第三章(3/4)
「というわけで、本日はスペシャルコーチのエルバート先生にお越しいただきました」
僕は先輩のことをそう紹介した。才川さんには俳句部の活動について何度か話していたから、改めてする必要はない気もするけど。
「『俳句でも排球であってもお任せあれ』! エミー・エルバートデス! よろしくデス!」
「才川泪香です。よろしくお願いします」
エミー先輩は明るくかつ馴れ馴れしい態度で、才川さんは冷静かつ緊張の混じった態度で、それぞれ握手を交わす。挨拶だけでもう性格の違いが出ていた。
「では、早速やりマショウか!」
「ちゃんと準備運動しないと怪我しますよ」
早くもボールを手にした先輩を、僕はそうたしなめる。せっかちなのか、体を動かすのが好きなのか。多分、その両方だろう。
対照的に、才川さんは憂鬱そうな表情を浮かべていた。こちらはスポーツが嫌いな上に、静的ストレッチで痛い目を見ることになるのが原因に違いなかった。
動的ストレッチを終えたあと、メニューはその静的ストレッチに入る。
「さぁ、ぐっと行きマスよ、ぐっと」
エミー先輩はそう言って、座った僕の背中を押して前屈させようとする。
それ自体は問題ないのだけれど――
「あ、あの、エミー先輩……」
「何デスか? 痛くなきゃストレッチじゃないデスよ」
「そういうことでは……」
痛くはない。むしろ、柔らかいというのが僕の感想だった。
回らない頭で何度推理し直してみても、やっぱり結論は変わらない。背中にエミー先輩の胸が当たっているようだ。
だというのに、先輩はそれに気づくような素振りをまったく見せない。それどころか、性的……じゃなかった静的ストレッチを嫌がる僕の背中を押そうとして、結果的にぐいぐいとさらに胸を押しつけてくる。
しかし、こちらから胸が当たっていると言い出すのも、なんだか自分だけ性別を意識し過ぎているみたいで僕には気恥ずかしかった。仕方がないので、この件については深く考えないことにする。
「…………」
僕とエミー先輩のやりとりを聞いて、才川さんは何か言いたげに睨んできた。そういえば、前回才川さんに背中を押してもらった時には、こんなことはなかったような…… まぁ、この件についても深く考えない方がいいだろう。
準備運動が終わると、今日も時間をたっぷり使ってサーブの練習を行う。
前回も時間をかけただけあって、才川さんのサーブは上達を見せていた。相手コートを狙うのはまだ無理にしても、空振りの回数がどんどん減ってきていたのだ。元がひど過ぎるとはいえ、随分進歩したものである。
次のメニューは、レシーブとトスの練習だった。エミー先輩→才川さん→僕→エミー先輩……という順番で、まずは基本のオーバーハンドでパスを回していく。
「ルイカは何か好きな俳句はありマスか?」
パスと一緒に、エミー先輩はそんな質問も回した。
「詳しくは知りませんが、『梅一輪いちりんほどの暖かさ』は印象に残ってますね」
「おー、服部嵐雪デスか。なかなか通デスね」
「この句くらいしか分かりませんけどね」
そう謙遜するけれど、『柿くへば~』や『古池や~』しか知らない僕からすれば、才川さんの知識でも詳し過ぎるくらいである。服部嵐雪って誰?
