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30食目 濃い鶏、コイ味


 トボトボと、暗い夜道を歩く。

 そんな俺を、通り過ぎる車のエンジン音が時折追い越していく。


 時刻は既に22時。多くの人が家の玄関をくぐり、食事を終え入浴でもしようかという時間。

 そんな遅い時間ではあるが、今頃帰宅するのは別に珍しくはない。

 残業なんてしょっちゅうだし、仕事終わりに買い物などをしていれば、すぐこんな時間になってしまう。


 ただ今日帰りが遅くなった理由は、残業でもなければ買い物でもない。

 あえて言うならば仕事とプライベート、その両方が関わった、少々面倒臭い理由であった。



「……なんというか悪かったな。こんな時間までつき合わせちまって」


「そんな、先輩のせいでは。あたしにも責任はありますし……」



 LEDの白い街灯で照らされた夜道を歩く隣には、どこか疲れた様子を浮かべる後輩が。

 なんとなく気まずさを覚えてしまった俺は、彼女に対し何度目かとなる謝罪を口にした。

 ただ返される言葉も、これまた何度目かとなるほぼ同じ内容であった。



 この日俺たちは少しばかりの残業を経て、一日の仕事を終えたのを確認し帰路に着こうとした。

 ただそのまま揃って会社を出ようとしたところを、突然上司によって呼び止められる。

 その上司は俺と後輩に対し、揃って残るよう指示したのだ。


 俺たちがセットであるということは、指導係である件と関わりがあるのかと考えるも、これといって問題が起きたとは認識していなかった。

 ではいったい何事であろうかと、怪訝に思いながらもとりあえずは命令であるため従うことに。

 そこで他の人間が全員帰宅した後、上司によって座らされた俺たちは、真剣な表情でとある懸念が真実であるかを問い詰められたのだ。



「まさか、俺たちが付き合っていると勘違いされるとは……」



 上司が終業後にわざわざ呼び出した理由。それは俺と隣の後輩が、密かに交際しているのではという疑いを抱いたためだった。

 というよりも俺が立場的に上であるのを良いことに、善からぬ要求をしたのではと疑ったらしい。


 そんなに信用が無いのかと肩を落としそうになるも、ある意味では仕方ないのかもしれない。

 なにせこの後輩、外見的な面を言うならばかなりモテる類。一方俺は至って普通、平々凡々とした容姿であるため、上司がそのように疑うのも若干わからないでもなかった。

 もちろん彼女は外見だけでなく、性格も温厚で人当たりだって良い。

 逆に言えば押しが弱いとも言えるのだが、そこが余計に上司の不審へ拍車をかけてしまったようだ。



「でもよくよく考えてもみれば、ここ最近はわりと一緒に帰宅してましたし……」


「言われてみればそうだな。同じ時間に出て同じバスに乗って、そのまま家で夕食を食って帰ることも多い」


「そのすべてを見られた訳ではないと思いますが、疑われるのも当然かもしれませんね」



 後輩の言う通り、ここまでの行動を振り返ってみれば、疑いを持たれる原因には事欠かない。

 ただそれを肯定も出来やしない。なにせそんな事実は存在しないのだから。


 そこで誤解を解くべく、俺たちは本当のことを話すことに。

 もちろん小説を書いて云々という点だけは言わず、彼女と妹が偶然同じ齢で、初めて会って以降非常に親しくしているという点についてだ。

 実際嘘は言っていない。全てを語ってはいなくとも、そこに破綻は無いはずだ。


 その必死の説得だか言い訳だかを一応真実と受け取ってくれたか、上司はひとまず納得してくれた。

 ただあまり勘違いされるような行動は取らないようにという、若干の小言を頂戴するハメになったのだが。

 一応社内恋愛禁止などという規則はないが、やはり諸々とトラブルを呼び込みかねないだけに、上司としては避けて欲しいというのが本音なのだろう。



「もうちょっと公私の区別をつけるべきかもな」


「それじゃあ、こうやって一緒に帰るのは……」


