第76章ヴィーナスがエントリーする話2
生徒会主催の劇のヒロインを決めるオーディションに、ヴィーナスこと小尾先輩がエントリーするという。
「愚か者!」
額田は不意に立ち上がると、小尾先輩のうしろに隠れて言う。背が低いので両手を小尾先輩の腰にまわす形になる。母親に隠れる子どものようだ。
「ヴィーナス様より美しい方が、この世におられるか? ヴィーナス様は人間ではない。女神さまだ。ヴィーナス様こそヒロインにふさわしい。わっしが、お勧めした。だが、お勧めするまでもなく、やる気でいらっしゃったのだ。那加さまも、それはいいことね、と後押ししてくださった。相手役が、ジラなのはいかにも役不足だが、まあ仕方がない」
額田は、俺のことを完全に召使のように扱う。それでいて那加のことは、文芸部に入部した最初から「さま」をつけて天上人のように扱っている。まあ、まったく正しい対応ではあるのだが、まるで犬のように、上下関係を見事に見抜く、額田の勘の鋭さはたいしたものだ。
小尾先輩は、額田のいつもの奇行を微笑みながら見ていたが、俺と友部と後台先輩の視線が二人に注がれているのを見て、微笑みを3人に向けた。友部の顔をじっと見つめて、額田を後ろにくっつけたまま友部の前に立つと、手をとった。
「本当に、絶対美少女ね。笑っても、怒っても、泣いても、美しい」
そして、いきなり両肩に手をまわして抱きしめる。やるんじゃないかと思っていたので、やはり、という感じだ。小尾先輩の得意技だが、初対面でも、相手があまり嫌がらないように見えるのは、先輩の美しさのなせる技だろうか。
「なんて素敵な人なの。あなたは、神様の起こした奇跡だわ。私、あなたのこと、一生、忘れないよ。あなたのこの髪のにおい、やさしい胸のふくらみ、心臓の鼓動、あなたのすべて、この瞬間は、私の中で永遠に消えない」
普通の人が言うと背中がかゆくなるようなセリフだが、小尾先輩が言うと、美しく聞こえるのはなぜだろう。小尾先輩にとっては、まったく、本気で純粋な心情の吐露であることは確かだ。
周りで見ているこちらが焦るほど長い間、たっぷり5分以上は抱きしめていた。小尾先輩は、友部から離れると、もう一度、手を取って、微笑んだ。
「あなたに挑戦するのってすごいことよね。でも、私、あなたに少しでも近づきたいの。だって、あなたって、美しいのですもの。はじめての五月の空のように、若葉を映す、波一つない湖のように、透明な、だけど色のある美しさ。たそがれの山の端の向こうの緑色の空のように、胸を憧れでいっぱいにする美しさ。それを一人の人間が持っているなんて、奇跡のよう。でも、どんなに憧れても、空には決して手が届かないように、あなたをどんなに抱きしめても、あなたには手が届かない。でも、手が届かないとわかっていても、手をさしのべずにはいられないのよ」
小尾先輩は、そう言うと、もう一度、友部を抱きしめて、その肩に顔を埋めた。小尾先輩のすごいところはこういうことを本気で、しかも、何のいやみもなく言えることだ。だが、確かに、あらためて見ると、小尾先輩の言うとおり、友部の美しさは際立っている。妹のところには、その後も何度か、遊びに来ているし、生徒会でもクラスでも一緒なので、何となく見慣れてしまったが、頭の良さや運動神経の良さを含めて、なにをやっても絵になる。特に、最近は、勉強にも力を入れ、生徒会活動にも熱を入れて、生き生きしている。初めて出会ったころは、「絵にかいたような」美少女だったが、このごろは目の輝きが増して魅力が加わった。確かに「絶対美少女」だ。とは言え、さすがの友部も、これほど面と向かって、美しさをたたえられたことはないだろう。まるで情熱的な恋人のような、このヴィーナスからの手放しの賛辞に、どう反応していいか戸惑っているようだった。
「あの、先輩。私、絶対美少女って言ったけど、あれ、別に、本心で言ったわけじゃないんです。ジラ……鯨岡生徒会長に言われたセリフを忠実に言っただけなんです。演出というやつです。本気でそう思っているって思わないでください」
「あなただけが、あなたの美しさを本当には知らないのよね。あなたの眼から見える景色って、どんな風なのかなってすごく興味があるの」
と、小尾先輩は少し体を離すと、友部の両手を取った。
「あなたの美しさって、あなた自身には見えないわよね。あなたのその両目から見えるのは、あなた以外の世界よね。ほかの人は、あなたを見ているだけで幸せになれるけど、あなただけは、その恩恵にはあずかれないのよね。あなたの気持ちって、どんなかな、ってすごく興味があるの」
「あの、先輩。私、そんな美少女じゃないと思います。美少女っていうのは、先輩みたいなひとを言うのだと思います」
「あなたは、自分自身が見えないからそんなことを本気で言うのね。見えるのは、鏡の中の左右反対の自分だけだもの。あなたが、真剣な眼で何かに集中している時の美しさったら、凄絶な透き通った氷のよう。あなたが、誰かに笑いかけた時の美しさは、暖かく降る春の日差しのようだわ。そして、何より、あなたが睨んだ時の美しさは、天に燃える聖なる炎のよう。でも、全部、あなた自身には、その美しさは見えないのよね。でも、あなた以外の人は、みな、知ってる。誰もが、あなたを、絶対美少女だって思っているのよ。間違いなく。ね、ジラ、そうでしょ。だからこそ、あんなセリフ、用意したんでしょ」
「あ、はい、そうですね」
用意したのは那加なのだが、まあ、実際、俺もそう思う。
「ね、友部さん。好きな人とかいるの。恋とかしてる?」
「え? それは……」
「あなたみたいな美少女が恋をしたら、それだけで美しい物語だわね。どんな物語より美しい。私はそれが読んでみたい」
ちらっと俺をふりむく。
「なんか、生徒会長が、副会長に一方的に片思いしてるって言う噂もあるし、逆に、二人はお互いが大嫌いらしいっていう噂もあるし、あとは、実は、もう、二人は相思相愛だなんて噂もあるんだけど、ほんとはどうなの? 恋の相手に、ジラなんか、考えてみたりしないの? どう?」
ヴィーナス先輩は、いろんなことに夢中になる。だから、ときどき、とてもミーハー的になる。
友部は困ったような顔をする。
「ヴィーナス様、ジラなんてダメっす」
と額田が、小尾先輩に後ろからくっつく。
「あれは、ダメ男っす。最近は、生徒会長なんてやって、いい気になってるけど、中身は、相変わらずだらしない優柔不断野郎っす。知ってるでしょ」
額田はまったく俺のことをよく見抜いている。
「この学校の男には、ろくなのがいないっす。それより、わっしは、ヴィーナス様が、凍れる炎の天使の恋人になるといい、と思うっす。天使と女神がキスをするところが見てみたいっす」
「えーと、美香、ちょっと、話がそれているようなんだけど……」と、後台先輩が、口をはさんだ。「ここへは、オーディションの申し込みに来たのよね。じゃあ、この用紙に記入してもらえる? サポーターの人もお願い」




