第85章 額田河合が俺を追い出す話
額田はヴィーナス先輩のヌードをみんなに見せちゃうと言うのですが……
次の日の朝早く、那加とのミーティングの前に、俺は、完成品を、一目、見ておこうと、文芸部が使用している三階の小講義室に向かった。行ってみると、もう、教室の前に、たくさんの人だかりができていた。無理やりかき分けて教室に入る。
「すげえ」
「すごすぎる」
「でも、美しいわね」
「ほんとにこれチョークで書いたの?」
「黒板アートってやつ?」
「相当、時間、かかってるよね」
「これ、ヴィーナス先輩?」
「え? 違うでしょ。ヴィーナスはヴィーナスでも有名な絵でしょ、これ」
「たしか『ヴィーナスの誕生』っていうんじゃない。ミケランジェロが描いたんだっけ?」
「違うよ。ボッティチェリだよ」
「でも、ヴィーナス先輩にも似てるよね。もともと、あの人、西洋風の顔立ちだし、知らない人が見たら、先輩をモデルに書いたって思うんじゃない?」
「どっちにしても、うまいよね。誰が描いたんだろう? 肌が光ってる感じですごくきれい」
「ほんと、触れられそうにきめ細かな感じ。チョークでこの表現はすごいよ」
「なんか、顔も見ようによっては似てる感じがするし、ヴィーナス先輩のほんとのヌードを見てるような感じだよ」
「あの先輩、顔が美しいのは間違いないけど、ヌードもこんなに美しいのかな」
「いや、さすがにこれは、ボッティチェリの模写でしょう」
「でも、チョークで書いたので、逆に肌の質感がリアルで、本物のヌードみたい」
「つまり、これって、ヴィーナス先輩なりのアピール? オーディションに立候補してるって話だし、宣伝のために、顔をちょっと似せて模写したんじゃないの?」
「たしかに、いい宣伝にはなるよな」
みんなが絵に夢中で、俺の存在に気づかないうちに、俺は、その黒板アートを一枚写メするとみんなの輪を抜けだした。
俺は内心どきどきしながら、那加のところへ急ぐ。模写どころか、あれは本物の小尾先輩のヌードがモデルだということを、俺だけが知っている。といっても、残念ながら、本物のヌードを見たたわけじゃない。教室で小尾先輩が一糸まとわぬ姿になる前に、額田が俺を追い出したのだ。
「ジラの鼻血で教室が汚れたら目も当てられないから、さっさと出てって……絶対にのぞかないで……のぞいたら殺す」と言われた。「もし、誰か来たら、急いで知らせるのよ」と、見張りに立たされた。そうやって、夜遅くまでかけてこっそりと描いたのが、あの黒板アートだ。最初は、俺も、叱られながら背景や、ヴィーナス先輩が立っている貝の部分を描いた。最後に那加が、裸の先輩をモデルに人物を描いた。額田が考えた、先輩の宣伝作戦だ。確かに、奇抜で面白いが、どう考えても額田の個人的趣味が色濃く反映している。だが、俺もヴィーナス先輩のヌードを見てみたいというスケベ心があるのは事実だし、たぶん、誰も露骨に口にしないけれども、女の子を含めて、内心にはそういう気持ちがある人も多いだろうと思う。あの絵が、多くの人の心をひきつけたことは事実だろう。
那加が階段の上で待っている。残念ながら表情は見えないが、何となく、俺を笑っているような気がした。
「見て来たの?」
俺は、ちょっと不満げにうなずく。完成品を、昨夜は、見せてもらえなかった。
「明日、一般大衆と一緒に、朝早く見ればいいでしょ。そしたら、鼻血、出しても平気だから」
額田は、結局、部屋に入れてくれなかったのだ。
「どうだった。ヴィーナス先輩のヌードは? 鼻血、出さなかった?」
「幸い、出しませんでした」
「それは上出来よ。額田さんたら、本当に出してるんですもの」
「まさか」
「まさかよね。でも、本当よ。ま、ジラと違って、本物の先輩のヌードを目の当たりにしたわけだからね」
「那加は出さなかったんですね」