「当面自重しよう。別にやましい事はないにしても、色眼鏡で見られて特になることはないからな」



 周囲に対し顔見せできないようなものではないが、それでも互いの立場というものが有る。

 俺は後輩に善からぬ要求をした人間というレッテルを回避し、彼女もまた上に取り入ろうとした人間という噂が起きるのを防ぐ必要が。

 少々納得がいかないものを感じるが、これもまた処世術として必要なのだと思う。



「仕方ない……、ですよね」



 ただ彼女はそのことを理解しているであろうに、どこか残念そうな素振りを見せる。

 別々に帰った後で、また家に来て妹と会えばいいであろうにと思うも、なにやらそれを口にするのが憚られる空気。

 俺はなにかマズいことでも言ってしまったのだろうかと思いつつ、この空気を霧散させてしまいたいと、唐突にある別の欲求を口にするのであった。



「……そういえば、今日は肉が食いたい気分だな」


「節約すると言ってませんでしたっけ? 犬を飼うために」


「一応そっちもいまだ継続中だ。ただたまには気晴らしもしないと、長続きしないからさ」



 頭に浮かび口をついたのは、あまりに唐突と思える内容。

 ただ彼女はさっきまでの空気を霧散させ、キョトンとした表情でここ最近の事情を口にした。


 先日犬を預かって以降、特に妹が犬を飼いたいという欲求に襲われており、そいつを果たすため目下節約の真っ最中。

 つい最近、後輩に対する祝いとして少々の贅沢をしたが、あれはあくまでも例外中の例外だ。

 極力安い食材を使い、酒だって可能な限り安価な物を探し、自身の財布からちょっとずつ出して貯金もしている。

 なので夜毎作っている夜食や酒の肴にする食材も、近くに在る農協の直売所で売っていた、旬の安価に出回っている野菜が多い。


 やはり旬だけあって、野菜はどれも旨い。とはいえ毎度そういった物ばかりでは飽きが来る。

 時々は肉でも食って発散せねば、そのうちグダグダになってしまいかねない。



「それに安い肉もあるさ。最近は冷凍肉とかもなかなかに悪くない」



 俺は後輩とそのような話をしながら、マンションのエレベーターを昇り玄関を開ける。

 ついさっき上司に釘を刺されたばかりであるというのに、いつの間にやら彼女も着いて来てしまっていた。

 たぶん当人も半ば無意識なのだとは思うが。


 そうして玄関をくぐると、目の前には妹が立っていた。

 ヤツはどういう訳か出迎えの言葉を吐く前に、意外そうな表情を浮かべる。



「結局一緒に帰ってきたし……。仲睦まじい事で」


「お前は何を言っているんだ?」


「もう聞いてるわよ。上の人に怒られたんでしょ、最近仲が良すぎで怪しいって」



 そう言ってピシリと後輩を指さす妹。そして反応するように小さく挙手する後輩。

 なるほど、どうやらバスで帰って来る途中で、愚痴なのか妹には事情を伝えていたようだ。



「まあ仕方ないか。2人とも、今度からは別々に帰ってきなよ」


「何気にあたしも、帰ってくるっていう表現なんですね……」


「もう実質そんなもんじゃない。ていうか最近はほとんど家で夕飯食べてるし」



 早速家に上がり、妹と後輩は言葉を交わしながらリビングへ向かう。

 ただその動作は非常に慣れたもので、それこそ妹が言うように我が家へ帰ってきたと言わんばかりのくつろぎ様。

 確かに彼女はここ最近は毎日のように、家で夕食を食べている。

 もちろん食費を少しばかり受け取っているし、彼女の実家から届く食材を貰っているため別に構わないのだが。



「……こういうところが勘違いされる要因なんだろうな」



 なんというかほぼ身内のような距離感が、疑いを持たれる切っ掛けになったのかもしれない。

 もうちょっとばかり割り切った方が良いのだろうかと、首をひねりながら俺は一旦自室へと入っていった。



 早々に自室で着替えを済ませ、リビングを抜け台所へ向かう。

 ただ通る途中でリビングを見てみれば、本来ならそこに居るはずな妹と後輩の姿が見えない。

 いったいどこへ行ったのかと思いきや、台所に立ちなにかをやり取りしている2人の姿が。

