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「これはペンですか?」「いいえ、それはペンではありません。それは私です」

作者: 村崎羯諦

「もう一回聞いていいですか? これはペンですよね?」

「いいえ。何回も言っていますが、それはペンではないです。それは私です」


 私の担当患者である笹中美咲さんが机の上に置かれた青いペンをまじまじと見つめ、それから眉をひそめた。


「どうしてもこれが先生だとは思えません。どこからどう見たってこれはペンじゃないですか」

「いいですか、笹中さん。それはあなたの認知が歪んでしまっているからそう見えるんです。健常者から見ればこれはペンではなく、私なんです。もちろん私は精神科医ですので、笹中さんがそのように認識してしまうということは頭では理解できます。ですが、そう見えてしまうこと、それは異常なのです。時間はかかるかもしれませんが……ゆっくりと治療していきましょう」


 笹中さんがはあと相槌を打つ。私は後ろに立っていた看護師に対し、彼女の症状についてカルテに記載しておくように指示した。それからもう一度笹中さんと向かい合い、彼女の丸い瞳をじっと見つめながら言い聞かせる。


「今はまだ信じきれなくても大丈夫です。ですが、とりあえず今はこれが私だと言葉に出して言ってみてください。言霊という言葉があるように、そのように言い続けていれば、自然とこれが私だと認識できるようになるんです。この治療法は認知療法としてきちんとお墨付きを得ているものですので、その点はご安心ください。では、改めて伺いますね。これはなんですか?」


 笹中さんがじっと机の上に置かれた青いペンを見つめ、それから疑わしげな表情のままつぶやく。


「これは……ペンではなく、先生です」


 私は彼女のその言葉に満足げに頷いた。


 存在認知障碍(Existence-cognitive disorder)、通称ECD。言葉の通り、認知機能に障害をきたし、自分や他者の存在を正しく認知できなくなってしまうという精神病。症例自体は以前から確認されていたものの、ある時期を境に爆発的に患者数が増え、最盛期にはなんと、世界の半分近くの人間がこの障碍を抱えているなどと言われるほどだった。世界的に見ても患者数自体は逓減しつつあるが、今なお大勢の人たちがこの病気に苦しんでいる。私が勤めるこの精神病棟では比較的症状の重い入院患者の治療を行っており、彼女もまた、この現代病に侵された悲しき犠牲者の一人だった。

 

「では、次のステップに進みましょう。これは何ですか?」


 先ほどまで指差していた青のペンの横に転がる、赤のペンを指差し、私が彼女に尋ねる。


「えっと、これこそペンですよね」


 私は失望を顔に出さないように注意しながら、できる限り穏やかな口調で彼女の言葉を訂正する。


「いいえ、違います。これは笹中さん、あなた自身です」


 笹中さんがじっと赤のペンを見つめ、首を傾げる。


「これが私だなんて到底考えられません。私は私で、ここにいるじゃないですか?」

「こことは?」

「ここというか、その……今、こうして喋ったり、考えたりしている私が私じゃないですか。自分自身が私じゃない、別の物体に存在するなんて理解できません。それに先生だって、さっきからちょくちょくペンって言ってませんか?」


 発言が支離滅裂で、存在認知の歪みが強固。思っていたよりも症状が深刻だな。私は彼女の真剣な表情を観察しながらそのように結論づける。こうなったらやはり、あのプランを実行するしかないな。私は深く息を吐く。そして、ぐっと自分の気を引き締めた後で、私は言葉を続けた。


「あなたのお気持ちはわかります。そのように考えてしまうこと、認識してしまうこと、すべて病気のせいなのです。治療を続けましょう。いいですか、私の言葉をゆっくりと繰り返してください。この青いペンは私、そして、隣に転がっている赤のペンが笹中さん、あなたです。はい」

「えっと、これが先生で、その隣に転がっているのが……私?」

「ええ、そして……」


 私は胸ポケットに入れていた黒いペンを取り出し、机の上に置いた。


「これが、笹中さんの腹違いのお兄さんである、大藤克彦さんです」

「お兄ちゃん……?」


 突然の再会に笹中さんが驚きの声をあげ、手で口を覆った。その驚きも無理はない。何せ十年ぶりの再開なのだから。私は彼女のお兄さんを手で強く握りしめながら、彼女の反応を観察する。


