第8章 クラスの委員長に立候補する話
現実世界は厳しいと思いながら、俺は那加の命令通り、勉強に取り組んだ。その成果は出るのか? まずは単語テストだ。地味すぎるぞ。ラブコメの主人公のはずじゃなかったのか?
那加に言われたとおり単語テストの勉強を繰り返して,いよいよ本番を迎えたときはなんだかどきどきした。こんなに単語テスト一つのために勉強したことはない。これでまたひどい成績をとったら、那加になんと言われるだろうと思うとよけいどきどきだ。
次の日、テストが返ってきた。結果は二〇点満点の一九点だった。あれほど勉強して満点が取れないかと思うとちょっとがっかりだ。
「まあまあね」
テストが返された次の日の朝、屋上へ続く階段の前の「那加の書斎」で那加はそう言った。奴隷になって一週間が過ぎていた。毎日、細々と命令に従い、夜は言われるままに勉強に取り組んでいた。
「×がついたのも、間違ったわけじゃないからね。単語帳に書いてあった訳をそのまま書けばよかったんだけど、辞書を全部写したから、最初のメインの日本語を書いちゃったのね。単語帳は、受験でよく使われる訳が載ってるからね。先生と交渉すれば満点になるけど、まあ,そこまですることはないわ。本命は、次の定期テストだからね。透子さんに油断しておいてもらった方がいいわ」
「はあ、そんなものですか」
「そうよ。ジラは透子さんを甘く見てるわね。あの人が本気出したら、ジラでも勝てないから……」
本気出さなくても比べものにならないんですけど……と心の中で言う。
「今はあの人、別にテストの一番なんて欲しくないと思うし……それでも、欲しくなくても、普通に勉強していればとれちゃうからね。定期テストも、たぶん、前日しか勉強してないと思うわ。単語テストも毎回満点よ」
「さすがです」
「あら、なんか冷たい言い方ね。あの人、嫌いなの?」
「とんでもないです!」
うっかりしたことは言えない。「あんな美人でスポーツ万能なすてきな人、ただ恐れ多くて……俺なんか、たぶん人間の仲間に入れてもらってないんだろうな、と思って悲しいだけです」
「ジラを人間の仲間に入れてないのは委員長だけじゃないと思うけど……そんなことでめげるなんてジラは相変わらずプライドが高いのね。ジラはたぶん委員長のことわかってないわ。あの完璧な美しさがまぶしくて目がくらむのもわかるけど。委員長って、なかなかすてきな人よ」
わかってないのは那加の方だな、と俺は心の中で言う。委員長は女子や一流グループの前では気をつかうし、美しい笑顔も向けるだろう。だけど、自分が見下している相手には冷たい。二重人格と言って悪ければ、差別主義者だ。差別だけならいいが、いつも一言多いのがしゃくにさわる。こう思っているのは俺だけじゃない。男子の一部は間違いなくそう思っている。
何でもわかったようなことをいう那加でも、委員長の本性は見抜けないんだなと思う。それとも、見下している相手に冷たいことが、人格にとってマイナスだと思っているのは、見下されている当の本人たち、つまり、俺みたいな人間だけなのか?……
「俺もすてきだと思います」と言っておく。嘘をついているわけではまったくない。間違いなくすてきな人だと思っている。強いて欠点をあげれば、すてきすぎることか?
「じゃあ、彼女に少しでも近づけるように、次の定期テストに向けて、ジラの場合、数学を改善するわよ」
「数学ですか」
「数学は成績をあげるのに少し時間がかかるからね。国語もかかるけど、ジラは文芸部らしく国語の成績はいいからね」
俺は、文芸部だ。部員3人の弱小部だが。そしてそれと関係あるかどうかわからないが、国語だけはたいてい張り出される成績上位に入っている。
待てよ。那加は何でそんなことまで知ってるんだ?