しかし、さすがに先輩はもっと詳しかった。
「他には辞世の句に、『一葉散る咄ひとはちる風の上』というのもありマスよ。これも言葉の繰り返しが効果的に使われていマスね」
「確かに、いい句ですね」
読書家だけに、俳句の良し悪しもある程度は分かるのだろう。お世辞という風でもなく才川さんは頷く。
すると、それを見計らったようにエミー先輩は言った。
「でも、嵐雪の句の良さが分かるなら、他の俳人――小林一茶や村上鬼城みたいなプロはもちろん、私やショースケみたいなアマチュアの句だって楽しめるはずデスよ。ルイカも俳句部に入りマセンか?」
「私は文芸部なので」
そうすげなく断られても、先輩は簡単にはめげない。
「うちは兼部もオッケーデスよ」
「でも、話を聞く限り、俳句を詠むのがメインの部なんでしょう? 小説もそうですが、私は作る方には興味ありませんから」
「えー、面白いのにもったいないこと言いマスね」
そのあとも、エミー先輩は「自分で作るようになると、より深く鑑賞できるようになりマスよ」「今なら無料で歳時記を一冊プレゼントしマスよ」「ショースケだっていマスよ」としつこく食い下がった。もしかして、練習に参加したのは、才川さんを勧誘するのが目的だったんだろうか。ていうか、さっきから僕が頭数に入れられているのは気のせいですよね。
しかし、そう抗議する暇もなく、僕は走り出していた。才川さんのレシーブがとんでもない方向に飛んでいったからである。
才川さんのミスのカバーに入るのは、これが初めてではなかった。というよりも、ほぼ毎回のことだった。さっきから先輩と才川さんだけで話していたのは、カバーに走り回らなくてはいけないせいで、会話に混ざる余裕がなかったからなのだ。
ギリギリのところでボールに追いつけなかった僕を見て、エミー先輩は言った。
「……なんかショースケの特訓みたいになってマスね」
「いや、これでも大分上達したんですよ」
前回の練習では、サーブと同じように、才川さんはしょっちゅうレシーブを空振りしていた。オーバーハンドパスで空振りすると、ほぼ確実に顔面レシーブになってしまうわけで、見ているこっちがハラハラさせられたものである。
「でも、ショースケは運動得意だったんデスね」
「そんな大したものじゃないですけどね」
僕のプレーに対して、エミー先輩は驚くような感心するような口調になっていた。少し照れくさい。
にもかかわらず、先輩はこの話題を続けた。
「ゲーム好きみたいなので、てっきり運動はダメかと思ってマシタ」
「偏見ですよ、それは」
ゲームが趣味のスポーツ選手なんていくらでもいる。名前は忘れたけど、会社まで作ったメジャーリーガーもいたはずである。先輩なら知ってそうなものだけど。
「中学の球技大会でもバレーをやったんですが、その時も天草君は活躍してましたよ」
「ほほう、やりマスね」
才川さんまで僕のことを持ち上げだすので、ますます照れくさくなってしまう。背が低いから、言うほど活躍してなかった気もするけど。
「中学の時は何か部活に入ってマシタか?」
「ええ、陸上部に」
「高校でも続けようと思わなかったデスか?」
「もともとあんまり真面目にやってなかったので」
これは謙遜ではなかった。実際、土日の練習にはほとんど出ていなかったのだ。
「うーん、俳句だからやる気になれないのかと思ってマシタが、そういうわけではないんデスね」
「ええ、まぁ……」
また入部へ話を持っていきそうなエミー先輩に、僕は曖昧にそう答えた。
◇◇◇
寝そべるように体を投げ出した才川さんは、真っ赤な顔で荒い息をする。
「はぁ、はぁ」
「才川さん、大丈夫?」
「はぁ、はぁ」
「うん、大丈夫じゃないね」
限界を迎えたらしい才川さんを見て、僕はそう結論づける。
これも長い入院生活の影響だろう。才川さんは運動神経が悪いだけでなく、体力もまるでなかった。だから、練習中に何度も細かく休憩を取っても、練習後には立ち上がれないくらいヘトヘトになってしまうのだ。
「片付けはやっとくから休んでなよ」
「はぁ、はぁ」
才川さんは相変わらず荒い息遣いをするだけだった。喋るどころか、頷く体力すら残っていないようだ。
