第91章 那加が俺を奴隷にしたわけ
真知を抱きしめようとした手を下ろしてしまった俺。命令さえあれば勇気を出せるのにと思った瞬間、総ての謎が解けた気がした。
那加は、俺の最大の欠点が心の弱さ、努力や決断が怖くて、一歩を前に踏み出せない心の弱さにあることを見抜いていた。ぶつかってからの短い接触で見抜いたのかもしれないが、もしかすると、那加のことだから、クラスメートの一人として、前から冷静に観察していたのかもしれない。たまたまぶつかって、律儀に貢ぎ物を届けるうちに、那加にとっては、からかいか、憐れみかわからないが、ちょっとこいつをなんとかしてやろうと思ってくれたらしい。あるいは、努力と決断する勇気さえあれば、俺みたいな三流でも、まともな人間になれるということを、証明してみたいという好奇心だったのかもしれない。俺にとって、努力することの最大の障害が、この努力が報われなかったらどうしようという恐怖であることを見抜いた那加は、そのストレスを取り払う方法としては、俺を奴隷という絶対服従関係におくのが一番いいと考えたのだ。
なるほど、絶対服従の奴隷なら、努力も決断も、もともと、嫌々やるものだから、成果が出なくても、それを後悔することはあり得ない。後で「あの時こうしていれば……」なんて思い悩むことはあり得ない。自由意思はないのだから。努力の途中で、やっぱりやめようか、などという迷いに神経をすり減らすこともない。那加は、俺の最大の弱点を的確に見抜いて、それを克服するためには、奴隷になるという形式が一番いいと思ったから、俺に奴隷になれと言ったのだ。
そして、那加は、俺を奴隷にすることを見越して、必要なものをあらかじめ届けさせた。まずは勉強に必要なもの、それから外見をましにするために必要なもの。なぜ、前もって用意させたのかはわからないが、忠誠心を試していたのかもしれない。準備が整ったところで、那加は、眞知の写真を見せ、奴隷の話を持ち出した。
俺を奴隷にすることが結果的には俺のためになるとしても、最初に俺に奴隷契約を結ばせることが那加の計画の最大の難所だったに違いない。奴隷になりなさいと言われて、簡単にうなずくやつはいない。そこで、俺を奴隷にするために、那加は眞知を使った。俺みたいな、女子に全く相手にされないぼっちにとっては、眞知のような超がつく美少女と一度デートするくらいでも、確かに最高のご褒美だ。那加は本当に俺の弱点をよく知っている。ただ、あの時、奴隷になることを承知したのは、那加の言葉が、俺の心の琴線に触れたせいもあったような気がする。俺が魅入られたように奴隷の契約を結んだのは、俺の心のどこかに、今のどうしようもない自分を変えられるような、そんな予感を感じたからかもしれない。
最初の命令は勉強と体力作りだったが、そのうちに酒出が困っているらしいことを聞いて、ソフト部のマネージャーをやらせた。これは、たぶん酒出を援助するのに、ちょうど俺が使いやすかったという部分が大きいのだろうが、それが、俺自身を成長させるにも、いい経験になるだろうということも見越していたに違いない。
そして、その後の友部との対決、無理やりデート。これは、改めて考えると、友部のために、俺を使ったという部分が大きそうだが、俺にとっても悪い話ではないと思ったのだろう。会長にさせたのは、こんな俺でもきちんと努力すれば、生徒会長なんて、一流の人間がやる仕事でもできるということを俺に証明して見せるためだったのかもしれない。多分、眞知に紹介する以上、三流のままでは格好がつかないという思惑もあったかもしれないが。
そう、初めから、すべては那加の読み通り、計算通りだった。那加の奴隷になって、自分でもびっくりするくらい、充実した、夢の中にいるような体験をしてきたが、それはすべて俺の「弱い心」という強敵を攻略するための那加の周到な計算だったのだ。
