第六章(3/4)
「ごめん。気持ちは嬉しいけど、今はそういうことするつもりになれないから」
僕がそう答えると、相手は悲しそうな寂しそうな表情を浮かべる。
途端に、断ったことに対して罪悪感が湧いてきた。「気持ちは嬉しい」というのが本心だけに、尚更胸が痛む。
しかし、「そういうことするつもりになれない」というのもまた本心だった。
廊下から教室に戻ってくると、才川さんが面白がって声を掛けてきた。
「球技大会以来モテモテだね」
「男子にね」
僕は溜息をついた。
球技大会での登板をきっかけに、僕はたびたび運動部の勧誘を受けるようになっていたのだった。
普段の体育の授業は流していることや、趣味や部活が文化系なことで、運動神経は並より上くらいにしか思われていなかったらしい。それだけに、球技大会での活躍が、周囲には余計に印象的に映ったようである。
さすがにもう数日経つので、勧誘攻勢もだいぶ収まってきていたけれど、種目が種目だっただけに野球部はまだ諦めきれないようだ。よそのクラスの子どころか、二年生三年生まで出張ってきて、今でも代わる代わる入部を頼みにくるのだった。勧誘の時に「うちはチームワークならどこにも負けないから」とアピールするだけのことはある。
僕の返答を聞いて、才川さんは相変わらず面白がるように言った。
「女子からも呼び出されてたじゃないか」
「あれはマネージャーの子だよ」
「でも、女子に君のことを聞かれたよ。彼女はいるのかとか、二人は付き合ってるのかとか」
「へ、へー」
動揺していると思われたくないから、僕は興味のなさそうな態度を取る。
一方、才川さんの態度は冷静そのものだった。
「ちゃんと〝付き合ってはいないけど、今度デートする〟って答えておいたから」
「デート!?」
しまった。思いっきり動揺してしまった。
ただ才川さんが何のことを言っているかはすぐに理解できた。
「ああ、そういえば、打ち上げに行こうかって話をしたっけ」
試合前に、緊張をほぐそうと思って誘ってみた。誘ってみたけれど、才川さんは「うん」「うん」と繰り返すばかりで、ろくに会話にならなかったのだ。
だから、僕はあの時と同じ質問をもう一度する。
「焼肉とラーメンどっちがいい?」
「うーん…… でも、君と出かけたりして、ファンに刺されないだろうか」
「そんな大げさな」
「実際、球技大会の時の写真や動画が出回ってるくらいなんだが……」
そう言って、才川さんはスマホを見せてくる。最終試合で、僕が四番バッターと対戦するシーンの動画らしかった。
「ほら」
「ほらって、そんな話する為にわざわざ保存しなくていいから」
急に鏡を突きつけられたようなものだから、恥ずかしくなってしまう。顔は……まぁいいとして、久々に野球をやったせいかフォームがいまいちぎこちない。もっと腰を使え、腰を。
今更フォームは直せないので、せめてデータを消去しようと、僕はスマホに手を伸ばす。けれど、才川さんはそれをひょいとかわした。
その上、更にからかうようなことまで言ってくる。
「でも、やっぱり君は顔に似合わず負けず嫌いだね」
「え?」
「始まる前はやる気ないようなことを言っておいて、最後は随分熱くなってたじゃないか」
才川さんの主張を裏付けるように、動画の中の僕は三振を奪ってガッツポーズをしていた。それどころか、吠えるように何か叫んでいたくらいだった。熱くなっているのは一目瞭然である。
しかし、何も勝負事だからそうなったわけではなかった。
「いや、才川さん、負けて落ち込んでたみたいだから、せめて総合順位だけでも上げられないかと思って」
考えてもみなかったらしい。才川さんは虚を突かれたような顔をする。
「そうだったのか」
「うん」
「…………」
「…………」
才川さんが照れたように黙るので、僕まで照れくさくなってしまう。こんなことになるなら言わなきゃよかった。
仕方がないから、強引にでも話題を変えることにする。
「そういえば、俳句ありがとう」
僕はそうお礼を言いながら、今朝受け取った手紙を机の上に広げた。
葦原に如かずや考える葦たち
パスカルは「人間は自然界で最も弱い一本の葦に過ぎない。しかし、それは考える葦である」と言った。だが、野生に生い茂る葦原の美しさに、人間社会は遠く及ばないではないか。そんな意味の句のようだ。
「今回のもよかったと思うよ。リズムがちょっと気になるけど」
「そうだね。そこは推敲が必要かもしれない」
