3食目 祭の名残りイカ
人間とは、なんと燃費の悪い生き物か。
毎日三食の規則的な食事が理想とされ、そのうち一度でも逃せば腹が減ったと愚痴を溢すのだから。
実際には二日や三日食わずとも死にはしないが、丸一日食べねば体調に支障をきたす。
体力の減退、集中力の低下、空腹感による眠りの浅さなどなど、数え上げればきりがない不都合が襲い掛かってくるのだ。
故に人間は補給を必要とする。頭を回転させ、より多くの文章をひねり出すためにも。
という言い訳を自身に課し、執筆の最中に腹が鳴ってしまった俺は、この夜も台所へと向かう。
ただ今宵は俺の他にもう一匹、腹を空かせた物体が台所へ黒い姿を現しているのだった。
「でっけぇゴ○ブリ」
「うっさい兄ゴ○。人のことを言えるか」
黒い格好に黒髪をたなびかせ、真っ暗な台所でゴソゴソと動く姿は、まさに憎きヤツと瓜二つ。
食い物を漁るという点でもそれは変わらず、俺より先に台所へと潜入していた妹と呼ばれる生物は、棚に置いてあった煎餅の袋をガサガサと漁っていたのだった。
手にした煎餅を咥える妹は、咀嚼しながらこっちの感想に反論する。
ただ口にした煎餅が既に、湿気によって食感が失われていたせいか、渋い表情で封をし棚に戻すのだった。
そこまでマズイのなら、処分すればいいだろうに。
「なにか、代わりの食べ物を……」
そう言って今度は冷蔵庫へ向かい、開いて目についた物を取り出す。
妹の手に掴まれているのは、皿に乗せられラップをかけられたイカ。
今日の夕方、妹自身が近所の縁日で買ってきたものの、結局食わずに冷蔵庫行きとなってしまったものだ。
駄妹はそいつからラップを剥がし食べようとする。
ただ見るからに冷たくガチガチに固まっているだけに、俺は眉間に皺を寄せながら一応制止するのだった。
「それ、そのまま食う気か?」
「だってレンジとか使っちゃうと、もっと固くならない?」
「普通に火を使えばいいだろうが。ちょっと貸してみろ」
冷たいまま手づかみで食べようとしていた妹から、皿ごとイカ焼きを奪い取る。
台所へと立つと、シンクの下から小さ目なフライパンを取り出しコンロの上へ。
そこへ少量の酒を入れ熱し、アルコール分がある程度飛んだところでイカを入れると、蓋をし極弱火で蒸すように温めていく。
「これで少しはマシだろ。冷たくて固いままで食うよりは」
「流石はお兄様。いざって時だけ頼りになる」
「……今がいざって時なのかよ。それに"だけ"って」
レンジへ放り込んでは固くなるだけだし、下手にやればイカが破裂してしまう。
ならば自分がやった方がまだ良いかと思ったのだけれど、妹はこんな時だけ調子良く猫なで声を出すのだった。
どのみち自分も腹が減っていたのだ、別にいいのだが。
とりあえず洗い物だけ任せると告げ、フライパンの中で湯気を立てるイカの様子見へ戻る。
ただちゃっかり椅子に腰かけ待機していた妹は、テーブルに頬杖突きまだ願望を口にするのだ。
「でもイカ焼きだけってのも寂しいし、もう少しなにか欲しいのよね」
「なんって我儘な。……んで、具体的にはどうしたいんだよ」
「野菜が欲しい。お昼はうどんだったし、夜は屋台の物だけで栄養面がさ」
遂には頬杖すら崩し、テーブルに突っ伏しながらダレた声で告げる。
そういえばこいつ、夜は縁日の屋台で済ませたなどと言っていたか。
縁日に並ぶ出店と言えば、焼きそばだのたこ焼きだの、それなりに腹へ溜まる物は多い。
肉の串焼きのような物も多いし、甘味だってベビーカステラやリンゴ飴などと豊富に揃ってはいるが、考えてみれば野菜に関してはそう多くないように思える。