 治療に先駆けて、私は彼女の生い立ちについて詳しく調査した。十年前に両親が離婚、彼女とたった一人のお兄さんはそれぞれ母親と父親に引き取られ、二人は離れ離れとなってしまった。その後、女手一つで彼女を育ててくれた母親が若くして亡くなり、そのショックで以前から患っていた存在認知障害の症状が悪化。そんな時、身寄りのない彼女の身元保証人として名乗りを上げ、煩雑な入院手続きなどを率先して引き受けたのが、彼女のお兄さん、大藤克彦さんだった。十年前に別れてからも一瞬たりとも愛する妹のことを忘れたことはなかったにも関わらず、彼女が辛い境遇にあることも知らず、呑気に暮らしていた自分が憎いです。お兄さんは唇を噛み締め、私にそう語ってくれた。


 彼女の精神状態はまだまだ良好とは言えない。そんな状況で、彼女とお兄さんを再会させることは、一種の賭けでもあった。お兄さんもまた、彼女が元気になるまで、自分には妹に面会する資格はないと主張していた。確かに、今の彼女にとってこれは強すぎる刺激なのかもしれない。一方で、回復が長引くかどうかの分岐点でもあるこのタイミングだからこそ、彼女とお兄さんを再会させることで症状が一気に回復に向かう可能性もある。辛い治療を乗り越えるために必要なのは高価な薬でも名医でもなく、明日に向かう希望だ。荒治療であることは自覚している。しかし、きっとうまくいく、長年大勢の患者を治療してきた私の勘がそう告げていた。


「ぜひお兄さんと触れ合ってみてください」


 私は黒いペンを笹中さんへと手渡す。彼女はおずおずとペンを受け取り、そして、涙を目に浮かべながらゆっくりと再会の喜びを噛み締めていた。


「何て書かれてますか?」

「胴体部分に『PILOT』って書かれてます」

「それは、あなたのお父さんが再婚なされた女性の名前です」

「海外の方……なんですね」


 笹中さんが噛みしめるようにそうつぶやく。お兄さんから伝言を預かっているんです。私は笹中さんから黒いペン、つまり彼女のお兄さん受け取り、キャップを外した。そして、後ろの看護師から受け取ったコピー用紙に、お兄さんから預かっていた伝言を書き始める。しかし、お兄さんはすでにインクが切れかかっており、何度も何度もなぞらなければ、うまく紙に文字を書くことができない。力を込めて紙をなぞるたびに、悲鳴にも似た摩擦音が診療室内に響き渡る。


「ああ、お兄ちゃん。もう止めて。そんな身体で、無理しないで!」


 笹中さんが叫ぶ。その声に手を止めてしまいそうになるが、それでも私には、お兄さんからの伝言をこの紙に書ききる使命があった。心を鬼にし、ペンで文字を綴る。私は唇を噛み締めながら手を動かし、ようやく短い言葉を書き終える。私はお兄さんの伝言を記した用紙を笹中さんに渡した。その用紙には黒い文字でこのような言葉が書かれていた。


『いつまでも待ってる』


「ああ!」


 その言葉を目にした瞬間、彼女は両手で顔を覆い、その場に泣き崩れた。私は椅子から立ち上がり、彼女のふるえる背中を優しくさする。彼女は用紙をしわくちゃになるほどに強く抱きしめながら、嗚咽まじりに咳き込んでいた。


「先生……私、頑張ります。頑張って病気治して、元気な姿で退院してみせます!」

「ええ! 一緒に頑張りましょう……!」


 彼女が顔を上げ、袖で涙を拭った。私は彼女の瞳の奥に強い意志が宿っていることを感じた。手を取り、ゆっくりと彼女を丸椅子へと座らせる。お疲れのようですから、少し早いですが今日は終わりにしましょう。私がそう提案すると、彼女はふるふると首を横に振り、時間いっぱいまで治療を続けてくださいと力強く答えた。病気に立ち向かおうとする彼女の健気さに、胸の奥から熱い感情がこみ上げてくるのがわかる。


 わかりました、と私も彼女に負けないくらいに強く頷く。そして、机の上に置かれた赤のペンを手に持ち、彼女の目の前に掲げた。


「では、お尋ねしますね」


 私は彼女の目をじっと見つめ、質問する。


「これはペンですか?」


 私のその問いに、笹中さんは力強い声でこう答えた。


「いいえ、それはペンではありません。それは私です」

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