9食目 アジ見る味
時折、猛烈に酒の肴が食いたい時がある。
普段から夜食として酒に合う物を作ってはいるが、そういうのではなく、もっと酒を呑むという行為に特化した料理。
酒盗であったり、生ハムであったり、ナッツの類なんてのも良い。
つまりは米に合う食事というよりも、酒が延々と呑めてしまうようなそれだ。
「よし、今日は酒のツマミを作ろう」
なんてことを呟きながら、俺は今夜もいそいそとPCの前で創作に明け暮れていた。
ちょっとばかり腹も空いてきた深夜。キーボードのエンターキーをバシリと叩き、納得の表情を浮かべる。
余計な思考をしながら創作が出来るのかとも思うが、案外他の事を考えていると、ふと先の展開が浮かんだりする。
あとは皿洗い。あれは良い、皿を洗う度に次の言葉が浮かんでくる気がする。
おかげでしょっちゅうPCの前に走るせいで、洗い物そのものが進まないという欠点はあるけれど。
ともあれ俺はそれらの甲斐もあってか、この日は早々にノルマとなる文字数を書き終えた。
出来については、明日にでも妹に見てもらい細かい指摘を頂戴すればいい。
そう考え立ち上がって振り返るのだが、何故か部屋の入り口には、開かれた扉の側に立つ駄妹の姿が。
「ただいま。そろそろ夜食作っちゃう?」
「……お前いつ帰ってきたんだよ。ていうかいつの間に扉を」
「両方とも今さっき、兄貴が無駄に大きな音でキーボードを無駄に叩いた時。ノックはしなかった」
開かれた扉から、廊下の冷たい空気がにじり寄る。
今夜はかなり帰りが遅くなると言っていた妹だが、どうやら俺の気付かぬ間に帰宅していたらしい。
その妹は、折角の温まった空気を逃がしてやると言わんばかりに、扉を開け放ったままで仁王立ちする。
「二度も無駄って言いやがった。ていうかノックくらいしろ、マナーだろうが」
「ごめんごめん。そうだよね、彼女も居ない兄貴がアレしてる時だと困るもんね」
とりあえず不満を口にしてやると、愉快そうな素振りで肩を竦める妹。
どうやら酒が入っている影響なのか、くだらない下ネタがヤツの口を突いたため、俺は困惑すると同時に若干イラっとしてしまう。
それに今は彼女が居ないというのも余計なお世話だ。
「お前、実はケンカ売ってるだろ。……作らんぞ」
「マジごめんなさい。ホントごめんなさい」
挑発されっぱなしも癪で、俺は現時点で使えるとっておきの脅迫を口にする。
すると腕を組んでいた駄妹はハッとし、揉み手をしながら近寄り袖を引っ張るのだった。
なんとも現金なヤツだとは思うが、こうも楽しみにされていたとなれば、悪い気はしない。
仕方のないヤツだと考えつつも、俺は縋りつく妹に引っ張られ台所へ。
しかし引っ張っていく妹を見てみれば、どことなく元気が無さ気に思えてくる。
いったいどうしたのだろうと思い、軽く頭を叩いてから問うてみると、少しだけ話すのを逡巡した後、憮然とした表情で事情を口にする。
どうやら上司に誘われ、終業後に少しだけ呑みに行ったらしいのだが、そこでの内容に酷く神経をすり減らしたようだ。
「延々上への不満を聞かされた。あとは下に対してのも」
「なんていうか……、面倒な目に遭ったもんだな。俺も似たような覚えがあるが」
「私に言われても知らないっての。おかげで折角の酒がマズイこと」
廊下で立ち止まる妹は、深く深く息を漏らす。
その上司とやらが、いったいどんな人物であるかは知らないが、少なくとも良い印象を妹には与えていないようだ。
普段雑で自堕落な我が妹も、相応に社会の荒波に揉まれているらしい。
結果精神的にお疲れの様子で、こうやって毎夜のように夜食をねだってくるのは、溜まったストレスの捌け口という側面があると見える。
「そういう訳だからさ、口直しに美味しいお酒が呑みたい。あとツマミも」
「わかったよ。今日は丁度、俺も酒に合う類の物が食いたかったからな」
妹の欲求は、偶然にも俺のそれとそこまで変わるものではなかった。
