第九章(4/4)
「さぁ、吟行に行きマショウ!」
エミー先輩にいきなりそう言われた。午後のSHRが終わって、今さっき部室に来たばかりだというのに一息つく暇もない。
「今日もですか? 今日も暑いですよ」
「句集の為には、どんどん作らないといけマセンからね」
「はぁ……」
「ショースケだって、一句詠めたんデスから、二句でも三句でも詠めるはずデスよ」
「そういうものですかね」
分かるような分からないような…… 今朝、才川さんと話している時に二句目ができたことは、今はとりあえず黙っておこう。
「それに、今年はまだホトトギスの鳴き声を聞いてないデスから!」
「本当に好きなんですね」
やっぱり、五月で連想する『アレ』というのは、ホトトギスのことだったようだ。俳号にもするくらいだから、当たり前といえば当たり前だけど。
しかし、エミー先輩はこうも続けた。
「まぁ、私はウツギの花でも構いマセンが」
「…………」
「ウツギの花でも構いマセンが」
「そろそろ怒りますよ」
連呼しないようにと、昨日釘を刺したはずである。
僕が本気で言っているのが伝わったらしい。先輩は慌てたように言い訳を始める。
「い、いや、万葉集の時代から、ウツギの花――卯の花とホトトギスの取り合わせは有名なんデスよ。たとえば、『朝霧の八重山越えて霍公鳥卯の花辺から鳴きて越え来ぬ』という歌がありマスね。
『夏は来ぬ』だって、そうだったデショウ? 卯の花の匂う垣根に時鳥早も来鳴きて夏は来ぬ……」
「ああ、そういえば」
春がウグイスと梅なら、夏はホトトギスと卯の花ということだろうか。エミー先輩が歌うのを聞いて、僕は冷静になる。
ホッとしたように、先輩はいつもの調子で説明を続けた。
「だから、正岡子規もそういう俳句を残してマスよ。『卯の花の散るまで鳴くか子規』とか、『時鳥啼かず卯の花くだしつゝ』とか。
子規は自分が卯年生まれだったので、ホトトギスだけでなく卯の花にも思い入れがあったみたいデスね」
「じゃあ、先輩も僕をからかって言ってたわけじゃないんですね」
「いえ、さっきのは普通にからかってマシタが」
「おい」
◇◇◇
「あっつ……」
恒和山のハイキングコースを歩きながら、僕は小声でそう呟く。
たった一日でも夏に近づいたせいなのか、今日は昨日以上に太陽が照りつけて、気温も高くなっていた。異常気象か、それとも地球温暖化か。「立夏といっても、それはあくまで暦の上での話で……」とかこの前は思ったけど、今日の暑さはもう夏だと言っても過言ではないだろう。
って、これ昨日も同じこと考えたっけ? どうも暑さのせいでいまいち頭が回っていないようだ。
しかし、元野球少年としては、この程度で弱音を吐くわけにはいかない。
だから、僕は代わりに尋ねた。
「エミー先輩、体調は大丈夫ですか?」
「ハイ、全然元気デスよ!」
「ちっ」
「な、何で怒ったんデスか?」
理不尽な舌打ちに、エミー先輩はそう驚くような訝しむような声を上げた。
結局、そのあと僕が休憩を提案することはなかった。病気のエミー先輩の邪魔をするわけにはいかないから、これくらいの暑さは我慢しないといけないだろう。もっとも、舌打ちの理由も説明しなかったから、先輩はしばらく怪訝な顔のままでいたけれど。
そうして山の中を散策しながら、エミー先輩は見つけた夏の季語で次々と俳句を詠んでいった。『暑き日』、『櫟の花』、『蜥蜴』……
もちろん、先輩は出発前に騒いでいた『空木の花』でも句を詠んだ。白い花を白い夏服に見立てた『衣替へせんとや咲かむ空木かな』くらいならともかく、僕の俳句に対する返歌のような『卯の花は腐らぬ腐れば蛍為る』という句には閉口させられた。
しかし、エミー先輩が一番見つけたがっているのは、やはり『アレ』のようだった。
「うーん、いないデスね、ホトトギス」
「…………」
先輩はキョロキョロあたりを見回すけれど、『暑き日』のせいで僕にはそんな元気はなかった。それどころか、返事をする気すら起きない。
「ショースケ、ちゃんと探してマスか?」
「いや、今新しい句を考えてて」
「あ、そうデシタか……」
完全に口から出まかせだったのに、エミー先輩はあっさり信じたようだった。申し訳なく思うような期待するような表情を浮かべるので、罪悪感が湧いてきてしまう。
とはいえ、先輩と違ってそんなにすぐには俳句を作れないので、僕はせめて俳句の話をすることにした。
「そういえば、出発前に言ってた『卯の花の散るまで鳴くか子規』とか以外に、正岡子規がホトトギスについて詠んだ句はないんですか?」