那加が委員長の友部のことを冷静に観察しているのにも驚かされたが、友部は何といってもクラスの中心だし目立つから驚きはしない。だが、那加の頭の中には、こんな俺の情報まできちんとインプットされているらしい。恐ろしいご主人様だ。
「数学は幸い、試験対策プリントがもう配布されているわよね。あれ、かなり難しい問題も載っているから、あの中から八割出ると思うわ。教科書の例題も網羅されているし、あれをやっておけば八割、八〇点は取れるわ。あとは教科書の章末問題をやって九〇点、ジラの場合、それで十分よ」
「それで十分って、そんなに取れないですよ」
「とれるわ。だって、同じか、数字が違うだけの問題が出るのよ」
「那加にはもうしわけないけど、俺、数学、苦手なんで」
「私が教えてあげる。今日からの放課後、四時半に、ここへきて。ただし、だれにも見つからないようにするのよ。用心してね」
こうして、俺は、放課後、誰もいないのを見計らって、何回か、那加の書斎に通うことになった。
驚いたことは那加の頭の良さだ。いや、俺の頭が悪すぎるのかもしれない。ともかく、那加に教えてもらうと、ちんぷんかんぷんだった数学が実は簡単だということがだんだん見えてきた。
「まったく。簡単なことを『簡単だ。わかった』なんて勘違いして、復習しないからわからなくなっているだけよ。今日理解したことは、明日も覚えておかなければ、あたりまえだけど、結局、何も勉強しなかったのと同じよ。数学は階段なの。一段ずつ登るのは誰にでもできるけど、一段飛ばしたら苦労するよね。それをジラときたら三段ぐらい飛ばしてるんだもの、わからなくなるはずよ」
そうだと思う。それにしても、那加の解説のわかりやすさは先生以上だとも思う。高校に入って以来、数学がこんなにすんなり頭に入ってくる経験をしたことがない。
那加は、その日の問題が終わると必ず宿題を出した。
「同じ問題の数字違いだけどね。家に帰って解きなさい。同じことをやっているように見えても、数字が違うだけで別物に見えることがある。それが解けて初めてわかったって言えるのよ」
先生みたいだ、と俺は思う。奴隷だから言うことを聞かなくてはならないが、そうでなかったとしても、素直にやろうと思える。それほど俺は那加の教え方に感心していた。
家に帰って、復習をする。那加に言われた問題を解いてみる。スラスラ解ける。数学はスラスラ解けると気持ちがいい。答え合わせをしてみると、違っている。どこかで間違えたらしい。
那加が言っていたことを思い出す。
「計算間違いが一番多いのは最後の最後よ。なぜかというと、『ああできた』と思って油断するからよ。全然できてなんかないの。ジラも私も大馬鹿なの。最後の最後まで、自分が大馬鹿だってことを忘れちゃいけないわよ」
確かに、見直してみると、最後の最後でなんと35引く17を28なんて答えにしている。本当に大馬鹿だ。那加の言うとおりだ。
那加は自分も大馬鹿だと言っていたが、そう言えるだけ賢いということか、と思ったりする。そういえば、那加もテストの上位者の常連だったような気もする。夏休みの前のテストだったし、特に、意識もしていなかったので、よく覚えてはいないが。
目覚まし時計がけたたましく鳴る。これも、俺が那加に買うように言われて届けたプレゼントの一つだ。奴隷になって間もないころ、那加はこれを俺に渡して、命じた。
「今夜から、まず、十一時に目覚ましをかけて、十一時になったら、腕立て伏せを二十回しなさい。毎日よ。眞知を守れる体力をつけるの。今のあなたじゃ、小学生にも勝てなさそうだからね」
その日以来、毎日続けている。最初はきつかったが、すこしずつは慣れてきている。
スマホがなった。びっくりする。那加からだ。
「はい、なんでしょうか」
「大丈夫? ちゃんと腕立て伏せはやってる?」
「今、終わったとこです」
「忠実に約束を守るところは、唯一、あなたのいい所よ」
「はあ……」
「ほめてあげてるんだから、もっと嬉しそうな声を出したら?」
「うれしいです。とても」
と答えておく。他にとりえが一つもないって言われてるのにうれしいわけないんだけど……と内心思う。
「まあ、いいわ。大事なことを忘れていたのに気がついたの。明日、後期のクラス委員の選挙があるでしょう。ジラ、委員長に立候補するのよ。わかった?」
「はあ? そんなこといきなり言われても」
「立候補するだけでいいよ。どうせなれないと思うから……」
「あ、はい」
委員長に立候補するって? 無茶な命令だが、奴隷の身としてはやるしかない。