 近寄ってみると妹はこちらへ振り返り、手にしていたそれを差し出してきた。



「はい、こいつを使うんでしょ?」



 見ればそこには、解凍された鶏のもも肉が。

 確かに俺は、こいつを今夜の食事と言うか晩酌に使おうと考えていた。

 おそらく後輩から肉を使うというのを聞いたため出してきたのだろうが、どうして解凍までされているのか。


 流石に着替えてリビングに移動するまでの短時間では、レンジの解凍機能を使っても不可能だ。

 ということは俺たちが帰って来るより前に、既に解かし始めていたということになる。

 ならば用意してあった理由は明らかだ。



「さてはお前、最初からこいつを使わせるつもりだったな」


「たまにはしっかりお肉を食べるのも必要だと思うのよ。お肌も髪もタンパク質、兄貴知ってた?」


「いやそれは知ってるが。っていうか変に言い訳してんじゃねえ、お前が食いたかっただけだろうが」



 なんだかんだと理由を口にしてはいるが、結局はこれが理由に違いない。

 ここ最近の野菜主体な食事も健康的だが、たまには肉が食いたい。それに比較的安価な鶏肉、それも冷凍の物であれば家計にも優しいであろうと。

 そう考えた妹は、珍しく自主的に準備をしていたようだ。主に自身の食欲に負ける形で。



「とりあえず受け取っておく。どのみち使うつもりだったしな」


「つまり私の判断は正しかったってことね。感謝してもいいのよ、心の底から最大限の賛辞を口にする権利をあげる」


「調子に乗んなこの駄妹。とりあえずお前はもうちょっと手伝え」



 鶏肉を使うという行動が、結果的に正解であったのに気を良くしたのか、妹は鼻を高くし偉そうな態度を取る。

 俺はそんな妹の伸びきった鼻先を軽く摘まみ上げると、早速料理に取り掛かるべく、手伝いをするよう告げるのだった。


 不承不承ながら手伝いを了承し、言う通りに湯を沸かし始める妹。

 俺はそんなヤツの姿を横目に、鶏肉をまな板に載せ包丁を向けようとするのだが、すぐ背後から後輩の声が。



「あの……、あたしはどうしましょう」



 どうやら彼女は、自主的に手伝いをしようとしてくれるらしい。

 それはありがたいのだが、距離感の近さ故に注意を受けたばかり。素直にその申し出を受けたものかと躊躇する。


 ただここで下手にお客様扱いをするというのも、少々可哀想かもしれない。

 そこで俺は野菜室の中からほうれん草を一束取り出すと、彼女に渡し一品を頼むことに。



「それじゃ、お浸しでも作ってもらおうかな」


「わ、わかりました。上手くできるかはわかりませんけれど」



 野菜を受け取った後輩は、ちょっとだけ緊張した面持ちながら自身に気合を入れる。

 ただ謙遜こそしたものの、彼女は何気に料理が一通り出来るはずだ。

 そこいらは湯を沸かしながら欠伸をする妹とは一線を画しているため、安心して任せておけばいいだろう。


 副菜を後輩に任せ、俺は鶏肉に少しばかり包丁を入れて平らに慣らす。

 そいつを妹が沸かし薄く塩を入れた湯に放り込むと、火が通る間に冷蔵庫へ。

 中から味噌を取り出して、少量をボウルに取って酒やみりんを混ぜて馴染ませておいた。



「兄貴、鶏肉そろそろいいんじゃないかな」


「そうは言うが、お前に火通りがわかるのか?」


「失敬な。最近はちょっとだけ手伝ってるじゃん、少しくらい料理も覚えてきたって」


「本当にちょっとだけだがな。どれ……」



 そうして準備をしていると、茹でている鶏肉が良い頃合いではないかと告げてくる妹。

 基本が料理下手なだけにその判断を信用していいのか迷うも、試しに竹串を刺してみれば、なかなかに丁度良さそうだ。

 まだ少々半生ではあるが、この後でもう少し火を通すためこのくらいで十分かもしれない。


 俺はどうだと胸を張る妹に、「お前にしちゃ悪くない」と簡潔な称賛の言葉を送り、バットの上に鶏肉を取り出す。

 不満気な妹と小さく笑う後輩の声を聞きながら、その鶏肉の表面に付いた水分を拭き取り、さっきの味噌を塗りたくってからホイルの上へ。

