第7章 絶対美少女・友部透子
奴隷になったおれにご主人様が出した命令は「テストで一位になれ」というものだった。そんな……ガリ勉するラブコメの主人公なんて聞いたことないぞ。
教室に入ると、俺は、早速、黒板拭きをきれいにして、黒板をきれいにふく。これも那加の命令だ。さらに、本棚を整理し、落ちているごみを拾う。まあ、奴隷生活とはこんなものだろう。
実は、こうしたことはあまり苦痛ではない。というのも、俺は友だちが少なくて、暇なことが多いので、ふだんから時々やっていたからだ。日直が消し忘れた黒板を拭くのもしょっちゅうやっていた。那加の命令はそれをもっと徹底しろということにすぎない。
ということは、俺って、もしかして根っからの奴隷体質なのか、とふと考えてどきっとする。
黒板拭きクリーナーのスイッチを入れると、いきなりチョークの粉がモクモクと噴出したのでびっくりした。ときどき、機嫌が悪いとこうなる。あわててスイッチを切ったが、うしろで厳しい声がした。
「ちょっとやめてよ。何考えてるの」
しまった。委員長だ。よりによって、ちょうど通りかかった時、スイッチを入れて粉がかかってしまったらしい。
「いいことしてるつもりなのかもしれないけど、自己満足したいなら、人の迷惑にならないようにしてくれない?」
「あ、はい、すみません」
俺は委員長の顔をちらっと見ると頭を下げた。委員長の友部透子は服についた粉を払いながら、なおもきつい調子で俺を責める。
「服が汚れちゃうじゃない。周りをよく見て、ベランダでやるとか工夫しなさいよ」
美少女ということになっている。たぶんそのとおりなんだろう。芸術的に整った顔は、典型的な美人顔だ。美少女コンテストで優勝しそうなタイプの美人、と言ったらいいかな。まつげが長く、鋭いといってもいいきりっとした眼をしている。肌のなめらかさと白さはたとえようもないほど魅力的だ。ちょっととがった鼻と少し小さめの形のいい唇は実に調和がとれている。体の線もきれいだ。形のいい胸のふくらみといい、すらりと長い足といい、なんて完璧な美少女なんだろう、と多くの人は思っているに違いない。
だが、いくら完璧な美形でも、怒ったような顔ばかり見せられたら、俺にとっては美少女ではない。この委員長は、とんでもない二重人格者なのだ。俺みたいな弱い三流の人間には、ものすごく手厳しい。女子や、一部の一流男子、そして先生の前では笑顔で、気を使って美少女としてふるまうのを俺は知っている。笑顔で話している姿の美しさは、まるでそこだけスポットライトが当たったようだ。それは俺も認める。
しかし、彼女は、俺や一部の男子に対しては、手の平を返したように妙に厳しい。ちょっとでも気に入らないことをすると、たとえば、教室の机がちょっと曲がっていて通りにくいくらいのことでも、手厳しく批判する。それも、決まって一言多い。美人でかわいがられているのを知っているから、俺たちに対する差別に余計に腹が立つ。
もっと腹が立つのは,何か反論したいと思っても,その完璧な美しさの前に萎縮して何も言えない自分がいるということだ。
今回だって、たまたま機械の調子が悪いときに通りかかっただけなのだ。それなのに謝ることしか出来ない自分がいる。三流や四流男子の人生ってこんなものかとあきらめるしかない。
「大丈夫? 透子さん」
と、後ろから那加が声をかけた。ハンカチを持ってくると、透子の肩とか背中を拭いている。
「間抜けな人がいて困るわよね」
拭きながら言う。
「ここらへん、粉だらけだから向こうで拭きましょう」
それから、俺を振り向く。
「延長コードでも持ってきて黒板ふきクリーナーをベランダに出したら?」
那加は透子を連れて行ってしまった。
結局は、俺が悪いということらしいが、それでも、あれは、とにかく俺を助けてくれたつもりなのか?