例えば牛丼屋に入った時、サラダを一品追加すればどこか許されたような気になる。
例えば焼き肉屋で注文する時、特別食べたいとは思っていないのに、野菜盛りを頼まなければいけないような気がする。
テーブル上で脱力しスライムと化している駄妹は、きっとそんな心境に違いない。
「野菜ねぇ。なんかあったかな」
とはいえ確かに温めたイカ焼きだけでは、少々物足りないというかパンチが弱い。
駄妹の野菜に対する要求と、俺の求めるボリュームを共に満たせる物となると、いったい何があるだろうか。
そう思いながら野菜室を漁っていると、隅におあつらえ向きな代物が転がっているのに気付く。
「お、こいつなんてどうだ?」
「……ゴーヤ? なんでこんな時季に」
「直売所あたりで売ってたんじゃないか。たぶんな」
取り出したそれを見せると、妹は顔を上げ少しばかり怪訝そうにする。
徐々に秋も深まりつつある今の時季、夏の盛りに見るゴーヤは季節外れにも思える。
ただ最近ではちょっと時季から外れていても、スーパーに行けば見かける時はあるし、近所に在る農協の直売所などに行けば、意外にこういった物は転がっているものだ。
栄養価に富んでいるし、ビタミン分などは特に多いと聞く。
苦味によるパンチもあって、個人的にはただイカを食べるよりはずっと満足感が得られそう。
それに今使わなければ、すぐに熟し食べごろを逃してしまいかねない。
「私、あんまり好きじゃないんだけどゴーヤ」
「なら仕方ない、俺だけで食うか」
「いや、どうしてもって言うなら食べてあげなくは」
妹はあまり乗り気でないようだが、俺はもうこいつを食う気満々。
そこで自分だけでと口にするなり、そうはさせるかとばかりに、方針転換の声が妹から発せられるのだった。
よほど自分で料理するのが嫌らしく、俺は背を向け苦笑しながらシンクでゴーヤを洗う。
包丁を入れて縦に割り、スプーンで中の種とワタをこそぎ落とす。
食感が残るよう適当な厚さで刻んでいき、ボールへ入れて少々の塩を振り、優しく揉み込んで灰汁抜きをしていく。
出てきた汁を捨てると、コンロ上につい最近気まぐれを起して購入し、熱心に油を馴染ませておいた中華鍋を置いて、火を点け油を流し入れた。
「兄貴よ、私はそいつも洗わなきゃダメなのか」
「いや、これだけは俺がやる。愛しい我が子をお前の餌食にさせるものか」
中華鍋を目にするなり、ゲンナリとした反応を見せる妹。
たぶんこの手の代物は、扱いが面倒臭いという話をどこかで聞いたからに違いない。
個人的にはそこまででもないと思うけれど、確かに洗い方だのなんだとの、ちょっとだけ注意点が有るにはある。
別にそこまで神経質になる必要はないし、慣れれば大した手間でもないのだが。
とはいえまだ買って間もないのもあって、俺は妹をからかうべくそう返すのだった。
その愛しい鍋へ敷いた油が熱したところで、刻んだゴーヤを投入。
深夜だというのに豪快に音を立て加熱されていく光景に、俺は自然と喉が鳴るのを感じた。
隣のフライパンを見れば、ふっくらと温まったイカが。そいつを取り出してまな板に載せ、適当な大きさに切ってから鍋に放る。
ただ既に美味そうなそいつの脇へ置かれた、さっきまでイカを温めていたフライパンに視線がいく。
酒で薄まってはいるが、イカに塗られていたタレ。こいつを捨てるのは少々勿体ない。
そこで思い切ってタレも中華鍋に流し入れると、すぐさま良い香りが台所へ広がっていった。
「あ、良い匂い……」
「深夜作るにしちゃ、匂い強すぎな気もするけどな」
立ち昇る香りは香ばしく、いかにも胃を刺激してくる。