 トースターに放り込みじっくり炙っていくにつれ、味噌の焦げる芳ばしい香りが立ち込めていき、腹の虫が泣き声を上げ始めたところで取り出した。



「先輩、こっちも出来ました。まだ十分冷めてはいないんですけれど」


「十分だよ。それじゃ全部リビングに運んでくれ、俺は酒の用意をする」



 丁度鶏肉の方が出来上がった頃、後輩も副菜の準備が整ったようだ。

 俺は彼女へ料理を運ぶよう告げると、棚からグラスとウイスキーのボトルを取り出した。


 料理の内容的には、日本酒あたりが無難だとは思う。

 けれど今はちょっと切らしているし焼酎は昨日飲んだばかり。そのため代わりとして今回は、ハイボールにでもして呑むことにしよう。

 グラスへ氷を適当に放り込み、安価なウイスキーと炭酸水を流し込む。

 レモンでも浮かべれば最高だろうが、今はないため代わりにレモン果汁のボトルからごく少量を垂らす。


 あとは軽く一度だけマドラーで混ぜて完成。

 俺は非常に簡単に作ったそれを盆に乗せ、2人と料理が待つリビングへ移動する。


 既に準備万端な妹と後輩の前に置き、俺も腰を下ろしてから手を合わせる。

 早速手を伸ばすのは、深めな小皿に盛られた後輩作であるほうれん草のお浸し。

 少し濃い色をした出汁に沈んだそれは、上にちょっとだけ乗せられた鰹節が強く和の空気を発していた。



「お、こいつはなかなか」


「麺つゆと顆粒出汁で、適当に作った物ですが……」


「十分だよ。急な無茶ぶりで、ありものの材料で作ったんだから上出来だって」



 お浸しを口に含むと、しっかりとした出汁の香りと醤油の塩気、それに少しばかりの甘み。

 どうやら台所に有る既製品を使って急ぎ作ったようだが、この短時間で作ったにしては上出来も上出来。

 味の加減も非常に俺好みで、ぶっちゃけ毎日食っても飽きないと思えるくらい。


 冷蔵庫にでも入れて冷やしておけば、もっと美味いのだとは思う。

 けれど案外このくらいで良いのかもしれない。暑くなってきた昨今、あまり冷たい物ばかりというのも身体に良くはないはずだ。



「良かったです。……先輩のも、芳ばしくて美味しい」



 彼女はちょっとばかり照れた様子で俯くと、箸で摘まんでいた鶏肉を頬張り、ハイボールで流し込み笑顔を見せる。

 ただまだそこまで酒が入ってはいないだろうに、後輩の顔は若干赤みが差していた。

 案外今日の上司からされた問い詰めのせいで、少々疲れが出ているのだろうか。


 俺は後輩の様子を見ながら、自身も鶏肉へ手を伸ばす。

 口に含むとまず味噌の風味が。濃厚なそれがジワリと鶏肉へ入り込み、強い旨味を引き出していた。

 ただどうしても味は濃いめ。となると今度は、追って流し込むハイボール。

 弾ける炭酸にレモンの酸味、薄まるもコクの残ったウイスキーが、口の中に残る濃厚な味を洗い流してくれる。

 元がウイスキーという主張の強い酒だが、こうして炭酸で割ることで和食にすら合うのだから、色々と助かる酒だ。



「いやー、兄貴が作った料理も良いけど、こっちもなかなか」



 俺が料理に舌鼓を打っていると、妹の若干大きな声。

 見ればいつの間にやら妹はウイスキーのボトルと氷、それに炭酸のペットボトルをリビングに持って来て、自分でどんどん継ぎ足し呑んでいた。

 もう既にそこそこ酒が回りつつあるらしく、この様子だと既に3杯目へ突入しているに違いない。


 ここ数か月、妹は以前よりもずっと酒を呑むようにはなった。けれどどうにも、今日は特にペースが速い。

 そんな普段と少々様子が異なる妹は、手にしたハイボールを一気に飲み干し、後輩をジッと凝視する。

 その視線にたじろぐ後輩を無視しガシリと肩を組むと、酔った勢いかとんでもない言葉を吐くのであった。



「なんていうかさ、もうここに住んじゃえばいい気がしないでもないのよ」


「住むって、あたしがこの家にですか!?」


「当然。そうすりゃ一緒に帰っても自然で、上司から小言もなくなる。それに私は毎日美味しいご飯が食べられる!」