よくわからなかったが、とにかく、後半は俺への命令なのだろう。家にいらない延長コードがあったかな。明日持ってくるしかない。機械はあきらめてベランダで黒板拭きをたたく。
振り返ると、窓越しに友部と那加と数人が談笑しているのが眼に入る。笑顔でいる友部の美しさになんとも複雑な気分になる。
「パンに粉がかかるからやめてくれよ」
と、少し離れた場所で朝食(?)を食べていた中原が寄ってきた。
「鯨岡君、委員長にちょっかい出したって無駄だよ。あいつは、俺たちなんかは相手にしてないから。知ってるかい。なんだか、名家のお嬢様らしいよ」
「聞いたことあるよ」
「小学校の頃からかわいいし、頭、いいし、運動神経はいいし、目立ってたよ」
「同級生だったのか」
「田舎の小さい学校でね。まあ、その分、男の子にいろいろちょっかい出されたわけさ。いたろ、小学校の頃、わけのわかんないやつがさ。でも、男子相手にも平気でけんかして、絶対負けなかったもんな」
「中学も一緒なの?」
「田舎だからね。いじめようなんて女子もいたみたいだけど、逆にいじめようとした方がいじめられるというかひどい目にあったらしくて……全く情け容赦もないらしいよ。噂だけどね。何しろ頭がいい上に、気も強いから……先生も、あんな頭のいい子にはあったことがないって言ってた。きっと、東大に行けるって。水都一高に行くんだと思ってたけど、まさか、大大地校なんかに来るとは思わなかった」
そうなのか。端から見ると、俺は美少女にちょっかい出したクズというわけなのか。まあ、美少女どころか、みんなの視野にも入ってないマスク女の奴隷ですけど。まあ、今更、友部に嫌われても、今に始まったことじゃないし……厳しいお言葉も、いつものことだし……
仕事を終えて、机に座ると、俺は、辞書を取り出してノートに写し始める。
これも、昨日いきなり言われた那加の命令だ。那加は、まず、何問か単語をあげて意味を知っているかと聞いた。俺があまり答えられないのを見るとこういった。
「まず、あなたの英語力を改善するわ。英語は単語なの。単語がわからなくちゃ何も始まらないでしょ。そんな単語力じゃ話にならない。いい? 一年生の今のうちに三年間使う単語を全部覚えるつもりでいて。今、憶えれば、三年間使いこなせるのよ。三年後に覚えるなら、三年間苦しむのよ。憶える作業は同じなんだから、今、憶えるの。わかった?」
「そりゃそうですけど、でも、それを言うならどの教科でも同じじゃないんですか?」
「私の奴隷は、ほんと、間抜けな口答えをするのね。教えてあげる。学問は積み重ねのものが多いの。数学だったら因数分解ができるようにならなければ、二次方程式は解けないでしょ。英文法や古文もそう。だけど、英単語だけは、積み重ねなんてなくて、ただ覚えるだけなの。だから、早く始めれば早く始めるほどいいってわけ、わかった?」
「わかりました」
確かに言われてみればそうだが、そんな簡単に憶えられないよと内心は思った。思ったが俺は奴隷なので黙って頷くしかない。
「まずは次の単語テストの満点を狙うわよ。三六ページから四〇までだから、単語数はたったの一〇〇、それをすべて辞書で引いて、辞書に書いてあったことをすべてノートに書き写しなさい」
「すべて?」
「全部よ。辞書に書いてあることを全部覚えるつもりで……ほら、この辞書を使いなさい」
那加は分厚い英語の辞書を指し出した。
「この辞書はあなたにあげるわ。説明が的確だし、『語源』なんかも書いてあって、とても優秀なの。特に、語源は大切だから、それも書くの」
俺は辞書を受け取る。と、ちょっと待てよ。これって、俺が奴隷になる前に、プレゼントするように言われて買ってきたやつじゃないか。まさか、那加のやつ、この日が来るのを見越して買わせておいたとか言うんじゃないだろうな。
辞書を開いてみる。やたら分厚くて単語の説明も詳しい。写すったってこれじゃ一苦労だ。まさか、俺に苦労させるためにこの辞書を選んでおいたなんてことはないんだろうな。
「単語帳で覚えちゃいけないんですか」
「だめよ。受験生ならそれもいい。受験生なら、学習内容は、もう一通り終わって、勉強することがいっぱいあるからね。単語ばかりってわけにはいかないし、そもそもすでに覚えた単語を復習するんだから、単語帳は便利よ。だけど、一年生は単語以外は授業の予習復習ぐらいしかすることがないでしょ。単語を覚えるくらいしかすることがないのよ。だったら、単語のすべての意味を理解しておく方がいいの。いい? 単語というのは前後の関係でいろいろな意味を持つの。だから、その意味を本当の意味で理解するの。日本語に置き換えるのでなくて、具体的なものにするのよ。アップルと言ったらリンゴと置き換えるのでなくて、あの赤くておいしい果物と結びつけるの。そのためには、辞書をまる写しするのが一番。単語を女の子だと思って。その子のすべてを知るのよ。女の子を裸にすると想像したら、それだけで楽しいと思うけど、どう?」