そう、俺は、奴隷になってから、ずっと、那加の命令を聞くことで、少なくとも見かけの俺を輝かせ、素の俺だったらとてもできないような経験をさせてくれていることを感じていた。那加は俺を奴隷にすることによって、俺に「やればできる」ということを教えてくれているんだと思っていた。もちろん、結果的には、その通りなのだが、よく考えると、話はそう単純ではない。俺にそれを教えるには、まず「やれば」の部分を実現する必要がある。そのためには奴隷という方法しかないと思ったから、眞知まで使って奇想天外ともいえる奴隷契約を持ち出したのだ。
俺は、初めて、すべての謎が解けた気分だった。
命令という言い訳がなかったら、俺は地道に努力することも、その結果、すばらしい成績をとることもできなかったろう。そう、みなみんの彼氏との対決も、生徒会長としてみんなの輪に入ることもできなかったろう。けれども、命令という言い訳さえありさえすれば、俺はそれをすべて実際にやってのけた。「やればできる」の「やれば」という部分を実現するために奴隷契約が必要だった。しかし、「やれば」、俺は実際に「できた」のだ。それは現実だ。そこが重要だったのだ。那加があのとき言った「ジラはその気になれば、もう本物なんだけどな」とはそういう意味だったのだ。俺に必要だったのは、弱い心や、恐怖をわきにおいて、それでも、とにかく「やる」ことだったのだ、そうすればできるんだよ、ということを、何度も何度も、俺に実際に体験させて教えてくれたのだ。
すべては、俺を「本物」にするために那加が用意したステップだったのだ。
ああ、ご主人様、あなたは何て素晴らしい。
俺は天を仰いだ。今日の夜空は晴れあがって、闇の深さが増すと、文字通り光の海のような星空だった。
「ジラは、私の命令のとおりに動いていたように思っているかもしれないけど、実は、自分の意思で動いたのよ」といつか那加が言っていた
思い返すと、那加の命令のうち半分は、自分では明確に意識していなかったが、俺が心のどこかで望んでいたことだったような気もする。勉強をして成績を上げることも、足を鍛えて脚力をつけることも、酒出の役に立つ人間になることも、友部に勝って友部とデートすることも、何もなければ絶対に自分からやろうとは思わなかったろうが、どこかで望んでいた部分があったからこそ、命令という大義名分を得て、目標に向かって頑張れたのだとも思える。
那加……、マスクとメガネの、俺のご主人様……あなたは、もしかして、本当に神様なのですか?
いやいや、と俺は心で首を振る。神様のような那加でも、人間だ。ある意味で誤算だらけだ。
那加の誤算の一つ目は、眞知が俺を気に入ってしまったらしいことだ。眞知とのデートをえさに奴隷契約した以上、いずれは会わせなくてはならない。そのために俺を美化しているうちに、眞知がそれを真に受けて、すてきな人だと思い込んでしまったようなのだ。もちろん、那加の命令で、いろいろなことがあって、表面の活躍だけ見れば、俺は十分に素敵な人に見えることも事実だ。眞知はは、まるで憧れの人に会うように俺に接してくれる。それだけでなく、もちろん、虚像が前提ではあるだろうが、なんとなく眞知は俺と波長が合う部分がある。便秘を解消するという思わぬ効果もあるようだし……結局、あっさり振るどころか、むしろ、告白を待ってくれるようになってしまった。
那加にとっては、計算が違った形かもしれないが、結局、那加は、やさしいご主人様のように、身内と奴隷が結ばれるて、幸せになることを、温かく見守ってくれようとしている。「あなたは本物よ」と俺に自信をつけさせようとし、「眞知はきっと待ってるから。早く告白してあげて」と言う。
もし、それが本当なら、俺は眞知に悪いことをしているのかもしれない。本当に待っているなら、相手がいつまでも告白してくれないのはつらいだろう。俺は眞知につらい思いをさせているのかもしれない。さっき、やっぱり思い切って告白すべきだったのか? だとしても、もう遅い。
