第三章(1/4)
「ほら、早く脚を開いて」
「い、いやだ」
僕の命令を、才川さんはそう拒絶した。
「すぐ終わるから大丈夫だよ。力抜いて」
不安がっているようだから、なるべく優しく語りかける。しかし、才川さんはやっぱり言うことを聞こうとしない。
このままではらちが明かないので、僕は結局力ずくで従わせることにする。
「ああ、痛い痛い痛い。痛いから」
「はいはい」
「お願いだから、こんなことはもうやめてくれ……」
「分かった分かった」
どうしたって、ある程度は時間をかけないと満足いくものにならない。それに、短時間で一気に終わらせようとすると、かえって痛い目を見ることになる。だから、僕は才川さんの悲痛な叫びを適当に聞き流していた。
「はい、おしまい」
僕が体から手を離すと、才川さんは涙交じりの目で睨んでくる。
「……君は意外と鬼畜だな」
「鬼畜って、まだ準備運動なんだけど」
本番はこれからだというのに何を言っているんだろう。
しかし、才川さんは改めて繰り返していた。
「いや、十分鬼コーチだよ」
◇◇◇
才川さんから鬼コーチ呼ばわりされる数時間前――朝のSHRの終了後のことである。
僕はこの前借りた『獄門島』を彼女に返しに行く。まさか俳句がああいう形で関わってくるとはね。
けれど、僕の第一声は本とは無関係なものになった。
「……才川さん、大丈夫?」
顔色を見てそう尋ねる。元々色白だけど、今日はさらに白い。青白いと言っても差し支えないほどだった。
僕の胸に不安がよぎる。才川さんは長い間入院生活を送っていたのだ。
「保健室行く?」
「いや、体調はいいよ。悪いのは精神面だ」
「?」
何を言いたいのかよく分からない。入院していたのは体が弱いせいであって、心の病気にかかっていたという話は聞いてないけど……
そうポカンとする僕に、才川さんは言った。
「ついさっき、月末に球技大会があると、先生が説明したところじゃないか」
「そういえば、才川さん運動ダメだったね」
克服しつつある病弱さを除いても、才川さんには僕の知る限り大きな弱点が二つある。その内の一つがスポーツだった。病気で激しい運動を禁止されていた期間が長過ぎて、体の動かし方がいまいち分からないらしい。
「せめて個人競技ならよかったんだが……」
球技大会の種目は、学年ごと男女ごとに分けられており、一年の女子はバレーをやることになっていた。バレーはただでさえ団体競技の上に、サッカーやバスケと違ってミスが即失点に繋がってしまうスポーツである。それだけに、才川さんはチームの足を引っ張ってしまうことを心配しているようだ。
「でも、たかが球技大会だよ。みんなも気にしないって」
「たとえ誰も気にしないとしても、私が気にするんだよ」
「うーん……」
と困ってしまったのは、才川さんのわがままに呆れたからではない。
僕だって背が低いのが悩みで、たとえ直接馬鹿にされなくても、そばに背の高い人がいるとそれだけで結構コンプレックスを感じてしまう。だから、「たとえ誰も気にしなくても私が気にする」という才川さんの気持ちも分からないでもないのだ。
「そんなに嫌なら休んだら? 才川さんなら、仮病使ってもばれないでしょ」
「それはダメだ。うちの親は過保護だから、大事になるかもしれない」
「学校来てから体調悪くなったことにして、保健室で寝とくのは?」
「それはいくらなんでもサボってるのが露骨過ぎないか」
才川さんのことだから、言われるまでもなく既に検討済みなんだろう。僕の解決策にあれこれダメ出ししてくる。
しかも、才川さんはここに来て新しい条件を付け加えてきた。
「それに、中学の時は出れなかったから、参加してみたい気持ちはあるんだよ」
「…………」
以前、部活の話になった時も、才川さんは文芸部に入ることを楽しみにしている様子だった。やはり、やっと送れるようになった学校生活に、憧れや期待を抱いているんだろう。
そういうことなら、サボればいいなんて気軽には言えない。
「それじゃあ、放課後に特訓でもする? 付き合うけど」
「……いいのか?」
「バレーなんて授業くらいでしかやったことないから期待しないでね」
