25食目 小さな豆玉の乱入ドリア
フラフラとした足取りで、ゆっくりマンションの廊下を歩き自宅の前へ。
なかなかに忙しい一日を過ごした俺は、疲労と強い眠気を感じながら、なんとかバスに揺られ帰宅を果たした。
時刻は夜の22時。本来であればとっくに帰宅している頃だが、今日は退社直前に少々トラブルが起きてしまい、片付けるのにかなりの時間を要してしまった。
ただ起きたトラブルの度合いにしては、思いのほか早く帰宅できた方にも思える。
とはいえ疲労の度合いはなかなかのもので、俺はすぐさまベッドに飛び込んでやろうと、強い決意と共に玄関のドアを開いた。
「おかえり兄貴ー」
「あ、お邪魔しています先輩」
玄関を越え、とりあえず帰宅を告げようとリビングへ向かう。
ただそこで目にしたのは、リビングで床に腰を落とす妹と、その斜め向かいで膝を曲げしゃがみ込む後輩の姿。
そういえば玄関に見慣れない靴があったが、あれは彼女の物であったか。
この日彼女は休日であったため、こうして我が家に遊びに来ていたのだろう。
ただその事に納得しつつも、俺は目の前にある光景を見て呆気にとられる。
こうして彼女は度々我が家を訪れるが、基本的には毎回妹に呼ばれてであるらしい。
当人に聞いたところ、別段迷惑に思っている訳でもなく、むしろ楽しんでいるようなのでそこは救い。むしろ妹にとって良い友人が出来たのを喜ぶべきだ。
しかし今回、問題となるのはそこではない。
妙に間隔を開けて腰を落とす両者の間へ存在する、とある姿が目に映ったからだ。
「ああ、いらっしゃい、ゆっくりしていってくれ。……ってそうじゃない!」
「なによ。彼女が珍しく私服姿でいて眼福だって? このスケベ兄貴」
「いやそれも違う。確かに珍しい物が見れたとは思うが」
後輩へ歓待を告げた直後、首を振って思考を振り払う。
そんな俺に対し、妹は揶揄しながら後輩を指した。
今日の彼女は休日であると言うこともあって、普段見慣れたスーツ姿ではない。
非常にラフな、デニムとシャツという出で立ち。
ここ最近は随分と暖かくなった影響で薄着となっていて、妹とは違い非常に起伏に富んだ体形が目につく。
そういう面では確かに妹が言うように、眼福であると言っていいのだと思う。
しかしこれもまた呆気にとられた理由ではない。
俺は手を上げ妹と後輩の間を指すと、いまだわざとスっ呆ける妹に問うた。
「いったいなんなんだ、その"犬"は?」
2人の間にある存在。そいつは全身を覆う体毛と垂れた耳、そして四つ足を地面に着け、赤い舌を出し尾を振る生き物。
……つまりは犬だ。それも子犬。
おそらくはまだ生後半年も経っていないであろう、小さな体躯を持つそいつは、クンクンと後輩の指を嗅ぎ舐めていた。
「まさか拾って……」
「違うって。そもそも最近野良とか捨て犬ってまず見ないし」
真っ先に浮かんだのは、妹がどこぞやで拾ってきたという可能性だが、そいつは速攻で否定される。
言われてみれば、確かにこいつの毛並みは綺麗なもので、日頃から手入れをされていることが窺える。
さらに細く小奇麗な首輪もしているため、飼い犬であることは間違いない。
「さては他所様の犬を誘拐し――」
「蹴るわよ」
次いで浮かんだ可能性を口にしかけると、妹は憮然とした表情のまま拳を握り、攻撃の意志を示した。
もっともこれに関しては冗談だ。いくら傍若無人なコイツだろうと、流石にそんな真似をするとは思わない。
となれば考えられる理由としては、このあたりだろうか。
「で、誰から預かったんだ?」
「ちゃんとわかってるじゃん。大学の先輩にさ、しばらく留守にするから面倒を見て欲しいって」
俺が発した最もありえそうな可能性。そいつは知人から預かったというものだが、どうやらそいつは正解であったらしい。
詳しく話を聞いてみると、休日を家でダラダラしていた妹に、今日になって突然その先輩とやらから連絡が有ったようだ。
件の大学時代の先輩とやら、どうやら前々から旅行の計画を立てていたものの、肝心なペットホテルの予約が出来なかったらしい。
折りしも今はゴールデンウィークの直前。そんな時期というのは大抵どこも一杯で、当然預けたくとも空いているはずがない。
そこで救いを求めたのが、ペット可のマンションに住まい以前は犬を飼っていたこの駄妹。
