暗夜の灯
この前、自転車で二人乗りしている高校生カップルがいました。
誰かが作った青春のぬり絵に色をつけているように見えて綺麗でした。
本作とは全く関係ありません。
小学生の頃、先生が二分の一成人式というイベントを企画した。
十年間生きたお祝いと、後もう十年で大人になるからその準備。
先生そうは言っていたけど、将来どんな大人になりたいかを一人ずつ
発表してお菓子を食べるだけの時間だった。
あの頃の僕は皆の前でどんな大人になりたいと言ったのだろうか。
少なくとも今の自分のようになりたいとは言っていない。
映像系の専門学校を卒業して地元の映像制作会社に就職した。
高校生の時に偶然テレビで流れた自動車のCMがきっかけだった。当時の悩みなんて全て忘れて
わずか一分に満たないその物語に没入した。それは遠い友人から届いた手紙みたいに
キラキラと宝物のような輝きを放ち、早く読みたい気持ちと大事に味わって読みたい
気持ちが混在したあの瞬間に似ていた。
だから今、僕は好きな仕事をしているはずだった。クリエイティブな仕事をしている
はずだった。
でもやっているのは撮れと言われたものを撮って、こうやれと言われたように
編集する。それが出来なければ怒られる。これを単純作業と呼ぶんじゃないかと疑った
僕を否定してやれない毎日だった。
もし仮に十歳の頃の自分が現れて、そいつに僕は「これが大人になった君だよ」と言えるだろうか。
おそらく十歳の頃の僕は「カッコわる!」と言って逃げ出すだろう。僕だって逃げたいんだ。
まんま同じ理由で。
そういえばあの子は今何をしているのだろう。
将来どんな大人になりたいか。自分の言ったことは覚えていないくせにあの子の言葉は覚えている。
「星を綺麗と思ったら、空に手を伸ばせる大人になりたいです」
どんな大人になりたいかなんて考えもせず生きていた僕を含めた同級生全員より
明らかに賢く、こうなりたいという明瞭な夢を簡潔に述べていた。
優等生の宿命だと思うが、あの子は小学生にもちゃんと嫌われていた。
修学旅行先で、キャンプファイヤーが終わって自然の家に帰るとき誰かが言った。
「あっ流れ星!」
その一言で皆の視線が空に向いた。
何気なく作った視界に、あの子が星空に手を伸ばす姿が入った。
「きれい」
あの時、涙がこみ上げてきたのは別にまっすぐ空へと伸びた彼女の手が尊くてとか、
自分と違って純粋で汚れなき心が美しくてとかではない。
恥ずかしさが重力の味方をして、上げようにも上がらない自分の右手があまりにも
情けなくて泣いたのだ。
___
そんなことを思い出しながら、帰宅する準備をしていた。
「明日、漁師さんの取材だから朝二時集合な」
「はい、了解しました」
毎日同じような仕事は嫌だ。なんとなく考えていた仕事への価値観にはぴったりの
仕事だった。
しかし不規則な勤務形態はじわじわと体力を奪い、追い討ちをかける上司からの罵倒は
部活動で培ったメンタルも容易に壊していった。
朝二時。今日は早く帰って寝なきゃなと思いながら切ったタイムカードは
21:03と印字された。
スーパーに寄ってから家に帰り半額シールが貼られたカツ丼を食べて、風呂に入って、
布団で寝る。そんなクソみたいなルーティーンが染みつきつつあった。
見なきゃいいのにSNSから流れてくる友達は決まって充実した生活を
送っている。悔しくていいねを押せない自分が余計悔しい。
俺もいつかと思いながらフォローした意識の高い成功者たちは
もっと努力しなきゃ一生ダメ人間だよと煽ってくる。
グチャッ。卵が道路に落ちたみたいな音が誰にも聞こえない音量で僕の
胸の真ん中で鳴った。
スマホを枕元に置き、天井に漏らすように言葉を吐いた。
「……かっこわる」
分かりきった言葉が真っ暗の六畳に響いた。
次の日、眠い目を擦って出社し、見に覚えのないことで怒られながら
上司と二人で港を目指して高速道路をロケ車で走っていた。
車内で今回の取材内容を聞くと、何やら僕より3つ下の二十歳の青年が
厳しい海の世界で漁師として奮闘しているのだという。そんな彼が
なぜ漁師を目指したのか、若い彼がどんな風に頑張っているかを取材するという内容だった。
そんなことのためにこんなに早起きしたのかと顔も知らない青年を憎んだ。
