4食目 鯖と鉄の
この日、俺は一日中を上機嫌で過ごせていた。
先日「小説家になってもいいんじゃないか」へ連載中の作品を更新した直後、過去にない程の伸びを見せていたからだ。
なんだか小躍りしたくなる心境のまま、早朝にも続きを投稿。
その後出勤するや否や、機嫌の良さから女性の同僚たちに怪訝そうな目で見られているのを気にもせず、昼には気まぐれで一食千円越えのランチへ手を伸ばす。
取引先の人からも、「なにか良い事でもありましたか?」などと聞かれてしまう始末。
そんな浮足立った一日を終え夕刻に帰宅し、食事と風呂を済ませて自室に戻る。
だが俺はここに至って、今までの高いテンションから一気に奈落へ引き落とされた。
何故なら自室に戻りPCを開いて確認したところ、得たポイントの大部分が焼失していたからだ。
「無理……。もう一文字だって書けるかよチクショウ……」
日付変更も間近な深夜。ガクリと項垂れてキーボード上に顎を乗せた俺の目の前には、意味を成さない無数の文字が画面に躍っていた。
キーボードを叩きつけるとまではいかないものの、喪失感から強い脱力を覚える。
こうなるともう持ち直すのは難しい。今夜は三千字ほどと設定した目標を大幅に下降修正し、たったの百字で切り上げ立ち上がる。
部屋から出て向かうは毎度の如く台所。
こういう時は気晴らしをするに限る。何か適当に口に入れ、いい感じに腹を満たしてから眠ってしまえば、明日にはまた書けようというものだ。
そう考え台所へ足を踏み入れるも、ここ最近はなんだかお馴染みになりつつある、口へ菓子を咥えた駄妹と出くわすのだった。
「兄貴、今夜のメニューは?」
「顔を合わせるなり速攻でそれかよ。たまにはお前が作れ」
顔を合わせた妹は、間髪入れず今宵作るであろう夜食の内容を問うてきた。
自分でどうにかする気など一切ないと言わんばかりな妹の様子に、テンションの下がった状態の俺は僅かに苛立つ。
とはいえ怒鳴るほどでもないし、そんなことをすれば既に眠っているかもしれない両親を、起こすハメになってしまいかねない。
そこで呆れの溜息を漏らしながら、久しくやっていないであろう料理を勧めてみる。
「仕方ない、久しぶりに私が腕を振るってあげよう。……ニンジン茹でたのとか」
「やっぱりいい、俺が作る。今の状態でそいつを食ったら泣きそうだ」
しかしこいつに料理を期待したのは、根本的な間違いであったらしい。
ほんの僅かに悩んだ後に出てきたのは、一応料理とは言えなくもないけれど、少々もの悲しさを感じてしまう品。
こいつも学生時代、家庭科の授業くらいは受けているはずなのだが。
「今の状態? ああ、ガッツリ減ってたもんね」
「うるさいその件には触れるな。ていうか聞こうと思ってたんだが、何でお前はそれを知ってんだよ」
「そこはアレよ。兄貴の漫画を借りに部屋へ入った時、PCが点けっぱで」
だが妹は反撃とばかりに、今最も言われたくない言葉を吐き出す。
そういえばこいつは、俺が自作の小説を投稿していることを、どういう訳か知っているのだったか。
ただ一応その理由を問うてみると、答えはなんでもない、俺自身の間抜けが引き起こしたものであった。
「口止め料は兄貴の作る夜食ってことで」
「……妹が優しいおかげで、意外と安く済んで助かるよ」
「どういたしまして。その代わりちゃんと洗い物はこっちがやるからさ」
「前回はやらなかったけどな」
ともあれこの程度で口を噤んでくれるのであれば、確かに安い部類なのかも。
俺は渋々ながら台所へ立つと、今夜の気分に合った食材を物色し始めた。
さて、いったい何を作るとしようか。
前回は余り物のイカを使ったが、ここ最近の食卓は肉傾向が強いため、今回も魚介系が食べたいところ。
それと出来れば温かい物が良い。ささくれ立ちそうな心情には、やはり温かい物が一番の薬に思える。
だが生の魚は冷蔵庫になく、あるのは冷凍したホッケくらいのもの。
これも悪くはないが、深夜に魚焼きグリルを使うのは少々面倒。となれば……。
俺がそう考えて取り出したのは、棚の下に置かれた一つの缶詰。そろそろ賞味期限が近いため、どこかで使ってやろうと密かに考えていた、鯖の水煮缶だ。
「なんか最近人気っぽいよね、それ」
「色々と便利だからな、それなりに美味いし。筋トレしてる人とかにも良いと聞いたような聞かないような」
「どっちよ……」
ここのところよく聞くようになった、鯖缶の活用レシピ。
一般的なモノを選べば缶詰としては特別高い部類ではなく、簡単に手に入るのに加え、ローカロリーときたものだ。
普通に生の鯖を焼くと案外臭いも強いため、そこを敬遠する人も多いのだと思う。
用意するのはその鯖缶と、言い訳的に入れる野菜担当のズッキーニ半個。
そしてつい先日ホームセンターで購入した、鋳物のスキレット。
「なに、キャンプでもすんの?」
「ご希望とあらば外でやってもいいぞ。ただし警察が来たらお前を置いて逃げる」
取り出したスキレットを見るや茶々を入れる妹。
