第二章(3/4)
「狛犬が鳴いた……デスか?」
「そう。昨日、神社にお参りに来た時に聞いたんだって。だから、みんなで確かめに来たんだよ」
一番に説明を始めただけあって、気が強い性格なんだろう。エミー先輩の質問に答えると、女の子は馬鹿にしたような目つきを言い争いの相手――「美華ちゃん」に向けた。
「やっぱり、鳴かなかったけどね」
性格は勝気で、見た目はかわいい。女子小学生のファッションなんか僕にはよく分からないけれど、それでもオシャレに気を遣っていることは理解できる。そのおかげか、女の子はこのメンバーの中ではリーダー格のようだった。彼女の言葉を皮切りに、他の子たちも口を開く。
「千代ちゃんの言う通りだよ」
「普通に考えて、ありえないよね」
「絶対嘘だよ」
「嘘つき」
中には何も言わない子もいたけれど、積極的に批判しないというだけで、特に美華ちゃんを庇うようなこともしなかった。「先に嘘をついた美華ちゃんが悪いし……」「早く謝ればいいのに」と目が言っている。
トラウマというと大げさだけど、小学生の頃の嫌な思い出が僕の脳裏に蘇る。悪口か何かで女の子を泣かせたら、そのあと女子数人に囲まれて「謝って」と連呼されたことがあったのだ。あれはこっちも泣くかと思ったね。
あの時、僕は罪悪感もあってあっさり謝った。けれど、美華ちゃん違った。元々つり上がった目を、さらにつり上げて反論する。
「だから、本当だって――」
そう美華ちゃんが言いかけたのを、千代ちゃんたちとは別の声が遮った。
「狛犬が吠えるのなら、私も聞いたことありマスよ」
そう口を挟んだエミー先輩の声色は、場の雰囲気とは不釣合いなほどのん気なものだった。
「きっと今日は吠えない日なんデショウ。神社によく来る私だって、めったに聞いたことないデスからね」
どこからどう見ても普通の狛犬である。常識的に考えて吠えるわけがない。仮に事実だとしたら、僕を神社に誘った時にその話をしないのは不自然だろう。美華ちゃんのことを庇っているのは明らかだった。
「ちょっと、先輩」
「嘘も方便デスよ」
小声で言う僕に、エミー先輩はそう小声で返してきた。
嘘も方便。それは確かにそうかもしれない。先輩の話に、女の子たちはざわめき始めていた。
「え、本当なの?」
「でも、狛犬が鳴くなんて」
「それはそうだけど、あの人も言うんだし……」
小学生からすれば高校生なんて大人みたいなもので、その大人が「吠えるのを聞いた」と言うのである。たとえ突拍子のない話だろうと、完全には否定できなくなってしまったようだ。
ただ一人を除いては。
「じゃあ、いいよ。鳴くまで毎日来るから」
「エッ」
千代ちゃんの言葉に、先輩は虚を突かれたようだった。
「本当に鳴くんだったら問題ないはずじゃん」
そうもっともな意見を言うと、千代ちゃんは「行こ」と他の子たち――もちろん美華ちゃん以外の――に声を掛けて神社をあとにする。
一度だけ振り返ったその顔は、「そっちの考えてることなんて、お見通しなんだから」と言っていた。
「先輩、どうするんですか?」
「ど、どうしマショウか……」
◇◇◇
結局僕たちがどうしたかといえば、とりあえず美華ちゃんから詳しい話を聞くことにしたのだった。
昨日、美華ちゃんこと李美華ちゃんは、一度家に帰ったあと一人で神社に行った。明日小テストがあるので、そのお参りをしようと思い立った為である。
お参りが済んだあとも、美華ちゃんはそのまま境内に残って、ボール遊びなどをしてしばらく遊んだ。だが、その内に暗くなってきたので、両親に怒られる前にいい加減帰ることにした。
そして、美華ちゃんがその横を通り過ぎようとした時、ちょうど狛犬が鳴き声を上げたのだった。
翌日(つまり今日)、美華ちゃんはクラスメイトの五年一組の子たちに、昨日あった出来事について話した。中には信じて驚いたり不思議がったりしてくれる子もいたけれど、大抵の反応は冷たいものだった。
特に千代ちゃんこと桃園千代姫ちゃんは、美華ちゃんの話を最初から嘘扱いして、反論しても聞く耳を持たなかった。しかし、美華ちゃんも「嘘じゃない」と言って譲らない。それで、本当に鳴くのかどうか、学校の帰りにみんなで確かめに行くことになった――
多少細かいディティールが加わったものの、美華ちゃんの話は大枠では千代ちゃんの説明と変わらないようだった。
「ええと、美華ちゃん」
僕はそう話を切り出す。聞きづらいけれど、聞かないわけにはいかないことがあった。
「怒ったりしないから、僕たちには正直に話してほしいんだけど、本当に狛犬が吠えるのを聞いたんだよね?」
「だから、そう言ってるでしょ」
例のつり上がった目で僕を睨むと、美華ちゃんはグレープフルーツジュースに口をつける。「アンタとは口を利きたくない」と言いたいかのようだった。
代わりに、「ファミレスにでも行きマショウ!」と言い出した張本人が話を引き継ぐ。
「そこはもういいんじゃないデスか?」
「でも、先輩が言ったんですよ。『亀鳴くと嘘をつきなる俳人よ』って。美華ちゃんの嘘だって考えたら、簡単に解決するじゃないですか」
しかし、俳句の話を持ち出しても、エミー先輩は簡単には納得しなかった。
「じゃあ、仮に嘘だとして、メイファは何でそんな嘘をついたんデスか?」
「名前からいって、出身は中国あたりでしょう? そのせいで、クラスで浮いていて、構って欲しくて……」