港に着くと十月下旬の朝の寒さに潮風が手を貸し、もっと厚着してくればよかったと悔やんだ。
カメラを持って上司と漁船に乗り込もうとすると親方のような人が出てきて怒声を散らした。
「なんで十月なんかに来るんだよ!夏くればいいだろ!」
すみません、すみませんと愛想良く謝る上司の後ろで、こっちだって
来たくて来てるんじゃないんだよ、と僕はこっそり目を細めた。
「そんなこと言わないでくださいよ。あっ、小泉です。取材よろしくお願いします!」
親方をなだめ、人懐っこい顔でこちらに挨拶した好青年が今回取材する小泉くんだった。
彼は船の中へと僕らを案内し、機材を濡れない場所へと移動してくれた。
「とりあえず獲れるとこまで船で移動してからなんで、ここにいてください」
指定された場所に座るとすぐに船は出港した。
ガタガタと激しく揺れながら暗夜の海を駆けていく。遊園地のアトラクションは
所詮アトラクションなんだと思えるくらい速いスピードで船は加速する。僕はもし風で船が
ひっくり返ったらどうしようと怯えながらバランスを取っていた。
小泉くんは船に体を預け、ひたすら遠くを見つめていた。
星だ。ありえないくらい満天の星空に向かって船は進み続けていた。
ああ、来れてよかったと思ってしまった。
ときに幻のような景色に遭遇する。それは奇跡と呼ぶに値する美しさを帯びていて、
決まって優しくない日常の中に現れる。
きっとこの美しい景色はさらに美化して記憶され、僕は離さないだろう。
そしてこの星空とへ駆ける船は僕が経験したどの遊園地のアトラクションよりも素敵であることに
違いなかった。
頑張った自分へのご褒美で買ったあのチョコレートよりも服よりも、
今の自分にはいいご褒美だった。
船が止まり、小泉くんと彼の先輩が網を仕掛ける。しばらくたったら引き上げて、
魚を種類ごとに裁き、船を進めるのを繰り返した。
上司と僕は彼の仕事ぶりをカメラへ収め続ける。
彼は先輩に怒られながらも、不貞腐れることなく本当に楽しそうに仕事をしていた。
満天の星空がいつの間にか淡い水色に染まり、朝日が少し顔を覗かせた。
朝日に向いた彼の後ろ姿は穏やかで優しく強く、月並な表現なら大きく見えた。
海が好きなんだな、インタビューなんていらなかった。
彼はきっとずっと海が大好きなんだろう。辛く、悔しい状況が邪魔して来ても
それを乗り越えるくらい好きなんだろう。
「ブラックだけどいいですか?」
休憩の時間になって彼は僕らに温かいコーヒーを淹れてくれた。
苦手なブラックコーヒーはちゃんと美味しくなかったけど、冷えた体に温もりを
与え本当に美味しかった。
「海が好きなんです」
インタビューはほとんど確認作業と言っても過言でないほど予想どおりの答えが返ってくる。
「憧れだけじゃ甘かったです」
「漁師を本気で目指したとき少し友達から引かれたりもしました」
彼の答える言葉はシンプルだけど、嘘なんて一つもつかないであろう彼の人柄から
放たれる言葉はどれも純度が高く文字にするより説得力があった。
言葉や選択に嘘が混じる僕とは違った。
あの日のように、掴み損ねた「星」は数えきれない。
思えば将来の夢の作文だってそうだった。
本当になりたい職業なんて書けなかった。
サッカー選手、ケーキ屋さん、お花屋さん、暗黙の了解のように用意された
テンプレートから選ぶ作業だったじゃないか。
そうやって笑われたり馬鹿にされないように、選択肢をいくつも捨ててきた。
それが例え一度きりの人生だとしても。
「大変だけど、好きだからいいんです」
漁船が港へと戻り、ロケが無事に終わった。
海沿いを走る帰りの車の中で上司に言った。
「小泉くんのやつ僕が編集してもいいですか」
「え、いいけど。お前からそんなこと言うの珍しいな」
「星が綺麗だったので」
星に手を伸ばしてみた。
それは遠いなんて言葉じゃ表せないほど遠かった。
それでも綺麗だから掴みたかった。そんな単純で簡単な理由が
僕と星の距離を縮めた。
星が綺麗ってだけで、それに手を伸ばせたら幸せになれます。
そんな簡単なことができないから、僕は今日も出社ギリギリまで寝てシワのついたワイシャツを着て街へ行くのでしょう。
それでもやっぱり星が綺麗と帰り道に思うのでした。