 やはり相当酔っているのだろう。妹は突如として、理論が破綻したとんでもない主張を展開し始めた。

 いくらコイツも居るとは言え、それはいわゆる同棲状態というヤツだ。

 まるで解決にすらなっていない暴論に、俺は肩を落としながら不満を口にする。



「お前は何を言ってんだ。逆に怒られるっての」


「そ、そうですよ! ここに住むのは構いませんけれど、いずれはご両親も戻ってこられますし、なんて説明すればいいんですか」


「そうそう、説得するのが難し――、いやちょっと待て」



 揃って後輩も異議を唱えるのだが、彼女の発した内容はどこかズレた言葉を吐く。

 見れば彼女の顔は、さっきよりもずっと顔を赤く染まっている。こっちもまた相当に酔いが回ってきたようだ。


 さらにグラスへ酒を注ごうとしている妹からボトルを取り上げると、代わりに水のボトルを押し付ける。

 そうして空になった皿を持って台所へ引っ込むと、酔い覚ましがてら茶漬けでも作るかと、冷凍庫からご飯を出しレンジへ。

 解凍したそいつへ市販のお茶漬け海苔をふりかけ、冷たいお茶を注いでリビングに戻ると、妹がテーブルに突っ伏しているのが見えた。



「……こいつ、もう寝やがった」



 余程速いピッチで酒を煽ったのか、テーブルへ額をつけ寝息を立てる妹。

 いつもとは違う酒の飲み方をしたせいで、気絶するように眠ってしまったらしい。

 そんな妹の姿に嘆息しながら茶漬けを置くと、後輩はクスクスと可笑しそうに笑みを漏らしていた。


 仕方なく俺が二杯分の茶漬けを片付けることにし食べ始める。

 ただ時折後輩からは一瞬の視線を感じる。おそらくさっき妹がした言動と、自身のとんでもない発言が後を引いているようで、気持ちほど恥ずかしそうな気配を漂わせていた。



「すまんな、あのアホが変なことを口走ったせいで」



 暫し漂う無言の時間。

 そんな間に耐えきれず、グラスの中へ僅かに残ったハイボールを煽り、俺はさっき妹がした発言に対して詫びを告げる。

 すると後輩は小さく首を横に振り、気にはしていないと告げた。


 ただ彼女は少しだけ継ぐ言葉を呑み込む。

 何か言いたい事でもあるのだろうかと思うも、彼女の決心がつくまで待つ方が良いのかもしれないと考え、俺は再度の沈黙にも口を閉ざした。

 そうして1分弱。こちらから取っ掛かりを差し出した方がいいのではと声を発しかけるのだが、彼女はその前に顔を上げ自ら切り出す。



「半分は冗談なのかもしれませんけれど、妹さんの言葉でちょっとだけ勇気が出ました。それに今日の騒動も、決心する切っ掛けになったかも」


「えっと、勇気とか決心とか、いったいどういう?」



 どことなく強い視線で、身体ごと向いた彼女は俺の目を見つめる。

 普段の比較的大人しい、穏やかさや若干の内気さなどどこかへいってしまったような、明確に意思を持った表情。

 そんな後輩は数度深呼吸をし、困惑する俺の言葉に答えを呟く。



「あたしはもう少しだけ、自分の欲求へ素直になってみようと思うんです。先輩」



 静かな口調。けれどどことなく力強い、これまで見たことが無い後輩の発する空気。

 俺はそれに若干呑まれてしまいそうな感覚に襲われながら、彼女の言葉を待つ。

 すると一瞬、ほんの一瞬ではあるのだが、後輩は理解が困難な意志を向けてくるのであった。



「あたしは今日の事を、上司の誤解や勘違いで済ませたくはないです」



 はっきりとした、彼女に会って以降一度も見てこなかった強い意思表示。

 俺はその言葉を理解しかねる。けれどすぐに、彼女の意図するところを察する。

 ただ確認のためこちらが声を出すよりも先に、直接当人の口から続きが告げられるのであった。



「先輩、あたしは――」



 眠りこける妹の隣で、後輩は顔を真っ赤に染めながら自らの意志を紡ぐ。

 俺は彼女の言葉を、熱にうなされたような思考で聞き続ける。


 どうやら人生で2度目となる春の風が、この夏の盛りに吹きこんできたようだ。


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