「あはは。必死でこらえたわよ。だって、結局、描いたのは、私だからね。額田さんは先輩の太ももあたりにすりすりしてうっとりしてるんだもの……鼻血、出しながらね……まあ、なまじ、変にじゃまされちゃうよりは、その方がいいけど」
「あの、変な質問ですけど、あの絵ってどれぐらいリアルなんですか」
「うふ、知りたい? ジラのエッチ……こっそりのぞいちゃえばよかったのに……真面目にのぞかなかったの? 私だったらきっとのぞいちゃったよ」
「いや、のぞかないのが礼儀かと思って……」
「まじめすぎるよ。もっといやらしくなりなさい……どのぐらいリアルかっていうと、ものすごくリアルよ……私がじっくり観察して描いたんですもの。本物のボッティチェリと比べれば、全然、違うと思うよ。ヌードって顔とは違って毎日見てるものじゃないから、同じように見えちゃうけどね。
事実、俺は、後になって写メった黒板アートと名画「ヴィーナスの誕生」を比べてみたが、全くと言っていいほど違うものだった。おっぱいの形も、おなかの線も太もものラインもずいぶん違う。これが小尾先輩という美少女の本当のヌードなのかと思うと、その美しさを改めて感じて、俺はどきどきしてしまった。額田が俺を追い出したのは正解だったかもしれない。間近で本物を見たら本当に鼻血を出していたかもしれない。
「正直、美しかったわ。ヌードの美しさは眞知以上かも……よく、眞知とは一緒に風呂に入るんだけど……眞知もプロポーションはきれいよ。胸の形がきれい。でも、ちょっとやせすぎだね、たぶん。ジラはどう思う?」
ご主人様は、時々、こうやって、俺をおもちゃにする。
「眞知のプロポーションはすばらしいと思います」
「おや、見たことがあるみたいね」
「見なくてもわかります」
「うふふ。眞知に言っちゃおうかな」
「那加が言わせたんでしょうが」
「そのうち恋人になったら、見せてもらうといいよ。すてきだから……でも、先輩の裸の方がきっと美しいな。ため息が出るほどよ。彫刻みたい。そのままに描いたつもりだけど、みんながボッティチェリの模写と思うのは無理がないわ。美しいということだけは共通してるからね。顔だけは、そっくりに描いては事件になりかねないので、見ての通り、先輩似のボッティチェリにしてあるけどね。髪の色も茶色にしてウェーブもかけてね、絵と同じぐらいの長さにして。先輩のストレートヘアは奇跡みたいにまっすぐでしなやかだけど、絵みたいに大事なあそこを隠すには少し長さが足りないの。まあ、先輩に見えなくもないけど、ボッティチェリの模写だよ、って言われれば文句が言えないくらいにしたつもり……でも、ヌードは本物、タッチは絵画風にしたけど、リアルだよ。我ながら傑作だと思うよ。正直、人の体って、こんなに美しいものか、って思った。そして、多分、先輩も、十八才の今が、人生で最もきれいな時かもしれない。神様のつくった大傑作に出会えて、私、幸運だったかも。本当に幸せな気分だった。ジラ、盗み見しなかったことを、一生、後悔すると思うよ」
「授業の時は消されちゃうでしょうね」
「せめて、写真撮っておこうかな、とも思ったけどやめた。本物の美しさにはやっぱりかなわないし、あの一瞬は一瞬だけだもの。黒板アートも、一瞬だけ輝いて消えていく花火みたいなものかもしれないと思って」
「ヴィーナス先輩みたいなこと言いますね」
今という瞬間は今しかないのよ、というのがヴィーナス先輩の口癖だ。昨日の夜中も、学校からこっそり抜け出したあと、門の外で、いつものように那加に抱きついた。
「終わっちゃったね。那加、ありがとう」
「先輩のこと、描けて、楽しかったです」