また『葦原』という秋の季語を使っているのはいいとしても、音数が定型から大きくズレているのはあまりよくないんじゃないだろうか。もっとも、僕も上手く直す方法を思いつかなかったけれど。
しかし、才川さんが尋ねてきたのは、直す方法どころではなかった。
「それで、そういう君の俳句は?」
「まだちょっとね」
僕は誤魔化すように微苦笑を浮かべるしかなかった。
◇◇◇
「野球をしマショウ!」
放課後、俳句部の部室に入るなり、ボールを手にしたエミー先輩にそう言われた。
「唐突に何言い出すんですか」
「『春風やまりを投げたき草の原』!」
「それはこの前聞きましたけど……」
「『まり投げて見たき広場や春の草』!」
「別の句を聞かせろという意味じゃないです」
先輩のことだから、僕が何も言わなかったとしても、聞かせてきたような気もするけど。
「ていうか、今のも正岡子規の句なんですか?」
「そうデスよ。子規は野球関係の句をいろいろ残してマスからね」
本当に野球が好きだったんだなぁ。などと、僕が思う暇もなく、エミー先輩は話を続けた。
「というわけで、今日の俳句部の活動は野球デス!」
「その理屈はおかしくないですかね」
それとも吟行の一種と考えたらおかしくないんだろうか。今日ばかりは、自分の俳句知識のなさが憎い。
「大体、二人で野球って」
「キャッチボールならできマスよ」
「それはそうですけど……」
どうしてそこまで野球をやりたがるんだろう。エミー先輩は経験者らしいから、球技大会を見て野球熱が再燃したんだろうか。
結局、いつものように僕が押し切られて、今日の部活は野球をすることになった。先輩が借りてきたグラブとボールを使って、グラウンドの隅でキャッチボールを行う。
ボールを投げるのに合わせて、僕は先輩に尋ねた。
「野球って季語になってるんですか?」
「野球自体はなってマセンが、『ナイター』なら夏の季語になってマスね」
「へー。確かに、夏の夜っぽいイメージですもんね」
冷えたビールを片手に……という典型的な観戦スタイルが目に浮かぶ。僕は未成年だからアイスとかみかん氷とかだけど。
「他のスポーツはどうなんですか?」
「スポーツの種類はいろいろありマスが、季語になっているものとなると限られてきマスね。『水泳』や『ヨット』みたいなウォータースポーツが夏の季語に、『スキー』や『スケート』みたいなウィンタースポーツが冬の季語になってるくらいデショウか」
先輩の話を聞いて、僕の頭に疑問符が浮かぶ。
「どうしてスポーツの季語は少ないんですか?」
「季語というのは、そのものだけでなく季節までイメージさせる言葉のことデスからね。ウォータースポーツやウィンタースポーツ以外のスポーツは、あまり季節感がないということデショウ」
この解説に、僕はますます首を捻った。
「そうですかね? 野球にはわりと夏のイメージがあると思いますけど。甲子園だってありますし。駅伝だって、箱根駅伝があるから新年の季語でもよさそうじゃないですか?」
「前にも言いマシタが、特定のきまりがあって季語が選ばれているわけではないデスから。ショースケの言うように、いずれは野球や駅伝が季語になるかもしれマセン。逆に大会がなくなるなどして、季節感も一緒になくなることもありえるデショウけど」
思い返してみれば、季語の基準は曖昧だと、エミー先輩はこれまでにも何度か説明していた。だから、僕はようやく納得する。
「実際、季節感が変化したんじゃないかと言える例がありマスよ。昔は秋の宮中行事だったので『相撲』は秋の季語として伝わっていマスが、今相撲と聞いて秋を連想する人はほとんどいないデショウ。
それに、ショースケは野球を夏のスポーツだと考えているようデスが、正岡子規はどうも野球に春のイメージを抱いていたような節がありマスからね」
「そういえば、さっきの句でも『春風』とか『春の草』とか言ってましたね」
「ハイ。子規は他にも野球に関する句を詠んでいマスが、『若草や子供集まりて毬を打つ』『蒲公英ヤボールコロゲテ通リケリ』『球うける極秘は風の柳かな』など、春の句が多いようデス」
子規の「野球=春」という考え方は、僕にとっては意外――でもなかった。
「まぁ、球春なんて言葉もありますからね」
「そうデスね。暖かくなって野球ができるシーズンが来たことから、子規は野球と春とを結びつけたのかもしれマセン」
ありえそうな話である。僕も先輩の説に頷いていた。
「ところで」
何がきっかけになったんだろうか。エミー先輩は途端に真剣な顔をする。
「もしかして、ショースケは昔、本格的に野球をやってたんじゃないデスか?」