「子犬が居るのに旅行なんて行くなよ」
「私もそう思ったけど、最初は連れて行くつもりだったらしいのよね。でも宿泊先が、ペット可の宿だって勘違いしていたらしくて」
「なんというか、色々と抜けてる人だな……」
なかなかに暢気な人であるというのは置いておくとして、確かに預ける先としては無難なのだとは思う。
昨今ペット可のマンションが増えているとはいえ、まだまだ多くはない。
それにもう何年も前ではあるが、犬を飼っていたため俺たち兄妹は経験者。
加えてGWの期間中ずっととはいかないが、多少の休みも貰えるため、妹と分担すれば比較的面倒が見られるのだから。
「……仕方ないな。今さらダメなんて言っても、逆に困るか」
「じゃあOKね。良かったねぇ、お前ここに置いてもらえるってさ」
「テメェは少しくらい反省しやがれ。せめて連絡の一本でも寄越せっての」
「仕方ないじゃん、相談されたのだって夕方のことだったんだから。連れてきたのもついさっきだし」
悪びれもせず、飄々と言い放つ我が駄妹。
とはいえもう預かってしまった以上、飼い主に責任を持って連れて行けとも言えやしないし、言ったところで困るだけだろう。
文句の一つくらいは言いたい気はするが、とりあえず今回は預かるとしよう。
俺は小さなため息をつきながら、尻尾を振る子犬へ手を伸ばす。
一瞬だけ警戒感を露わとするも、好奇心が勝ったかすぐさま指先を嗅ぎ始める子犬。
……まぁ、正直犬は好きだし問題はないか。
俺がそんな事を考えていると、ここまで口を噤んでいた後輩が、子犬を抱き上げて穏やかな表情を浮かべる。
「先輩って、犬を飼った経験があるんですね」
「俺が高校の頃までだけどな。10年くらい前の話だから、勝手を覚えているかどうか……」
子犬を抱き抱える後輩はそう言って、ちょとだけ目を輝かせた。
聞けば彼女自身も犬を飼った経験があり、今も実家には愛犬が居るとのこと。
なので一人暮らしの寂しさもあってか、犬を預かることにした妹の話にすぐさま飛びつき、こうして撫で廻しに来たらしい。
気持ちとしてはわからないでもない。
俺はしばし、抱き抱えられたその子犬の頭を撫でる。
以前に飼っていた犬が老衰で逝ってしまって以降、新しく犬を迎え入れるという話もあったのだが、俺の進学やらもあってなんとなく有耶無耶になってしまった。
なのでなんとなく、懐かしさもあってこの子犬を構っていたのだが、ふと自身の腹が鳴り始めるのに気付く。
……そういえば、まだ夕食も摂っていないのだった。
子犬の出現で眠気もすっかり吹き飛んでしまったのもあり、俺はそのまま台所へ。
なにか適当な食材を見繕って料理でもと考えていると、足首へ当たる柔らかな感触が。
下を見てみると、そこには身体を押し付けてくる子犬の姿。いつの間にやら、俺を追いかけて台所に来てしまったらしい。
「なんだ、お前も欲しいのか?」
見上げる子犬は、ジッと俺を見つめる。
なかなかにカワイイやつだ。どことなく、妹が小学校の低学年くらいの頃を思い出す。
あいつもこうしてずっと後ろにくっついては、俺を見上げていたのだったか。
「っていうか、あまり台所に入って来るなよ。ここにはお前にとって危ない物が多いんだからな」
しゃがんで頭を撫でてやると、子犬は嬉しそうになお身体を押し付けてくる。
なんというか、非常に庇護欲をそそられる仕草だ。
もう少しばかり構ってやりたい衝動に駆られた俺は、リビングに向けて声を発する。
「おーい。こいつの食事はもうやったのか?」
リビングに居る妹へそう声をかけると、ヤツはのそりと顔を覗かせる。
そうして近づき子犬を抱き抱え、頷きながら問いへ肯定を返した。
「一応ね。兄貴が帰ってくる少し前に、預かっていたフードを」
「ならもう何も食わせない方がいいか……」
「ちょっとなら良いんじゃない? 飼い主の先輩も、おやつ的に少しだけ野菜をあげてもいいって言ってたし」
どうやら僅かであれば、こちらの裁量でおやつをあげてもいいと伝えられているようだ。
となれば俺の食事を作る片手間に、こいつになにか一品作ってやってもいいのかもしれない。
俺がそんな甘やかし気味な考えをしているのに気付いたのだろうか。
妹は子犬の鼻先をいじりつつ、ニヤリと笑みを浮かべた。
「折角だし、私たちのもヨロシク」