「裸を那加に見詰められるだけでドキドキしちゃった。楽しかった。ああ、ずっとこのままでいたいって思った。那加のチョークが私の肌を描き出すのを見ていると、まるでやさしくなでられているようで、鳥肌立っちゃった。うれしかったけど、すこしずつできあがっていくのを見ていると、やがて、できあがると、この時間も終わってしまうんだと思っちゃって、悲しくなっちゃった。とっても幸せなのに、同じ自分が、終わってしまう時を思って悲しんでいるの。今という時間は今しかないんだなと思って、うれしかったけど悲しかった。……そして、今は、やっぱり本当に終わってしまった。私は、服を着て、今、学校の外にいる。そして、こうやって那加を抱きしめている幸せな時間も終わって、真っ暗な夜道を、とぼとぼと帰るのよ」
「わーん、わっしも悲しいです」と額田が先輩に後ろから抱きついた。「ヴィーナス様は服を着ていない方がいいです。ぷりぷりお尻にすりすりしたいですぅ」
まったくと思いつつも、この二人らしいと思った。この猪突猛進を、俺はいつもうらやましいと思う。俺にはできないことだ。羨望を込めて、俺、こういう生き方の二人を好きかもと思ったものだった。
「ヴィーナス先輩は、ほんとに女神だって、昨日はつくづく思ったよ。その性格を含めてね。あの下品を絵にかいたような額田さんだってすてきだよ。ほんとに鼻血出してるのは笑っちゃったけど、私みたいに、本性は下品なくせにそうでないふりしてるやつよりは、よっぽどすてきだよね」
「これで、ヴィーナス先輩は本当に票が集まるんでしょうか」
「うふふ」
と那加はいたずらっぽく笑う。
「知ってる? 額田さんは、意図的にかどうか知らないけど、先輩が選ばれたら舞台でヌードが見られるって噂を流してるみたいだね」
「まさか」
「意図的だとしたらなかなかの策士だよね。私でも思わず票を入れたくなっちゃうかも」
「でも、それはいくらなんでも無理ですよ。許されるわけないもの」
「ウフフ……そこは、たとえば予定外のハプニングが起きて、服が脱げちゃうとか、事故だということにすれば、先生たちだってあわてるふりはしても喜んじゃうと思うよ……とか言ってるみたいね。起こるかどうかわからないことを期待させるというのも、作戦としてはグッドね。人の心をつかむ壺を知っているわ。まあ、さすが作家の卵というところ?」
「そこまで考えてあの黒板アートですか?」
「意図的かどうかは知らないよ。でも、すぐ消されちゃう黒板アートにして、一瞬だけ先輩のヌードを見せると、惜しかった気分が残るよね。また見たいと思うし、見逃した人は自分の眼で見たいと思うよ。色仕掛けと言えば色仕掛けだけど、でも、まあ、人間なんて気取ってても、内心は下ネタが好きなのよ。これを、すべて、計算したんだとしたら、舌を巻くよね。計算したというよりは、額田さんの直感なんでしょうけど……」
那加は深読みしすぎている、と俺は思うけど、額田の直感力はすごいとも思う。
「まあ、これで先輩の票はぐっと増えたわね。私も、舞台の上でヴィーナス先輩のヌードを見るのを楽しみにしようかな……」
「那加はヴィーナス先輩に入れるつもりじゃないでしょう?」
「わからなくなってきちゃったわよ。正直、あのヌードには悩殺されちゃった。ヌードで競ったら、間違いなく先輩が一番よ」
「他の人のヌードは見たことないでしょう?」
「あ、そうか。ジラだけは見たことあるのよね。青柳さんのヌード」
「見た、って、見たとは思いますけど、もう十年以上前の話ですよ?」
青柳のヌードのことはさすがに俺も覚えていない。が、一緒に風呂に入ったことがあるんだから、確かに俺は見ているはずだ。本当に幼いころのヌードを。
「それはそうと、今日は透子さんが登場するんでしょ?」
「え? 何のことです?」
「何?、ご主人様にとぼけるつもり? 世紀の対決をするって噂になってるよ。何番勝負とかって……ジラ、あなたも面白いこと考えるわね」
「ああ、そのことですか。もう耳に入ってるんですか? 早いですね。相手と交渉して、うまくいけば今日アナウンスして、明日あたりにと思ってるんですけど」
「明日か……フフフ、ジラもやるわね。全校生徒の悲鳴が聞けるわね。きっと」