那加の、もう一つの、そして最大の誤算は、俺の心の弱さを見誤っていたことだ。「眞知に合わせてあげる。そして、奴隷契約はおしまいよ」と那加が言ったのは、マラソン大会も大大地フェスティバルもなしとげて、学年末テストでも信じられない点数を取った後だった。あの時、もう、俺は本物になった、少なくとも、なれる、と、おそらく、那加は判断したのだろう。ところが、奴隷解放を告げられた途端、俺は猛烈な頭痛に襲われた。そう、たぶん、俺の直感が奴隷でなければ何もやれない、俺の心はそんなに強くない、と叫んだのだ。あの時、那加は、ため息交じりに「これほど心が弱いとはね」とか言っていたような気がする。「でも、そこがいいところでもあるんだけどね」とも。今なら、その言葉の意味がわかる。奴隷として、那加の命令を忠実に実行しているうちに、俺にもやればできるじゃないか、という自信をつけていくだろうというのが、おそらく那加の読みだった。「やればできる」と思うか、「やっても無理だ」と思うかが、俺の弱さのネックだと見抜いた那加は「やればできる」と思い込ませたかったのだ。実際、あれほど「やればできる」体験を積み重ねてきたのだから、そう思い込んでも無理はない。ただし、「やればできる」という自信が一種の思い込みであることも確かだ。ただ、その思い込みは「やっても無駄」という思い込みよりははるかにましだ。やってみなければ、永遠に何も手に入らないのだから。だから那加は「やっても無駄」の塊だった俺に「やればできる」の思い込みを持たせようとした。
秘密の書斎での会話の断片が、頭の中をよぎる。
「自信を持ってよ。あなたがやってきたことは、全部、あなた自身がしてきたことよ」
そういう一方でこんなことも言っていた。
「ジラは偉いよ。あれほど、ちやほやされれば、俺は偉いって勘違いする輩がいっぱいいるのにね」
それはつまり、「やればできる」という思い込みが「自分は偉い」という思い込みにつながりやすいということを言っていたのだ。「思い込み」が「思い上がり」になるかもしれないと那加は考えていた。そのうえで、俺が思い上がるぐらいで、まあ、ちょうどいいと思っていたような気がする。
そう、もし、俺が、うまく思い上がれていたら、さっき俺は眞知を抱きしめていたろう。キスしていたかもしれない。その後も、二人の運命はどうなるかはわからないが、結構、眞知と幸せにやれたかもしれないとも思う。だが、俺は思い上がれなかった。そして、いま、改めて考えても、思い上がりたくはないと思った。それは弱さといえば、弱さだ。だが、那加の言った「ジラは弱いところがいいところでもある」という言葉を信じたかった。那加が、「もう少し奴隷でいる?」と言ってくれたのは、この弱さを持ったまま、「やればできる」という強さを持った人間を目指してもいいよという意味だったのかもしれないとも思う。
星空を見上げて立ち尽くす俺の頬を、風が撫でて行った。俺の家に向かう川沿いの砂利道は通るものもいない。ただ静かな闇だけが風となって俺を包んでいた。
ご主人様が奴隷の俺に出した指示は、俺に自信をつけさせるためだとしたら、すばらしすぎたようだ。自分だったら考えもしないようなことをやらされて、それが、まるで蕾が花開くように、美しく開花していくのをただ見ているだけで、(確かに自分がやったことには違いないが)それを自分でできたという自信にするには、俺の心は弱すぎた。活躍がすばらしすぎて、もし、奴隷でなくなったら、すぐに、俺は、しぼんでしまうとずっと思いこんできた。しかし、それは、結局、「やっても無駄」としか言えない、俺の心の弱さの一つだった。その弱さに勝たなくてはいけない。那加に、何回言われても信じなかったのだが、俺は、「本物になれる」と、きちんと信じて、それに向かって努力しなくてはいけないのだ。
那加は天才すぎて、自分が簡単に見えることが、他の人には難しいということが理解できていない部分はある。
俺が奴隷でいる間は、那加がなにをすればいいか指示してくれるので、どんなことであれ、うまく行こうが行くまいが、命令だからというだけで実行できる。やることなすこと、ほぼ間違いなく、うまくいって満足を得るので、それが那加の指示だからというだけの理由で、リラックスして自信も希望ももてる。
だが、奴隷でなくなったら、指示をもらえなかったら、とてもそうはいかない。まず、右を向いたらいいか左を向いたらいいかさえ、わからなくなるだろう。何かを実行しようとしても、その何かをそもそも思いつかない。何かをやろうとしても、うまくいくかどうかわからない。わからないことだけで、自信を失って、立ち往生してしまうだろう。そして、うまくいかなくて、後悔して落ち込むことも増えるだろう。それが現実だ。