俺はそれに対し適当な返しをしつつ、コンロ上に置いたスキレットに油を敷き火を点ける。
その間にズッキーニを角切りにし、温まったところで放り込んで少しばかり炒めた。
あまり火が通りすぎないところで、適当な量の白ワインを注ぎ入れる。
アルコールが飛んだところを見計らい、冷蔵庫から取り出したのは無塩のトマトジュース。
本当はトマト缶でも使えばいいのだろうが、夜食で缶詰を二つ開けるのも気が引けるので、とりあえずはこれで代用だ。
そいつをスキレットの半分ほどまで満たし、開けた鯖缶を放り込む。
「鯖にトマト?」
「意外に美味いんだぞ。青魚とトマトの組み合わせ」
「あんまりこぅピンとこないんだけど。トマトだけに」
「…………それってまさか、リコピンがどうこうって言いたいのか? 酷過ぎるぞ」
少しばかり眠気で思考がボヤけているのか、想像を絶するつまらない洒落を口にする妹。
眠いのなら夜食など食わずに眠ればいいだろうにと思いながら、ほどほどのところで鯖の身をほぐしていく。
少々の塩に加え、次に加えるのはグラニュー糖。
怪訝そうな妹の視線を余所にそいつを入れ軽く煮詰めていく間に、バゲットを一人あたり三枚ほどに薄く切ると、トースターに放り込んで焼く。
その頃には鯖にも熱が行き渡り、火を止めてから最後に少しばかりのレモン汁を注いで出来上がり。
湯気を立てるそいつを、テーブル上に用意した鍋敷き上に置き、焼いておいたバゲットを皿へ移す。
「早く食って寝ろ。つまらん洒落がこれ以上出てこない内に」
「なんか妙な味付けしてたけど、大丈夫なのこれ?」
「シチリア風だ。向こうはこういう味付けがあるらしい」
不信感を表に出す妹に、俺は記憶を探りながら返す。
少し前にどこかで読んだが、シチリア島ではこういう酸味と甘みの混ざった料理が、郷土料理としてあるらしい。
地中海貿易の中継地が云々という話だったが、詳しいことはもう忘れた。
ともあれ珍しく作ったイタリア料理、自分でも味は気になるところ。
早速焼きたてのバゲットを手に取り、スプーンで鯖の身とトマトソースを掬って乗せ、息を吹きかけてから齧り付く。
「……ちょっと珍しいけど、私は好きかも」
「思ったよりもな。米とは難しいけど、パンとなら悪くない」
砂糖によって加えられた、ほのかに残る甘み。
レモンとトマトの酸味に、鯖のほぐれる食感と、僅かに焦げたバゲットの香ばしさ。
これがイタリアはシチリアの味かと問われれば、わからないというのが正直なところ。だが不思議に思いつつも、どこか馴染のある味。
……これはあれだ、中華の甘酢ダレとかに少しだけ近い感じかも。ニンニクでも加えればもっと美味かろう。
「んで、今日は何が良い?」
「ワイン。白で」
言葉少なくも、妹は俺の言わんとしている事をすぐに察する。
一瞬冷蔵庫の方をチラリと見たかと思えば、中で納められよく冷えているであろうそれの名を口にした。
いそいそと冷蔵庫に向かい、棚の一画に置かれたそれを手に取る。
グラスを二つ、それも専用のではない小さ目なのを棚から引っ掴み、最近は主流となったスクリューキャップを捻り注ぐ。
一本五百円かそこらの、ラベルに動物が描かれた安価なテーブルワイン。
そいつを鯖の味が残る口へ流し込むと、ワインのスッキリとした味わいによって流され、また次の一口がそそられる。
大幅に減ったポイントも、千円超えの少々贅沢なランチも、そのせいで軽くなった財布も気にならなくなっていく。
深夜口にする酒と肴は、これだから止められない。
「んでさ、なんであんな急に減ったのよ」
「蒸し返すのかよ、折角忘れかけてたのに。……さてな、いったい何が悪かったのか」
とはいえ上機嫌となったのも束の間、この駄妹は思い出したくもないことを口にしやがる。
ただこいつは俺が小説を書いていると知ってはいても、内容までは読んでいないようだ。
その事に少しばかりの安堵をしつつ、ともあれやったことを振り返るのも今後のためには悪くないはずと考える。
そこで一応原因を考えてはみるものの、いまいち大幅減となった理由がわからない。
しいて挙げるなら、直近の更新をした際の内容が……
「ヒロインの大半が死んだせい、か?」
「……ああ、そう」
なんだか微妙な空気を発する妹。
もしやと思うが、本当にこれが原因なのだろうか。実はこっちが気付いていないだけで、思いのほかちゃんと人気を得ていたのか。
なにせ感想などという物を一度として頂戴した経験がないのだから、そこら辺は判断しようがないのだ。
妹は深めな溜息をつくと、グラス内に満たされたワインを一気に飲み干す。
見ればいつの間にかワインのボトルはほぼ空となり、半透明な瓶が軽そうにテーブル上へ横たわっていた。
無言のままでそれらを持ち、片付けのため台所へ向かう妹。
速攻で洗い物を片付けたヤツは、一度だけこちらへチラリと視線を向けると、「それはないわ」とばかりに肩を竦め、自室へ戻っていく。
そしておそらく困惑の表情を晒しているであろう、俺だけが残されるのだった。