第229章 キスをしたがるジュリエット
酒出とバルコニーの場面を練習している俺。ずっと酒出こ恋してきた自分を思い返し、好きだと言えることがうれしかった。
ジュリエットが帰ってきた。俺の両手を、両手でつかんで少しまぶしそうに俺を見上げる。
「ああ、いとしいロミオ、私はもう行かなくてはなりません。もし、あなたの愛が真実なら、私と結婚したいとおっしゃるなら、いつ、どこで式をなさるおつもりか、明日使いをやりますから、お言付けをお願いします。もし、あなたが私を本当の恋人として選んでくださるなら、一生をともにしたいと望んでくださるなら……」
酒出は言葉を切って俺を見つめた。その透き通った泉のような清純な美しさに心を打たれる。そのまっすぐな目は、まるで「この言葉はセリフだけど、私の本当の気持ちよ」と言っているように思えた。酒出は一つ一つ確かめるように言った。
「私は、この身のすべてをあなたに捧げ、あなただけを愛して生きていきます」
俺は思わず両手で、酒出のむき出しの二の腕をつかんでいた。
「俺は(と言ってしまってからあわてた)、い、いや、私は、一生あなたを愛します」
一瞬、酒出が笑った。
「ジュリエット様」と乳母が呼ぶ。酒出は振り向く。
「今、行きます。では、また、会えるときまで、あなたに幸いがありますよう……」
酒出は姿を消した。俺はベランダに残されて、立ち尽くす。
「何という幸せ。あなたと出会い、あなたを抱きしめ、結婚を約束した」
俺はベランダから降りて少し離れると天を仰いだ。
「でも、こうして一人になれば、まるで、心にぽっかり穴の開いたよう。今起きたことは、すべて夢ではないのかとさえ思えてくる。心にあるのは、まるで、悲しみ」
小尾先輩はまるで俺のためにセリフを書いてくれたみたいだ、ともう一度、思う。そう、友部の時と同じ。酒出が知っている俺は、ジラとしての俺にすぎない。さっきの告白に、酒出の真心が入っているとしても、俺の愛の告白を酒出がうれしく思ったとしても、俺がジラになれない限り、俺の思いは、結局は届かない。那加の作ったこの舞台の上だけの夢だ。
酒出の気持ちがうれしいのと同じだけ、悲しみが胸を刺した。
ジュリエットが、もう一度ベランダに姿を現す。ベランダから身を乗り出すと小さな声で呼びかける。
「ロミオ様、もうお帰りになったの? ロミオ様……。あなたの愛の言葉がまだ耳に残っている。一晩中でもあなたの名前を呼んでいたい」
俺はベランダに近付く。
「俺の名を呼んでいるのは、あの深い澄んだ湖のような美しい声、ジュリエットではないか
?……ジュリエット、私はここにいます」
「ああ、ロミオ様。いらっしゃったのね。使いは何時に行かせましょう?」
「9時にしてください」
「9時なのね。わかりました。まるで、遠い遠い未来のよう。でも……」
うつむく。
「あなたに、まだまだ言いたいことがあるような気がする……でも、何も思い出せない」
「思い出すまで、私はここにいます」
「じゃ、思い出さないわ。いつまでもあなたにいて欲しいから」
「私も、ここにいつまでも立っています。あなたのそばにいる幸せをかみしめながら」
「ああ、いいえ。もう朝だわ。やっぱりお帰りになって……いや、待って」
酒出は少し考えた。
「まだ、遠くへは行かないで。あなたを遠くにいかせるのはいや、もう少し、あなたのそばにいさせて……」
酒出は、ベランダに手をついて、じっと俺を見つめた。それからセリフを続けた。
「私はもうあなたに鎖につながれた哀れな小鳥よ。いつまでもこのままがいい。でも、やっぱり、もう、行って。夜明けは近い。この別れは、明日への希望。悲しむことはない。あなたの愛の言葉を胸に抱いて夜明けを待ちましょう。さようなら! お休みなさい」
酒出は姿を消す。
「ああ、俺の愛が安らぎとなって、あなたの胸の中に眠れたら、どんなに幸せだろう」
俺は目を閉じて、宙を仰いだ。酒出の恋が、本物の俺に対するものであったら、どんなにかうれしいだろう、と思いつつ。
「さあ、急いで神父のところへ行かなくては。式を明日にでも挙げられるように」
俺は舞台袖に引っ込んだ。
「はい、お疲れ」
後台先輩が、登場する。
「二人とも言うことなし。練習の必要ないくらいだわね。というより、あんまり気持ちが入りすぎて心配なぐらいよ。ジラ、『俺』って言っちゃだめだよ。冷静にね」
「あ、はい」
「しかたないか……みなみん、かわいいもんね」
後台先輩は、隣にいた酒出を振り返ってじっと見つめたと思うと、ふいに両肩に手を回して、そっと抱きしめた。
「こんなセクシー衣装を着ちゃって……ほんと、なんて、かわいいの。かわいすぎるよ」
酒出は少し戸惑っている。後台先輩は抱きしめたまま軽く背中をたたいた。
「恋するジュリエット、本番まで、頑張ろうね」
「あ、はい」
「だめだめ、聞くなよ、そんなこと」
ふいに、神立先生の大きな声が聞こえた。
振り向くと、小尾先輩が、神立先生と野上先生と話している。
「でも、この前、ジラと約束したんですよ。バルコニーの場面ではディープキスしていいって」
え? そうだっけ?
