第3章 秘密の書斎に貢ぎ物をする話
通学途中マスクの女の子ー那加ーにけがをさせてしまった俺が那加の行方を捜して立ち入り禁止の階段を上ると……
「よくここがわかったわね」
不意に声をかけられて、俺は飛び上がった。
振り返ると那加がそこに立っていた。
いったいどうやってどこから現れたのだろう、と俺は思った。確かにさっきまではいなかったはずだが……
「どこまでしつこいの? あなたみたいな卑怯な人には用がないんだけど……」
「卑怯って……」
「わざと私にぶつかったでしょう」
「わざとじゃないよ。俺が間抜けなのは認めるけど、絶対にわざとじゃないよ」
わざとぶつかるなら、もっと別の女の子を選ぶよ、と思ったが、さすがにそれは言わない。
「まったく、あなたも、いくら女の子に相手にされないからって、何で、よりによって私を選ぶわけ? 私みたいなマスク女子なら相手にしてくれると思ったわけなの?」
「だからさ、それは、誤解です。ぶつかったのは、俺の不注意ですけど、まったくの偶然なんですから……とにかくぶつかったことは謝ります。助け起こそうとしたことも、考えなしだったら謝ります。とにかく、わざとではないのでそこだけは誤解しないでください」
「どこまでもしらを切るのね。卑怯だわ」
「そう言われても」
「いいわ、だったら、とにかく、事故の補償をしてよ。あなたは加害者なんだから」
「そ、そうですね。ええと、自転車保険には入ってるんですけど、たぶん」
「そこまで堅苦しくなくていいわ。けがもたいしたことはないし……私が、毎日楽しく過ごせるように努力してくれればいいわ」
「え? つまり、何をすれば」
「あなたが教室からいなくなるとせいせいするかなとも思うけど、そうもいかないでしょうから……まあ、けがが治るまで、私の好きなものを毎日プレゼントしてくれればいいわ」
「は、はい。わかりました」
という以外に、俺は言葉が見つからなかった。俺の不注意でぶつかったことは間違いないし、高額な補償を要求されても、正直困る。自転車保険を使うなんて面倒な手続きをして親にしかられるより簡単にすみそうだ
「どんなものをプレゼントすればいいんですか?」
「そうね、まずはケーキでいいわ。この町で一番おいしいケーキを二個買ってきて」
ケーキなんだ。この変わった子もケーキが好きなんてやっぱり女の子だな、と俺は思う。
「明日買ってきたら、教室に持ってくるんじゃなくて、朝のうちにここに置いておいてね。そして、そのあとはここには近寄らないこと。ここは私の書斎なんだから」
「は、書斎ですか」
「そうよ。ここは私の場所よ。階段の下に、『生徒、立ち入り禁止』って書いてあったでしょう」
「あれって、中井さんが書いたんですか?」
「そうよ。あれだけきちんと書いてあれば、先生たちもほかの先生が誰か立てたんだろうって疑わないでしょ」
確かにそうだ、パネルにきちんと印刷してあって鎖まで張ってある。
「私が作らなくても、もともと、生徒は入らないことになっていたんだから、問題はないのよ」
俺は首をすくめる。
「とにかく、言われたとおりにするんで、許して下さい」
「わかったら、さっさと行って。ここは私の場所なんだから」
那加は、腰に手をあてて、強い調子で言った。俺は黙って引き下がるしかなかった。
「何で、こうなってしまうんだ」
次の日の朝、ケーキを手に持って、階段をのぼりながら俺は考える。
かわいい子とぶつかった主人公は、手当などして仲良くなるんじゃなかったのか。現実は事故の補償を要求され、ケーキでいいからと言われて喜んでいるのだから情けない。
だいたい、女の子は不公平すぎる。イケメンが相手ならぶつかっても喜ぶくせに、俺が相手だと途端にセクハラまがいの扱いだ。そして、それは、たぶん、これは中井那加に限ったことじゃない。青柳みたいなかわいい子ならともかく、かわいいとは誰も言わないような性格の悪い子までが、何様のつもりか俺みたいなやつを差別する。だから、性格が悪いんだが……
階段を上ると誰もいない。
机の上に紙が置いてあって、明日はグルールという店のクッキーを買ってこいと書いてあった。俺はケーキを机に置くと、その紙を写メして階段を降りた。
その日から、俺はしばらく、毎日、貢ぎ物を「書斎」に届け続けた。
最初の数日こそ、ケーキやクッキーだったが、だんだん、いろいろと違うものを注文されるようになった。洗顔フォームや英語の辞書や、漫画なんてこともあった。本なんかは簡単でなく何軒も回ったりして、毎日、学校の帰りに調達するのはそれなりに大変だった。
三週間が過ぎる頃には、さすがに俺も「これをいつまで続けるんだ」と思わないわけにはいかなかった。出費も馬鹿にならなかった。幸い、小学生の頃からお年玉を貯金する癖がついていたので、困るほどではなかったが、あと一月も続いたら困るかもしれなかった。こんなにいつまでも続くんだったら、どうにかしないとなと思い始めていた。
三週間を過ぎる頃、いつものように、朝、階段を上っていくと珍しく那加がいた。
「おはよう、ジラ」
いきなりそう呼びかけられて、俺はびっくりした。
「ジラって俺のことですか」
「そうよ。鯨岡だから,ジラ。かわいくない?」
「かわいいかって、聞かれても……」
「これから、あなたのことをそう呼ぶことにするわ。いやなの」
「いや、まあ、別にかまわないですけど」
「私のことは、「那加」って名前で呼んでいいわ。あなた、友だちいないから、それぐらいでもうれしいでしょ」
「いや、あの……」
悔しいが、親しい友だちとそんな風に呼び合うことに、一種のあこがれがあったことは事実だ。俺にだって話せる友だちがいないわけじゃないが、なんとなく、彼らの輪の外にいて話している感じがぬぐえない俺だった。気のおけない、あだ名で呼び合うような友だちを高校に入って以来、作れていなかった。
だからといって、那加と形式的にあだ名で呼び合ってうれしいのかというと、かなり疑問符がつく。しかし、断る理由も特には見当たらなかった。那加が、少しでも親しくしてくれれば、この貢ぎ物も終わるかもしれないという期待もあった。
「うれしいです。ほんとに『那加』って呼んでもいいんですか」
「いいわよ。ただし、この書斎だけね。教室では、今まで通り、話しかけないこと、いいわね」
「わかりました」
「さて、これからのプレゼントなんだけど……でも、その話の前に、いいものを見せてあげる。ジラには目の毒かもしれないけど」
那加は、スマホを取り出すと、「これがいいかな」と言って、画面をこちらに向けた。写っていたのは女の子だった。俺の運命を大きく変えることになる女の子だった。
「どう? ジラなら気に入ると思うけど」
俺は、始め声も出なかった。そこに写っていた子は、言葉では言い表せないほどかわいかったから。
俺は、最初、合成かイラストかと疑った。しかし、輪郭や髪の毛や細部をどう見ても本物の写真だった。世の中にアイドルはたくさんいる。美少女と呼ばれる人の写真もたくさん見た。けれども、そこに写っていた少女の写真は衝撃的に美しかった。
ストレートのロングヘア、すんなりした丸みをおびた頬、少し濃いめのきりりとした眉、まっすぐにこちらを見つめる柔らかさと強さをもった黒い瞳、形のいい少し高い鼻、そしてピュアな潤いに満ちた唇、化粧っ気のまったくない純粋な美しさに俺は写真から目が離せなかった。
「おやおや、予想以上に気に入ったみたいね。気に入るとは思っていたけど……」
「これ、誰ですか?」