だがその現実に立ち向かうことができる人間にならなくてはならない。うまくできないのは当然だが、右を向けばいいのか左を向けばいいのか、自分の頭で考えるのだ、そうすれば俺にもきっと答えは出せる。何をすればいいのかを何時間でも必死で考えるのだ。考えて、考えて、答えを出すのだ。自信がなくても前に進むのだ。うまくいかないときは素直に後悔して、次の時の自信にするのだ。
たまたまぶつかったことをきっかけに、どういう気まぐれか、やさしい那加は俺の欠点を見抜き、俺をを救おうとしてくれたようだ。今考えると、とても運がよかった。「努力の中には報われるものもあること」「努力すること自体が楽しいこと」も教わった。夢のような経験をしてきたし、今もしていると思う。それなのに俺がいつまでも夢ばかり見ているおバカな奴隷であるだけでいいはずがない。
俺は、星を見つめていた目を閉じた。闇の中で通り過ぎる風の音を聞く。さっきすべり込ませてきた眞知の手の感触がまだ手の中に残っていた。那加は「眞知に告白してほしい」とは言っても、命令として「告白しなさい」とは言わなかった。それは俺に、本物になれという意味なのだ。
そう、俺の心の弱さだけは那加でさえ見誤っていた。那加にとってさえ、手ごわすぎる敵だ。だが、もし、こんな話を那加にしたら、那加はきっと「負けないよ」と言ってくれるのだろう。「勝てそうもないからと言ってしっぽを巻いて逃げるの?」と。そう、逃げてばかりいた俺の代わりに那加が戦ってくれたのだ。俺は、忠実な奴隷として、負けるわけにはいかない。那加が俺をここまでにしてくれたのだ。命令されたからではなく、俺自身の意志として。負けるわけにはいかない。
俺は、もう一度、眼を開いて、星空を見上げると、自転車をまたいだ。光でいっぱいの美しい空に向かって坂を登る。決して届かないきら星たち、昔の俺はあこがれだけで胸をいっぱいにして、手を伸ばすことをしなかった。手を伸ばすことだけは俺にもできることを那加が教えてくれた。それが生きるということだと。
友部が言っていた。
「手を伸ばしても決して届かないこと教えてくれたのね」
美しさと賢さ、素晴らしい肉体、全てを兼ね備えている、俺からしたらきら星のような憧れの存在。そんな彼女でさえ、一人の人間で、届かない望みがある。それでも、憧れに向かって全力で走っている。「届かないことを思い知るために」
夢に向かって走る今の友部は、去年の百倍、美しい。その美しさを引き出したのは、届かない夢に向かって必死になっている俺の姿だったような気がする(もちろん、それは、実際は那加の命令が作り出した虚像だったのだが)。那加に命じられた俺の一生懸命さが、友部を変えたような気がする。それだけでなく、たぶん、同じ俺の姿が、青柳や、酒出の生き方にも影響を与えている。それなのに肝心の俺が、本当はみんなの思っているような生徒会長ではないんです……なんて尻尾を巻いて、逃げ出していいのか、夢に向かって手を伸ばし続けることをやめてどうする? 虚像を保つことは無理でも、夢に向かって手を伸ばし続けることは素の俺でもできるはずではないか。那加がそれを教えてくれたじゃないか。そのことだけは、本当の俺がやるべき那加への恩返しなのだと思った。
今日は心の弱さに負けた。ボス敵はあまりに強大だ。でも、次は負けない……情けない戦いだが……でも、俺はできることを全部やらなくちゃいけない。俺自身の意思として。
家に帰りつくと、道を挟んで立っている青柳家の、さーちゃんの部屋に明りがついているのが見えた。小さい頃は、よく遊びに行っていたものだ。今でも部屋の様子はよく覚えている。いつの間にか、遊びに行かなくなって長い時間が過ぎた。
何をしているのだろう。ずっと仲良くしていて、そして、いつも憧れだった美しい青柳が、その時の俺には戦う同志に思えた。
「大好きだよ、さーちゃん、ずっと大好きだよ、一緒にがんばろう」
俺は心の中で言った。