ならばついでに満たしてやるのも、こいつが上手くやっていくためにも必要かと思い、台所へ足を踏み入れる。
ヤツは台所へ入るなり、そそくさと冷蔵庫を開け放つ。
そして顔だけ振り返るなり、さも手伝ってやると言わんばかりに告げるのだった。
「何を使おうか? 出すだけでいいなら、言ってくれれば何でも出すわよ」
「冷蔵庫から出すだけかよ。……とりあえず作る物は決まっている、手前の方に"鯵"が入ってるから、そいつを寄越せ」
一瞬手伝ってくれるのだろうかと、淡い期待を抱く。
しかしそこまではする気が無いようで、なんとも頼りない言葉を堂々と発する駄妹。
俺は心の内だけで嘆息すると、その妹に中へ入っている食材の名を告げた。
すぐさま差し出されたそれは、夕方帰宅ついでに買った、刺身用に柵で売っていた値引きシール付きのアジ。
度々行われる夜食作りのネタに困ったオレがスーパーに立ち寄り、つい衝動的に手を伸ばした代物だった。
「お刺身?」
「いいや、ただ切ってワサビ醤油で食べるんじゃ面白くないだろ、少し手を掛ける」
「私は別に刺身でも構わないんだけど……」
そういえばこいつ、何気に刺身やカルパッチョなど、生魚の類が好きであったか。
俺も個人的には好きだし、強めに効かせたワサビと一緒に日本酒を呑む時など、至福の状況だと断言してもいいくらい。
だが今回は避けようと思う。一応刺身用として売っている物だが、捌いてからある程度時間が経過している。
店も管理は気を付けているとは思うけれど、時折やたら生臭いのに当たってしまう場合があるし、なにより張られた値引きシールがその気配を発していた。
一応表面にくらい、軽く熱を通しておいた方が無難かもしれない。
「とりあえずやるか。たまには手伝え、冷蔵庫から食材を出すだけじゃなくてな」
「あんまり難しいことさせないでよ?」
「いいやちょっとだけ難しいことをしてもらう。小さい鍋二つに湯を沸かせ」
「どこが難しいのよ、嫌味か。……さてはさっきの報復だなチクショウ」
妹と軽口を叩き合いながら、一緒に買ってきた豆苗を手に取る。
そして時々は手伝わせてみるかと、妹に鍋へ湯を沸かすよう告げるのだった。
とはいえ妹も流石にこれには憤慨するのだが、思いのほか大人しく言う通りにし、鍋を取り出し火にかける。
そいつが沸くまでの間に、俺は豆苗の根を落とし半分に。
一方のアジはパックから出し、金属製のバットを裏返した上に置きシンクへ。
湯が沸いたら片方に塩を少々入れて切った豆苗を放り込む。もう片方の鍋は、シンク内に置いたアジを霜降りするため、置いたアジの上から注いでやった。
「ああ、折角のアジが」
「このくらいならどうって事ない。カツオのタタキみたいなもんだよ」
やはり刺身が恋しかったか、妹は背後から覗き込み項垂れる。
だが冷蔵庫から出したばかりで冷たい魚が、少量の湯をかけた程度で中まで火が通るはずもない。
白くなっているのは表面だけで、中はほぼ生のままであるはず。
その頃には豆苗も茹で頃で、ザルに上げて水で冷やす。
とりあえず霜降りしたアジもそこに入れて冷やし、アジだけまな板の上に置くと、刺身よりも若干薄めに刻んでいった。
「ちょっとボウルを出してくれ。あとそうだな、チューブの生姜とポン酢」
「今日はやたら人使い荒いわね……。やっぱりさっきの仕返しを」
「そんなんじゃねえって、時々は手伝っても罰は当たらんだろ。あとついでに擦り胡麻もな」
俺はこれ幸いとばかりに、妹へと助手もどきの役割を任せることに。
こうしていけば、いずれは自分で多少なり真っ当な料理を作ろうという気を起してくれるかもしれない。
などと小学生に家事を手伝わせる親のような心境で、あれやこれやと指示を出していく。
妹が渋々出したボウルをアルコールで消毒すると、そこへ水けを絞った豆苗とアジを移す。
薄く塩をし、多めの生姜とすり胡麻、ポン酢を入れ和えてやる。
普段食べている夜食よりも、随分と小ぢんまりとしたそいつを、小振りな和食器へ盛ると完成だ。
「お酒はなにを出す? やっぱ日本酒?」
