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26食目 緑の甘い忘れ物


 暗い夜空の下、自宅前の県道を走り遠ざかっていくエンジン音。

 その音に身体を向ける俺と妹は、小さく手を掲げ振り続けていた。



「こうして見送るのは2度目ねぇ」


「そうだなぁ。まさかこんな短期間に、似たような行動を取るとは」



 エンジン音を発する車の赤いテールランプが、交差点を曲がり見えなくなっていく。

 そこでようやく振る手を下ろした俺は、夜風へ紛れ込ませるように嘆息を漏らした。


 しかしその小さな音は、隣で立つ妹に聞こえていたようだ。

 チラリと横目でこちらを見ると、ちょっとばかり可笑しそうな素振りで問うてくる。



「兄貴、実はかなり寂しいんじゃ?」


「馬鹿を言え。ようやく静かな生活に戻れるんだ、喜びこそすれ寂しいなんて」


「だってあの子、兄貴に一番懐いてたもの。口惜しいくらいに」



 妹の言葉に、精一杯の強がりを表に出して否定する。

 しかし妹はそんなものを意に介さず、確信を持って言うのだ。間違いなく、俺が寂しがっていると。


 俺はもう一度、車の消えた方を眺める。

 今はもう車の音すらせず、ただただ信号機の色が移り変わっていく光景が映るのみ。

 その光景の次に足元を見ると、そこにはなにもない地面。手にはリードの感覚もなく、脚に纏わりつく柔らかな感触も無い。

 妹の言うように、小さな喪失感を否定できそうもなかった。



 妹の大学時代の先輩とやらから、子犬を預かってしばし。

 結局1週間近くに渡って預かっていたその子犬は、今まさに本来の飼い主の手に戻っていった。

 確かに妹が言うように、何気にあの子犬は俺へ最も懐いていて、夜などは必死に俺が眠るベッドに上ろうとしてきた。

 そんな光景を思い出すと、なかなかに"くる"ものがある。



「なんか私もペットが欲しくなっちゃった」


「一応却下だ。気持ちとしては理解できるが、連休が終われば面倒を見きれないだろう」



 当然可愛がっていた子犬が去っていったことで、妹にはとある欲求が芽生える。

 去った子犬に代わり、別のペットが欲しくなるというのは当然と言えば当然。

 けれど今それを認めてやる訳にはいくまい。なにせ今はゴールデンウィークの最中だからいいが、それが過ぎればまたもや忙しい日々がやって来る。

 常に目を掛けてやらねばいけない小さな動物を、迎えている余裕はないのだから。



「ならトカゲとかヘビとか、爬虫類系なら……」


「犬じゃなくてもいいのかよ。だがそっち系を飼うならお前だけで面倒を見ろよ、俺は絶対にやらん」


「なによケチー。ちょっとくらい可愛がってもいいじゃん」


「別に爬虫類は嫌いじゃないんだよ。……ただエサがダメでな」



 確かに爬虫類の類であれば、犬猫に比べて格段に手は掛からない。もちろん種類にもよるのだけれど。

 温度調整の道具やら水入れやケージやらと少々かかるが、それだって犬を迎えるのを思えばそう変わるものではなかった。


 しかし難点は、それらが食べるエサ。

 別段爬虫類の類がNGという訳ではないのだが、これが飼うのを止めさせる最大にして唯一の理由だと言っていい。

 ……まあ、そこらへんは今は考えるのを止めておくとしよう。



「でも残念、あの子もワンちゃんを可愛がってたのに」


「だなぁ。家で預かってた1週間の間に、何回来たんだか」


「やっぱ犬よ犬。私は友達が来て嬉しい、兄貴は小説の内容を相談できる相手が来て嬉しい。本人も犬と遊べて嬉しい。Win、Win、Winよ」


「だとしてもダメだ。第一、親父たちが帰って来た時になんて言うつもりだよ」



 俺たちはそんなやり取りをしながら、エレベーターに乗って戻る。

 子犬を預かっている最中、実のところもう一つ良いことがあった。

 それは子犬目当てで後輩が家に入り浸っていたことであり、妹が言うようにこちらもそれなりに良い想いをさせてもらっていたのだ。