才川さんと違って、まだまだ元気いっぱいという様子のエミー先輩(それはそれでおかしいような)と一緒に、僕は借りた屋外用のボールを体育倉庫に返しに行く。
そうして、二人で車輪つきのかごを押している最中のことだった。
「服部嵐雪は、松尾芭蕉の弟子デス。蕉門十哲といって、嵐雪は芭蕉の弟子の中でも優れた十人の内の一人として数えられていマス。
また芭蕉本人も、『草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり』、つまり『私の家には桃と桜の木があって、私の弟子には其角と嵐雪がいる』と言って、宝井其角と並んで嵐雪のことを高く評価していマシタ。この言葉を踏まえて、『両の手に桃と桜や草の餅』という句まで残しているくらいデス」
「いきなり何言い出したんですか」
「私も弟子が欲しいなと思いマシテ」
「入部ならしませんよ」
しかも、其角と嵐雪の二人の弟子って…… やっぱり、才川さんも入部させる気でいるんだろうか。
「ちなみに、松尾芭蕉は元々桃青という俳号を使っていたみたいデス。しかし、植物のバショウを植えたことから、桃青の家である草庵はいつしか弟子たちに芭蕉庵と呼ばれるようになりマシタ。これを受けて、桃青が冗談で芭蕉を名乗るようになったのが、松尾芭蕉という俳号の由来だそうデス」
「へー、そうなんですか」
全然知らなかった。というか、普通なら松尾芭蕉の家だから芭蕉庵ってなりそうだけど。
先輩に上手く乗せられている気もするけれど、僕は好奇心から質問する。
「他に何かありますか?」
「正岡子規という俳号は本名の常規から来ている、という話は昨日しマシタが、子規は弟子たちにも本名をもじった俳号をつけていマス。たとえば、高浜虚子というのは本名の清からとったものデス。
同じように、河東碧梧桐も本名の秉五郎が由来デス。碧は青色、梧桐は植物のアオギリのことで、これは碧梧桐の顔が青白いのを子規がからかったものらしいデスね」
「パワハラじゃないですか」
もっとも、子規だって「鳴いて血を吐くホトトギス」から俳号をつけているわけで、単に自虐的なネーミングが好きなだけかもしれないけど。
だから、「高浜虚子はそのまま虚ろな子って意味でいいんですか?」と僕が尋ねようとした、その瞬間のことだった。
それまで軽々と押していたかごが急に重くなる。
「……先輩?」
「ちょっと、はしゃぎ過ぎたようデス」
かごから手を離したエミー先輩は、その場にしゃがみ込んでいた。いや、地面に手をついているのを見ると、倒れ込んでいたと表現した方が正確だろう。
そして、顔色からはいつもの健康的な明るさが消え失せて、先輩の表情は血の気の引いた生気のないものに変わっていた。
「先輩! 大丈夫ですか!」
「へーきデスよ。少し休めば治りマスから」
言葉とは裏腹に、答える声には力がない。
「保健室へ行きましょう」
僕はすぐにそう決断した。
担架でも必要かと思ったけれど、エミー先輩は「自分で歩けるので、肩だけ貸してくだサイ」と言った。ただ保健室へ行くこと自体には反対しないところを見ると、やはり平気といえるような状態ではなさそうである。
その上、間の悪いことに、ようやく保健室に到着した時、先生は出払っていた。行き先を聞こうにも、部屋には他の生徒すらいない。仕方ないので、とりあえず勝手にベッドを借りて、先輩を休ませることにする。
それから、ベッドのわきに椅子を寄せて座ると、僕は落ち着かない気持ちでひたすら先生を待った。
ただいるだけで、実際の症状よりも怪我や病気が重症に思えてきてしまう。それどころか、罹っていない病気に罹っているとさえ思えてきてしまう…… 不吉なイメージしか湧かないせいで、僕は昔から病院はおろか保健室ですら苦手だった。
ただ、幸いなことに、病院にまで付き添う必要はないようだった。
「いやー、貧血か何かデショウか。ご迷惑をおかけして申し訳ないデス」
少し横になっただけで、体調はすっかりよくなったらしい。上体を起こすと、照れ隠しするように先輩はそうおどけながら謝る。
しかし、僕はまったく笑う気になれなかった。
「あの、間違っていたらすみません」
そう前置きすると、意を決して尋ねる。
「先輩、もしかして、どこか体が悪いんじゃないですか?」