「そうだな。……寒いし今日は燗にでもするか」
流石にこの見た目となれば、妹も日本酒が無難であると考えたようだ。
そこで俺は妹が引っ張り出してきた日本酒を手に取ると、鍋へもう一度湯を用意し、棚から取り出した徳利へ入れ温め始めた。
湯煎で酒が温まっていくにつれ、酒の芳醇な香りが鼻先をくすぐる。
そろそろ良いかという頃合いを見計らって上げ、火傷しそうな熱さをした徳利と、陶製の猪口を持ってテーブルへ。
腰を下ろすなり今か今かと待っていた妹と共に、手を合わせるのだった。
まず最初に、揃ってアジへ手を伸ばす。
そして口へ放り込んで少ししたところで、妹は嬉しそうに表情を花開かせるのだった。
「ホントだ、確かにほとんど生。でも全然臭みとかないね」
「時間が経った青魚なもんで不安だったからな。生姜の風味のおかげもあるが」
真っ先に感じるのは、擦り胡麻の強くも優しい香り。そして合わせたポン酢の酸味。
潰された胡麻の油分を感じさせる舌触りや、入れた生姜のおかげもあってアジの生臭さは感じない。
元々大丈夫な物だったかもしれないけれど、これはこれでまた異なる旨さへと昇華しているように思える。
「豆苗の食感もいいね。シャキシャキしてる」
「短い時間しか茹でなかったしな。それなりに火を通しても食感が残るから、案外使い易いんだよ。安いし」
「お母さんとかは、この香りが苦手だけどね」
豆苗は安いし処理も簡単と、非常に使い勝手の良い野菜だ。
ただ少々青臭さが強いというか、人によっては好みの分かれるところで、うちの母親などはあまり好きではないと公言していた。
もっとも今回のような料理には、そこが逆に良い方向へ作用したかもしれない。
その肴を噛んだ余韻が残る内に、温かな酒を猪口に移して一口。
ふわりと立ち昇る酒の濃い味と香りが、肴と相まってより旨味へと変わっていく。
「あ……、良い香り」
一方で妹は酒を口に含むと、意外そうながらも柔らかな表情でホッと息を吐く。
反応からして外で飲む時も、あまり燗酒の類は頼んだりしないようだが、案外気に入ったようだ。
まだ二十代の前半だというのに、味覚は着実に酒飲みの道を進んでいると見える。
「うん、たまにはこういうまったりしたお酒も良いかも」
「腹はそこまで満たされないけど、ぐっすり眠れる気がする」
「……寝ずに書けばいいんじゃ」
のんびりとした、弛緩した時間が台所へ流れる。
ただそれを打ち消さんばかりな駄妹の言葉を無視し、俺は猪口へ酒を注ぐのだった。
折角得た至福の時間だ、現実を突き付けてくるという無粋は勘弁してもらいたい。
それにしても、この時点で妹は上司との酒の席のことなど忘れているようだ。
もちろん料理を手伝わせたというのもあるが、もっぱら味の感想を口にするあたり、こちらが主な理由に思える。
俺はこれによって気分転換できているであろう妹の反応に、少しばかり気分を良くした。
そんな俺の思考などまるで気付かないのか、妹は上機嫌で酒と肴を口に運んでいく。
しかし唐突に箸を止めると、ちょっとばかり不満気な表情を浮かべるのだった。
「でもさ、これポン酢じゃなくて醤油だとめちゃくちゃご飯に合う気がする。卵黄とか混ぜてさ」
「おい止めろ、腹が減る」
「だってしょうがないでしょ、頭に浮かんじゃったんだから。私あんまりご飯も食べれてないし。……確か冷凍のご飯あったよね」
酒の肴として作ったはずのそれは、突如としておかずへ変貌。
少しだけ胃に入ったことで食欲を刺激されたか、それとも酒を呑んだ後の炭水化物欲求なのか。
妹は立ち上がり、ふらふらと冷凍庫の方へ歩くのだった。
だが確かにポン酢でも悪くはないが、醤油にするとよりご飯のお供感が増す気はする。
割ることで流れしみ込んでいく卵黄。黄色く染まった飯をアジと一緒に頬張れば、美味いというのは疑う余地もない。
俺もつい妹に乗せられ、そんな思考をしてしまったのが運の尽き。
自身の欲望に流されるがまま、兄妹揃ってレンジを起動してしまうのであった。