「いや、十分だよ。ありがとう」
僕の言葉を聞いて、蒼白だった才川さんの頬にようやく赤みが差した。
◇◇◇
そして、約束の放課後――
当たり前といえば当たり前だけど、体育館は本職のバレー部が使用している。だから、僕たちは屋外用のボールを借りて、グラウンドの隅の方で特訓を始めた。
ただ、いきなりボールを使った練習をしたりはしない。体を本格的に動かす前に、まずは怪我の防止の為にしっかり準備運動を行う。
しかし、準備運動というだけあって、これも才川さんの苦手なスポーツの範疇に入ってしまうらしい。あまりの体の硬さから、動的ストレッチ(通常の体操)のあとの静的ストレッチ(柔軟体操)で悲鳴を上げていた。
それでもどうにかしようと、無理矢理にでも脚を開かせたり、背中を押したりした結果、例の鬼コーチ発言が飛び出したのである。
「あいたたた」
静的ストレッチの続きをしていると、才川さんはうめき声を漏らす。体育の授業は基本男女別だったり、そもそも病気で休みがちだったりするから、詳しくは知らなかったけど、まさかここまでひどいとは。
「才川さん、本当に体硬いね。これじゃあ、いつか怪我するよ」
「私の場合、ストレッチをやったせいで怪我しそうなんだが」
「何そのパラドックス」
僕は頭の中で組み立てていた練習メニューを思わず見直す。この有様だと、もっと入念に準備運動をやった方がいいかもしれない。ただ、月末の球技大会まであまり日数がないことを考えると、基礎の基礎に時間をかけ過ぎるわけには……
「それじゃあ、まずはサーブの練習をしようか」
準備運動が終わると、僕はそう言った。悩んだけれど、結局元のメニュー通りに進めることにしたのだ。
「とりあえず、サーブだけは本番までになんとかしておきたいから、多めに時間を取るね」
「それはどうして?」
「レシーブやトスと違って、ミスした時に誰もカバーできないからだよ」
「なるほど」
バレーはミスが即失点に繋がるスポーツとはいえ、ボールを上にあげさえすればチームメイトのカバー力次第ではプレーを続行できる可能性はある。スパイクは上手く相手コートに入らない場合があるけれど、そもそも打たずに誰かに任せてしまえばいい。バレーの中で、サーブだけが唯一個人で完結するプレーなのだ。
「それじゃあ、まずフローターサーブをやってみようか。こうやって、こう……」
僕は左手で頭上に投げたボールを右手で叩く、オーソドックスなサーブを実演する。普段なら助走とジャンプを加えて、ジャンプフローターサーブにするけれど、いきなりそこまでやるのは(特に才川さんには)難しいだろう。
「じゃあ、やってみて」
「う、うん」
僕からボールを受け取ると、才川さんは緊張で一度息を呑む。それから、左手でボールを上に投げ――
右手で見事な空振りをした。
「や、やっぱり、いきなりフローターサーブは難しいかな。最初は下からやろうか」
確かにオーソドックスなのはフローターサーブだけれど、難易度が低いのはアンダーハンドサーブである。フローターサーブの方が得点力があるから一応できないか確認してみただけで、成功させられると思っていたわけではなかった。いや、空振るとも思ってなかったけど。
しかし、初心者向けのアンダーハンドサーブですら、才川さんは空振りをする始末だった。
「……もっと簡単なサーブは?」
「残念ながら……」
すがるような視線の才川さんから、僕は目を逸らしながらそう答える。せいぜい相手コートに狙いをつけられない程度だと思っていた。ボールに触れることさえできないレベルだったのは完全に想定外である。
その後、しばらくアンダーハンドサーブの練習を続けてみたけれど、結果は芳しいものではなかった。空振りが何度も何度も続き、ようやく手に当たったかと思えば、ボールがあらぬ方向に飛んでいく。そして、また空振り地獄が始まり……
「これじゃあ、らちが明かないなぁ」
とはいえ、技術面を指導するよう知識は僕にはない。先程のようにプレーを実演するのがせいいっぱいである。
だから、精神面からアドバイスを送ることにした。
「ミスするたびに、罰として柔軟をやることにしようか」
「お、鬼コーチ……」