「二人が初めて出会うシーンでディープキスは早すぎるからって、今日に延ばしたんです。私、今日まで待ったんですよ」
「そう言われたって、高校生の劇だぞ。キスだって問題なのに、ディープキスはないだろう」
「美香さん、そもそも事情が変わったんだから」
と、野上先生も口を出す。
「我慢して……劇を成功させるためなんだから」
小尾先輩は二人の先生を交互に見る。
「私がジュリエットだったら、バルコニーで、絶対、ディープキスすると思います」
「まあまあ……しかし、小尾は大胆だな。そこまで、ディープキスにこだわる理由は何なんだ?」
「私の体が求めるからです。先生もディープキスをしたことあるでしょう?」
「ちょ、ちょっと、待てよ、そんなこと聞くなよ」
さすがの神立先生も少し慌て気味だ。
「俺が、うっかりそんな話をしたら、セクハラなんて言われかねんぞ」
「大人の人はみんなやってるのに、何で高校生には目くじら立てるんです? ね、野上先生、ディープキスしたことありますよね」
「あのね、美香さん、性の問題って難しいよね。下手をすると命に関わる。そうでしょ。だから、まだ考えが未熟な高校生には、ある程度制限をかけておかないとね。美香さんならわかるでしょ?」
「先生、それって、ディープキスを劇でやってはいけない理由にはなりませんよ」
「逆に言えば、何もここでやらなくちゃ行けない理由もないだろう? 恋人を作って、個人的にキスしたらいいだろう。小尾ぐらいの美人だったら、恋人なんか選び放題だろう?」
「神立先生、私はだれかとディープキスがしたいわけじゃないんです。ジラとディープキスがしたいんです」
神立先生は肩をすくめた。
「ジラか……やれやれ、女の子は、みんなジラに夢中なんだな……まったく……だったら、ここでやるんではなく、ジラと個人的に練習したらどうだ? やさしいジラはいやだとは言わないよ。むしろ、喜んでやってくれるよ。好きなだけ何度でも、練習したらいい。」
俺が見ているのに気がついて、先生は、俺に呼びかけた。「な、ジラ。そんな練習なら大歓迎だよな」
「あ、はあ、はい」
手招きされて近付く。
「何だよ。もっと喜べよ。恥ずかしがってるのか? まあ、まだ高校生だし、まだキスは下手かも知れないが、小尾が先輩として何度でも練習してやって、うまくしてやったらいいだろう」
ちょっと……先生、それって相当に大胆な発言のような気がするんですけど……
「ほんと? ジラ?」
「あ、うん、まあ」
「大丈夫。男なら、小尾みたいな美少女とキスできて喜ばないやつはいないよ。と言うわけで、プライベートな練習についてはあとで二人でゆっくり相談してもらうことにして、キスなし練習を始めてくれ、こっちも忙しいんだ」
「じゃ、美香の練習始めるよ」
後台先輩が声をかける。なんとなく曖昧な気分のまま、俺は位置についた。




