拝領した」
「えっ。勇者、近くに引っ越してくるってこと?」
「そうだ。領主になるからな」
相変わらず不遜な態度で私を見下ろしているけれど、どこかからかうように楽しそうな様子だった。
「この辺りはもちろん、この村も俺のものだ。だから、お前も俺のものだ」
勇者はさらりとそう言うと、目を細め口の端を上げた。
初めての勇者の笑顔に、私は目を見開いたまま動けなくなった。表情筋が不死鳥のごとく生還している。バサバサと鳥が羽ばたく音が聞こえるのは空耳か。勇者がキラキラと輝いて見える。
「しばらくは王城でミロの手伝いをしなければならないから、今日はもう戻るが……。すぐに帰って来る」
「痛っ」
私の頭を強めにバシッと叩くと、勇者はまたニコリと笑った。言葉がのどに詰まって出なくなるから、それ、やめてほしい。
「訂正するよ、お前は中の下じゃなくて、上の下くらいだよ」
私の返事を待たずに、勇者は馬に乗って去って行ってしまった。
気が付くと、私の後ろには一緒に農作業をしていた村人たちがニヤニヤとしながら立っていた。
「新しい領主様が来るの、楽しみだな。なあ、ノノカ?」
私は赤い顔を隠すために麦わら帽子を深くかぶり、おじさんの言葉にうなずいた。
王様のところに遊びに行くときは、勇者も連れて行ってあげよう。そう思った。
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