肌の色、髪の色、瞳の色…… 言われなければ、見た目はおそらく日本人でも通じる。
けれど、李美華という名前は明らかに日本人のそれではない。そして、自分たちと違うものに拒否感を示すのは、子供の――いや人間の本能のようなものだろう。
実際、美華ちゃんに友達がいないことは、ある程度裏付けが取れていた。美華ちゃんが一方的に嘘つき呼ばわりされていることや、一人で神社に来てそのまま夕方まで遊び続けたことがそうである。
それに、小テストが不安でお参りに行ったというわりに、すぐに帰って勉強しなかった点も気になる。もしかして、美華ちゃんが神頼みしたのは本当は全く別のことなんじゃないだろうか。それこそ、友達ができますように、とか。
「私だって、アンタの立場ならそう考えたでしょうね」
美華ちゃんは不承不承そう認める。その瞳には悔しさや無念さが滲んでいた。
そんな彼女の態度が、エミー先輩の怒りをよりかき立てたようだった。
「ショースケ、アナタ今ひどいこと言いマシタよ」
「いや、簡単に解決すると言っただけで、何も真相だと言ったわけじゃあ……」
嘘つき呼ばわりどころか、友達のいない嘘つき呼ばわりしてしまうとは! 今更失言に気づいて、僕はしどろもどろに弁解する。
しかし、二人は聞く耳を持ってくれなかった。
「メイファ、お兄さんがケーキもおごってくれるそうデスよ」
「パフェがいいわ。フルーツいっぱいのやつ」
二人が眺めるメニューを覗き見したら、パフェの方が200円近くも高かった。……まぁ、今のは僕が悪いから仕方ないか。
注文が済んだところで、僕は気を取り直して言った。
「じゃあ、狛犬が吠えたって前提で話を進めるけど…… 具体的にはどんな声だったの?」
「吠えるっていうか鳴いたのよ。こう、笛みたいにピーピー甲高い感じで」
思い返してみれば、美華ちゃんたちはずっと「吠える」ではなく「鳴く」と言っていた。あれは鳴き声のイメージに即して、きちんと動詞を使い分けていたからのようだ。
「犬とかライオンみたいな鳴き声じゃないんだ?」
「ええ。どっちかって言うと、鳥みたいな感じだったわ」
「鳥……」
そう僕が繰り返すと、エミー先輩が横から口を挟んだ。
「もしかして、本当に鳥だったんじゃないデスか?」
本人の中でだんだん確信に変わっていったらしい。先輩の声は次第にトーンが高くなっていく。
「きっとそうデスよ! 鳴き声を聞いたのは夕方だって言いマシタよね? だから、暗くて見落としてただけで、そばに鳥がいたんデスよ!」
これに僕が顔をしかめたのは、何もエミー先輩の声がうるさかったからだけではない。
「それはどうですかね。人がそばにいたら、普通鳥は逃げると思いますけど」
先輩とは反対に、僕の中ではだんだん否定論が強固なものになって、眉間に寄せたしわが深くなっていった。
「それに、鳴き声を聞いたのは、狛犬のそばを通りがかった時なんですよ。近づいてくる人間に、鳥が反応しないっていうのは考えにくいでしょう」
僕がそう反論する間、昨日の記憶と照らし合わせるように、美華ちゃんは先輩の鳥説についてゆっくりと考え込む。しかし、出した結論は僕と変わらなかった。
「……そうでしょうね。かといって、鳥が遠くで鳴いてたなら、さすがに狛犬が鳴いたと勘違いしないでしょうし」
本人にまで否定されると、先輩もさすがに引き下がるしかないようだった。
「うーん、ダメデシタか。『蚯蚓鳴く』は、オケラの鳴き声をミミズのものだと勘違いした為だという説があるので、いけるかと思ったんデスが」
「俳句脳をこじらせないでください」
ある意味感心しながら、僕は呆れ顔を浮かべる。
一方、美華ちゃんは何のことかよく分からなかったようだ。彼女が「『蚯蚓鳴く』って何?」と尋ねたことで、「秋の季語にそういうものがあって――」とエミー先輩による俳句講座が始まってしまった。
既に一度聞いた話を聞くともなしに聞きながら、僕は狛犬の謎について考える。
先輩の鳥説を俳句脳と一蹴したけれど、考え方としてはあながち間違っていないかもしれない。何か他の生き物の鳴き声を、狛犬のものと勘違いしたというのはありえそうな話である。
もちろん、鳥以外の、たとえばサルのような動物でも、人が近づけば逃げてしまうだろう。しかし、怪我や病気が原因で、その場から逃げられなかったのだとしたらどうだろうか。あるいは、脱走したペットか何かで、人に慣れているとしたら……
僕があれこれ考える間に、エミー先輩は他の『○○鳴く』という季語の解説に入っていた。あわよくば美華ちゃんを部員に……とか考えてないだろうか、この人。
「今の季節にも、『亀鳴く』という季語がありマス」
「あれ? 亀って鳴かないんだったかしら?」
「鳴きマセンね。だから、もしかすると、首を引っ込める時に鳴る音を、昔の人は鳴き声だと勘違いしていたのかもしれマセン」
「ふーん、なるほどね」
そんな風に二人が『亀鳴く』について話しだしたところで、僕はようやく口を開いた。
「……美華ちゃん、鳴き声は間違いなく狛犬の方から聞こえたの?」
「先に言っとくけど、私、この前の身体測定でも聴力に異常はなかったからね」
「それは別に疑ってないよ」
「えっ」
困惑した様子の彼女に、僕は重ねて質問する。
「美華ちゃん、鳴いたのはどっちの狛犬だった?」