俺、そこまで想像力たくましくないんだけど……と思ったが、何も言わなかった。しかたなく、昨日から始めたのはいいが、昨夜は、ほとんど徹夜しても終わらなかった。明日の単語テストまでに終わらせるとすると、今日の休み時間も、放課後も、空いている時間を見つけては、筆写を続けなければならない。
昨夜あまり寝ていないので、書いているだけで眠くなってきた。朝も自転車で坂を登って、いつもの倍ぐらい疲れた。つ……つらい。
自慢ではない(ってあたりまえだ)が、ゲームをやりすぎて夜更かしすることはあっても、勉強で徹夜をすることなんかまずない。それが、昨夜はゲームもやらずに単語の勉強だ。俺は、心底つらかった。
「好きな人のために必死になるのが青春でしょ」
と那加が言っていた。だが、こんな地味な勉強に努力するラノベなんてないぞ、まるで絵にならないじゃないか。マンガなら勉強はしても、一コマだ。すぐ終わる。リアルでは、勉強は、時間ばかりかかって楽しいことは何もない。俺は、結局、那加に踊らされているだけのような気がする。
チャイムが鳴ると、俺は辞書をしまって、教科書を出した。那加は授業の受け方まで命令する。時間中は内職は許さないのだという。その教科だけをやれという。先生が遅ければチャンスだと思って、前回の授業の復習をしろと言われている。
どう考えても地味すぎる。地道に勉強するなんて、どう考えても、さえないモブキャラの特性だ。
先生がやってきた。数学の授業だ。あまり無駄話もしないで、教科書を淡々と解説するだけの授業なので、どうしても眠くなる。まして、昨夜ろくに寝ていないのだからなおさらだ。思わず、うつらうつらする
那加から紙が回ってきた。
「トイレに行くふりをして、顔を洗ってきて。洗顔フォームでね」
と書いてある。俺は立ち上がると、先生のところに行く。
「すみません。ちょっとトイレに行ってきます」
「あ、ああ。わかった」
トイレのドアを開ける。那加は、俺が眠そうにしているのに気づいたらしい。これも、ご主人様の助けってわけか?
まあ、那加に言われなければ、絶対に、俺はトイレに顔を洗いには来なかったろうが……授業中にトイレに行くというのは、いくら俺でも気が引ける。それに、初めてだからいいが、あまりしょっちゅうだと先生たちにさぼりだと疑われる心配もある。
まあ、いい。俺はトイレの水道に行くとポケットから洗顔フォームを出して顔を洗う。びっくりしたことに、この洗顔フォームも、以前に、那加に言われて買ってきて、那加にプレゼントしたものだ。昨日、那加に渡されて、今日から持ち歩いている。那加は、最初から俺を奴隷にするつもりで買わせたのか、と俺は思わざるをえなかった。
ニキビを治せというのが、那加の命令だ。眞知に会うのだから、最低限、清潔感が欲しいのだとか。
言っておくが、俺は、制服こそ毎日一緒だが、他は毎日替えているし、風呂も毎日、きちんと入って頭も洗っている。母親にうるさく言われているせいだが、おかげで、少なくとも、不潔ではないと思っている。だが、那加の言うとおりニキビがあるのも事実だ。那加は、にきびがあるのは不潔な証拠なのだという。
「毎日洗うだけじゃダメ。徹底的に洗って、徹底的に石鹸を落とすの。学校でもチャンスがあれば洗いなさい」という命令である。1,2,3……と数える。二〇回すすぐようにと言われている。
顔を洗い終わって、ハンカチで手を拭いて、トイレを出ようとして、俺は思わずため息をつく。自分がみじめになった。
何で、こんなことしてるんだ、俺は……と思った。俺が、どんなに顔を洗ったって、クラスのイケメンたちにかなうわけないじゃないか。眞知とデートなんてほんとうにできるのか?
デートできたって、眞知に心の中でうんざりされるだけだろう。俺は、ただ那加にからかわれてるだけじゃないか。
それでも、俺は、扉を開けて教室へ向かった。
「あなたみたいな最低ランクの人間は命を差し出すぐらいしか捧げられるものはないでしょう」と那加が言ったのが、心のどこかにまだひっかかっていた。
「どうせろくなことしてないんだから」と那加は言った。そうかもしれない。ただ、いじいじと毎日を送るより、この奴隷生活は、命をかけるものが見つかっただけましなのかもしれないという気もする。たとえ、報われるものがなくても。
とにかく、まだ奴隷になって初日なんだから、と自分に言い聞かせる。