「ありマスよ。やはり、ホトトギスに対しては思い入れが深かったようで、とてもたくさんありマス。確か、全部で三百句くらいデシタか」
「さ、三百……」
同じ題材でよくもまあそんなに詠んだものである。僕なんて一句詠むだけでひいひい言ってるレベルなのに。
「ちなみに、どんなのがあるんですか?」
「『時鳥鳴かぬ程こそゆかしけれ』、『一声や大空かけてほとゝきす』、『病人に一つ徳あり時鳥』……」
いくつか諳んじたあとで、エミー先輩はさらにこう言った。
「でも、私のお気に入りはこれデスね。『鳴かぬなら鳴かぬと鳴けよ鵑』!」
「無茶言うなぁ」
僕は思わず呆れ顔をする。
一方で、「鳴いて血を吐くホトトギス」を題材に、悲壮感のない冗談みたいな句も詠んでいたのかと、安心するような気持ちもあった。
エミー先輩が気に入ってるのも、きっとそういう部分があるからなんじゃないかと思う。
◇◇◇
「ふー……」
エミー先輩は深呼吸するように長く息を吐いた。
さすがにこの暑さは先輩もこたえたらしい。ハイキングコースの途中にある休憩所に到着すると、小休止を取ることにしたのだった。
昨日の反省から、僕は今日スポーツドリンクを持ってきていた。それを入れる水筒に、大きめのサイズで、コップが複数ついてくるものを選んだのは、野球をやっていた頃の習慣からである。
「よかったら飲みます?」
「Oh,thanks a lot!」
よほど喉が渇いていたのだろう。コップを渡すと、エミー先輩は英語でそう答えた。
僕は冗談交じりに、「ユアウェルカム」と返してみる。すると、一口飲んで落ち着いたのか、先輩には「welcomeの発音がちょっとおかしいデスね」と冷静に言われてしまった。
「Lはどうやって発音するのかといいマスと……」だとか、「ウェルカム」「No,welcome」「ウェルカム」「Good!」だとか、英語の授業みたいなやりとりが終わると、僕たちは吟行を再開する。
ホトトギスのことがまだ諦めきれないらしい。エミー先輩は周囲の風景を念入りに見回しながら歩く。
「やっぱり、いマセンね」
「そうですね」
「双眼鏡でも持ってきたらよかったデスかね」
「鳴き声を聞きたいなら、マイクの方がいいんじゃないですか」
そこまでやったら、もう吟行というよりバードウォッチングのような気もするけど。
そういえば、うちの学校にバードウォッチング部があったような……と僕が考える一方で、エミー先輩は全然別のことを連想していたようだった。高いおもちゃをねだる時の子供のように、おずおずと口を開く。
「あの、ところで……」
「何ですか?」
「ショースケの新しい句は……」
「まだです。というか、さっきの話なら嘘です」
「なっ」
大きな期待はその分だけ大きな驚きに変わり、さらには大きな怒りに変わったようだった。
「何でそんな嘘を!」
「いや、だって、この暑いのに先輩がホトトギス、ホトトギスってうるさいからつい……」
言ってから失言に気づいたがもう遅い。エミー先輩は早口で一気にまくしたててくる。
「Screw you! もうホトトギス探しはいいから、早く俳句を作ってくだサイ! 『鳴かぬなら私が鳴こうホトトギス』!!」
「それは先輩自身のことを詠んだ句でしょう」
実際今日の吟行でも、鳴かないホトトギスの代わりに、エミー先輩は随分たくさん俳句を詠んでいた。
けれど、僕には先輩のような真似はとてもできそうにない。なにしろ、入部してそろそろ一ヶ月が経つのに、今朝ようやく二句目が作れたという体たらくだったからである。
しかも、それだって本来なら今すぐ発表するようなものではなかった。
「……次に俳句を詠むのは秋ですかね」
「えー、そんなにかかるんデスか?」
「別にやる気がないわけじゃないですよ。野球をやめたから、これからは俳句をやろうかなって思ってます。でも、季語に使いたい花が秋の季語みたいなので」
そう説明しても、まだ分からないらしい。エミー先輩はきょとんとした顔をする。
「何て花デス?」
「先輩が前に教えてくれたんじゃないですか。模様が似てることから、杜鵑草って名付けられた花があるって」
「あっ」
エミー先輩ははっとしたように声を上げる。僕がどんな俳句を詠むつもりなのか、先輩ももう大体察しがついたようだ。
しかし、自分自身のことを詠んだ句だから、僕は自分自身の口から先輩に伝えたかった。
鳴かぬなら代わりに咲けよホトトギス
そう言って、僕は笑う。
それを見て、先輩も笑った。
ホトトギスの鳴き声は相変わらず聞こえなかったけれど、それでもよかった。
(了)