 同じく小説を書く側である彼女とのやり取りは楽しく、会社での先輩後輩という垣根を超え、この時ばかりはある種の友人のように接していたように思える。


 もちろん会社では公私の区別をつけ、スッパリと先輩後輩の間柄に戻っている。

 下手に会社でもそんな調子では、上司に関係を疑われかねないというのもあって。



「ところで、今夜は何を作るの?」



 玄関を入り、俺が自室の扉へ手をかける。

 そこで背に向け降りかかったのは、妹による夜食の催促。



「お前さっき食ったばかりだろうが。まさかもう夜食を用意しろってのか?」


「別れの涙は心に多くの傷を付け、カロリーを奪っていくの。だから速やかに補給しないと」



 なにやらよくわからない理屈をこね、強烈に夜食を求めてくる妹。

 つい3時間ほど前に夕食を済ませたばかりで、俺はまだ全然腹が空いてはいない。

 だがこの駄妹は、もう小腹が空いたなどと抜かしやがられる。なんというか、相変わらず燃費の悪いヤツだ。


 俺はその言葉に嘆息し、取っ手から手を離し台所へ向かう。

 子犬の世話も終わったことで転がり込んできた暇な時間。それを早速執筆に当てようとしていたのだが、たぶんこちらを先に解消してやらねば五月蠅いだけだろう。

 一応子犬の飼い主から、土産として菓子の類はもらった。

 しかしこいつを夜食とするには少々抵抗があるし、今はまだ顕著に現れてはいないが、こう毎日では妹の腹が心配にならなくもない。



「さて、何を使うか……」



 ならば今日も比較的ローカロリーに仕上げたいところ。

 それにさっき夕食を終えたのだ、食事というよりは酒の肴に寄せるのが無難かもしれない。

 そう考え冷蔵庫の中をあさっていくのだが、ふと冷蔵庫内の隅へ、とある食材があるのを見つけ手が止まる。



「ああ、あげ忘れちゃったんだ……」


「喜んで食うと思って取っておいたんだがな。今夜の分にでも混ぜてやりゃよかった」



 俺がそいつを手に取ると、後ろから覗き込んだ妹は少しだけ寂しそうに呟く。

 掴んだそれは薄緑色をした円筒形に近い形状の野菜。というか花蕾を除いた茎部分のみのブロッコリーだ。


 ブロッコリーをブロッコリーたらしめる花蕾は、サラダとして俺と妹が食べた。

 一方この茎部分は子犬にあげようと取っておいたのだが、結局あげる前に元の飼い主の下へ戻ってしまった。

 野菜をあげる度に喜んでいたので、こいつでどういう反応をするか楽しみだったのだが、それを見ることは叶わなかったのだ。



「このまま腐らすのも勿体ないし、こいつを使うとするか」


「ブロッコリーの芯を? どうやって」


「別に犬専用の野菜じゃないんだから、普通に料理すりゃ食えるって。とりあえず、他にも色々と使ってだな」



 俺はそう口にすると、他にいくつかの食材をピックアップ。赤パプリカ、それに豆腐といったところか。

 とりあえず豆腐をキッチンペーパーで包んでから、重石をして少しばかり水分を抜く。



「しばらく時間がかかるから、その間に……」


「その間に?」


「片付けだな。家の」



 俺はそう告げると、台所を出てリビングへ。

 入ってから立ち止まり眺めると、カーペットや棚などあちらこちらがグチャグチャになった光景が。


 犬を預かってからの1週間ほど、ずっと嵐のような日々であった。

 なにせ子犬であるためヤンチャの極み。ひたすらに暴れ回り、家を破壊せんばかりの勢いで暴風を撒き散らしていたのだ。

 もっともそれはそれで楽しく、子犬という一番かわいい時期であるのもあって、怒る気すら起きはしない。

 しかし片付けは必要だ。明日以降の生活のためにも。



 俺と妹は豆腐の下準備が終わるまで、家の後片付けを行うことに。

 それも粗方済んでから台所へ戻ると、豆腐が良い頃合いになっているのを確認し、納得して他の食材へと取り掛かる。

 ブロッコリーの芯と赤ピーマンを短めの細切りとし、こいつを塩茹でにするのだが、その間に妹には別の事をやってもらうとしよう。



「お前はこいつだ。全力ですり潰せ」