寝室で眠る両親にまでは届かないと思うが、朝になっても台所には漂っている可能性はありそうだ。
とはいえこうなるともう我慢は出来ず、出来上がったそれをすぐさま皿に移し、ちょっとだけ煎り胡麻を降らせてやる。
鮮やかなゴーヤの緑に、茶色いタレが纏う。
それを目の前に出した途端、さっきまでの微妙な反応はどこへやら、妹もまた喉を鳴らすのが手に取るようにわかった。
「さっさと食って寝ろよ」
二膳の箸を取りそれぞれの前に置き告げるなり、手にした箸を揃って伸ばしてイカとゴーヤを掴み、口に運んで咀嚼する。
柔らかくなったイカに、ゴーヤの青みを感じる苦味と食感。タレの甘さと香ばしい胡麻の風味。
鼻に抜けるそれらと食感をひとしきり堪能し、惜しみつつも飲み込む。
そしてしばし逡巡しつつも一旦箸を置き、妹の方を見る。
すると向こうも同じことを考えていたのか、箸を握ったままジッとこちらを凝視していた。
「何がいい?」
「ビール」
「……さっき祭で飲んだって言ってなかったか?」
「愚問ね兄貴。こいつでビールを飲まずして何を飲めと」
既に呑む前提なやり取りを済ませ、立ち上がって向かうは冷蔵庫。
そこにはよく冷えた、前日から冷やしているビールの中瓶が鎮座しているのだ。
開いた冷蔵庫からそいつを取り出し、あえて小さ目なグラスを取り出すと、迷うことなく栓を抜き雑にグラスへ注ぐ。
無言のままで軽くグラス同士を打ち鳴らし、イカとゴーヤの余韻が残る口へと流し込む。
ゴーヤとビール、共に苦味のモノではある。しかし二つが揃うと旨味すら感じる爽快感が増し、俺と妹は満足感から揃って息を吐くのだった。
「堪んないわ。あと2本は飲める」
「この1本で我慢しとけ。明日も仕事だろうが」
「そんな殺生な。後生でございますお代官様、せめてもう1本」
「諦めろ。というかそもそも冷やしてない」
えらく酒の進む肴となってしまったのは否定できず、妹はさらなるビールの追加を求める。
だが明日は共に仕事だ。コイツを片付けすぐさま眠らなければ、明日に差支えてしまいかねない。
ただ眠るという点で、忘れていた肝心なことを思い出す。そういえば結局、今日も執筆は碌に進んでいないのだ。
その突き付けられた現実を前に、俺は小さなグラスの中身を飲み干し溜息つく。
「どうしたのよ、そんなため気なんて」
「いや、ちょっと最近上手くいかないものがあってな……」
「ああ、そういや兄貴の小説、最近マンネリ気味って感想ついてたね」
「そうなんだよ。どうもワンパターン化してる気がして――」
早々に酒が回ってきたのか、つい妹にも愚痴を溢してしまう。
こいつも俺のことを気に掛けてくれていたのか、率直な感想を口にし指摘してくれるため、いっそもう少し深い内容を相談するのも悪くはないのだろうか。
……などと思ってしまった瞬間、俺はハッとする。
視線をゆっくり上げると、そこにはニヤニヤと表情を綻ばせる妹が。
「お前……、なんで知って」
「ご馳走さま! それじゃ私はもう寝るから!」
何故俺が夜な夜な小説を書いていることを知っているのか。
そしてまさかあのちょっと身内に読まれるのは恥ずかしい、願望を前面に押し出したそれを読んでしまったのか。
といったことを聞こうとする前に、ヤツは音を立てて両の手を合わせると、逃げるように自室へ去っていくのだった。
いや、実際逃げ出したのだろう。
家族にも隠していたはずのそれがバレた動揺から、撤収する妹に向けて手を伸ばしたまま固まる。
後に残されたのは、動揺に立ち尽くす俺。そしてテーブルとシンク内に残された、洗い物ばかりであった。