 そう告げて妹に渡すのは、すり鉢と白胡麻。

 妹がそいつをすり潰している間に、重石をしておいた豆腐に巻いたキッチンペーパーを取り出す。

 渋々ながら胡麻を擦っていく妹に手を止めぬよう告げると、その豆腐を千切ってすり鉢へ放り込んでいく。

 潰した胡麻と馴染ませていくように合わせていき、砂糖や薄口しょうゆ、それに少量の味噌を加える。



「あとは塩茹でした野菜を合わせて、と」


「お酒はどうする?」


「じゃあ日本酒で。そうだな……、たまには燗にでもするか」



 出来上がったそいつは、豆腐の白に野菜の緑と赤が映えた白和え。

 今日は食事よりも酒の肴ありきなので、こんなところで十分だろう。


 ともあれ肴の方はこれでほぼ準備完了。後は少しだけ馴染ませるために置いてやればいい。

 俺は妹に鍋へ湯を沸かさせると、小さな徳利に入れた日本酒を沈めた。

 ここ最近は随分と温かくなって、下手をすれば夏日に近い気温。けれど今日の肴には燗酒も合うだろうし、むしろそういう時期だからこそ美味いと思えるかもしれない。

 それに子犬が去ったことで少々侘しい気分も、温かい酒であれば多少は紛れさせてくれるはず。


 その酒がほど良く温まったところで、完成した白和えを小鉢に盛り、徳利を持ってリビングへ。

 座って手を合わせると、早速酒へと手を伸ばした。



「あ、いい香り……」


「ちょっと良いヤツを出したからな。餞別ってことで」



 早速酒に手をつける妹は、一口呑むなりホッと息を吐く。

 俺も同じく口へ含み、猪口に入った分を飲み干すと、鼻へと強い芳香が抜けていく。

 しばらく前に買った北陸の酒だが、なかなかに良い値がしたそれは、一口飲んでしっかり旨いと思えるものであった。



「逆にこっちはちょい薄目かも」


「酒ありきの物だしな。でもこのくらいで丁度良かろう?」


「まあね。ていうか結構甘いね、ブロッコリーの芯」



 酒で口を潤し、今度は肴に手を伸ばす。

 作った白和えは基本が豆腐と野菜であり、あまりカロリー云々を気にしなくていいのが救い。

 ただ妹が言うように、加えた野菜はそれなりに甘さを持っており、決して満足感を得られないということはなかった。

 普段はあまりこういった物を作ったりはしないが、たまにはこういう和食然とした小鉢も悪くはない。


 妹の方もそれなりに、この白和えが気に入ったらしい。

 以前はどちらかと言えば子供舌の部類だと思っていたのだが、いつの間にか味覚も歳相応になりつつあるようだった。



「俺の個人的な財布で買ったヤツなんだから、ありがたく呑めよ」


「へいへーい。おかわり」


「……人の話を聞いてやがらねぇな」



 その肴をパクつく妹は、どんどん料理と酒を減らしていく。

 別に白和えの方はまだまだあるからいいのだが、酒の方はもうちょっとペースを落として欲しいところ。

 なにせ買うときに10分近く棚の前で悩んだ末、ようやくレジへ持っていったような額なのだから。


 ただ確かにこの日本酒、香りは高くとも軽い口当たりで、すいすい呑めてしまう。なので妹が飲んでしまうのも理解は出来た。

 とはいえ徳利の中身を速攻で空にしていかんばかりの勢いであるため、そろそろ自重させたいところ。



「あー、酒が旨めぇ」


「感想の言い方がおっさん臭すぎるだろ。もうちょっと品行方正さをだな……」


「あ、そういや漬物残ってなかったっけ。あれも食べたい」


「やっぱり人の話を聞いていやがらねぇ」



 かなり酒が進んで酔いも回ってきたのか、妹は大きく息を吐く。

 俺はそんな妹から徳利を奪い返すと、自身の猪口にも酒を満たした。

 上機嫌なのは良いことだが、この一定のラインを越えると微妙に酒癖が悪くなるのは勘弁願いたいところ。

 俺は何度目かとなる攻防を経て徳利を死守すると、代わりに台所から水を持って来た。


 不満気な表情をする酔っ払いを宥め、座布団の上に腰を下ろす。

 ただ腰を落ち着けようとするも、胡坐をかいた膝の上が少々寂しいのに気付く。

 ここ最近は食事時など、膝の上ではずっと子犬が丸まっていた。さっき摂った夕食の時もだ。

 その膝上から子犬が居なくなった軽さに、一抹の寂しさを感じてしまうのは致し方ないのではないか。



「やっぱり寂しい?」


「少しだけな。だが仕方ない、本来の飼い主のところへ戻りたいだろうし」



 そんな俺の表情が表に出ていたのかもしれない。

 妹はちょっとだけ心配そうに、俺へと子犬が居なくなった寂しさを問うてきた。


 どうしても、そこを否定することは出来そうにない。だがかといって、飼い主に返さぬという訳にもいかない。

 子犬を受け入れてすぐ旅行に行ってしまったりと、どうにも不安の残る飼い主ではあるが、一応返す時には妹が懇々とイロハを教えた。

 向こうもちゃんと真剣に聞いてくれていたようなので、たぶん下手な扱いをされることはないはずだ。時々は顔を見せに連れて来てくれると言っていたことだし。


 しかし俺以上に、実のところ妹の方がより喪失感が強かったのかもしれない。

 グラスに入った水を一気に飲み干しテーブルに置くと、妹はどこか強い決意を口にした。



「やっぱり私、犬が欲しい」


「お前はまたそんなことを……」


「でも無茶じゃないでしょ、今は私だって収入あるんだし。……まだかなり少ないけど」



 立ち上がって拳を握り告げたのは、家でも犬を飼おうという提案だ。

 元来が動物好きであるというのもあって、今回子犬を預かったことでその欲求に火が付いてしまったらしい。


 確かにコイツの言うように、収入面だけを見れば飼えるのだとは思う。

 トイレ用のシートやエサに予防接種など、色々と出費が嵩むのは否定できないが、そこら辺は細々としたところを節約していけばクリアできる。

 犬の入手に関しては……、とりあえずボーナスでも当てればなんとかなるはず。


 などということを考えている内に、いつの間にか自分も乗り気であるのに気付いてしまう。

 どうやら俺自身もまた、相当に犬を欲し始めていたようだ。

 見れば妹の目は爛々としており、本気のほどが伝わってくるかのよう。

 きっと諌めても諦めしないだろうと思えてきた俺は、遂には「親父たちに許可を取ってからな」と告げ、折れることにしたのだった。



「ならしばらくはこの晩酌もお預けだな。節約のために」


「そ、それはちょっと……」


「そのくらい我慢できるだろ。それにあまり幼いのはダメだ、昼間の留守番が出来ない」



 ならばと俺は、せめてもの最低条件を提示する。

 まずは節約。とは言うものの、おそらく毎夜の夜食や酒の肴は止められないだろう。なのでせめて材料費を極力落とす。

 それに子犬が欲しいのは否定できないが、せめて生後4か月くらいにはなっていた方が、俺たちも色々と楽であろうから。


 もっとも本当に犬を飼うとなれば、母親が飛んで帰ってくるような気がしてならない。

 あの母親は結婚以降ずっと父とベッタリではあるが、実のところ俺や妹以上に重度の犬好きであり、その世話をするためだけに父親を放り投げて戻って来かねない。

 もちろんそれを期待をする訳ではないのだが。



「じゃあそれまでは、作中にでも登場させて気持ちを慰めるしかないわね」



 渋々ながら了解をした妹は、こちらも条件を出すとばかりにとある決定を下す。

 それは現在書いている話の中に、犬を登場させようという魂胆だ。



「ちょっと待て、それは確定なのか? というか(さくしゃ)の同意もなしに」


「……だってあの子とも話してたじゃない」



 俺が若干の文句を口にすると、妹はすぐさま反撃を繰り出す。

 そういえば先日後輩と犬を前に話をした時、そんな約束をしたのであったか。

 登場させるにしてもまだ先の話となるため、つい失念してしまっていた。


 ただこの様子だと、妹はより速くその展開を望んでいるようだ。

 となれば早々に登場させるしかないと、俺はまず名前から決めるべく、スマホを取り出すのであった。


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