「……そう言ってくると思ったよ」
「丁度これから、ワインでも開けようかなって話してたのよね。だから良い感じの肴でもあれば嬉しいかも」
どうやらこの駄妹と後輩、最初から預かった子犬の可愛さを肴に、酒盛りをするつもりであったようだ。
俺は丁度そのタイミングで帰ってきた、哀れな犠牲者といったところか。
ただ後輩の方は、俺を手伝うべく台所に来ようとしているのだが、「任せとけばいいじゃんかー」と縋る妹による妨害を受けていた。
なのでやはり、ここは俺以外に作る者が居ないらしい。
それにしてもワインか……。
俺はチラリとリビングを覗くと、テーブルの上に出してあるボトルを確認する。
どうやら物は白。そこまで物珍しくも高価でもないが、延々それだけを飲んでいられる癖のない品だ。
「白ワインに合って、余り物で作れて、なおかつコイツが食える料理か……」
俺は冷蔵庫の中身を眺めつつ、チラリと足元へ視線をやる。
そこにはいつの間に慣れたのか、俺の足へ身体を預け、うつらうつらとし始めた子犬の姿。
コイツが食べることの出来るというのが、今回に置いては一番の関門かもしれない。
まず犬にとって絶対にNGと言える、チョコレートやネギの類は論外だ。
それにまだ子犬、ガッシリした肉や魚といった物も受け付けないだろう。となれば…………。
俺は作る料理を決めると、必要な材料をどんどん冷蔵庫からピックアップしていく。
冷凍ごはんに、ニンジンや大根など中途半端な使いかけのクズ野菜。それと豆乳。
ごはんをレンジで溶かしている間に、野菜を全て刻んでいく。細かく細かく、喉に引っかからぬように。
そいつを豆乳と共に小鍋に入れ煮ていき、溶けた米を放り込んで、混ぜながらさらに煮ていく。
半分ドロドロになってきたところで、耐熱皿と小皿へ分けて取り出し、耐熱皿の方にだけ塩と胡椒加えた。
耐熱皿の方へはさらに上からチーズを乗せトースターへ。
高温で焼き目を着けている間、別に取っておいた小皿の方は、スプーンで混ぜて温度を下げていく。
そうして人肌程度になった頃にはトースター内のそれも、コンガリと良い色合いに。
俺はその双方に満足すると、近所迷惑にならぬ程度の大きな声を発した。
「出来たぞ、テーブルの上を空けとけー」
俺はそう告げ、トースターから取り出した耐熱皿を持ってリビングへ。
足元をトコトコとついて歩く子犬を踏まぬよう、慎重に熱いそれを持っていくと、2人は準備万端テーブル前で正座をし、ほのかに赤くなった顔で待っていた。
どうやらもう既に、そこそこ出来上がっていると見える。
俺はそんな酔っ払い2名の前に、鍋敷きと耐熱皿を置く。
グツグツと煮え立つそれは、真っ白な中に黄色や赤が混じるドリアだ。
「熱いから近づくなよ。ほら、お前には別のをやるから」
そんな出来上がった料理に、子犬も興味をそそられたらしい。
テーブルの上へ前足をかけよじ登ろうとしたため、抱き抱えて制し後輩に押し付けると、いったん台所へ戻り置いておいた小皿と共にリビングへ。
その頃にはとっくに妹が食べ始めており、俺はヤツの姿に嘆息しながら、子犬の前に皿を置いてやる。
すると子犬は僅かな警戒を経るも、すぐに口を付け始めた。
良かった、ちゃんと食ってくれているようだ。
「豆乳のドリアですか。これならワンちゃんも食べられますね」
ひたすら「ウマイ」と言いながら食べる妹と違い、こちらは同じ酔っ払いでも会話を試みてくれる。
後輩は小皿に取ったドリアをスプーンで掬い、口から熱を逃がしながら笑みを浮かべた。
「タマネギとかベーコンでも入れればもっと美味いんだろうが、今日はそれが食えないヤツが居るからな」
「十分甘みが出ていると思いますよ。この豆乳って、無調整のですよね?」
「流石に加糖してある物を、犬にやるのは気が引けてな」
普段こういった物を作る時は、ベーコンをタマネギなどの野菜と一緒に炒めてから作っている。
ただ犬にネギの類は厳禁であるし、ベーコンの油分もあまり子犬の身体に良い影響を与えるとは思えない。
なので普段は使っているバターも我慢。少々コクが足りないだろうかと思ったのだが、そこはちょっとばかり大目に乗せたチーズが補ってくれたようだ。
視線を再度子犬にやると、こちらはこちらで必死に食べ続けている。
口の周りを真っ白にしている様は、なんというか非常に微笑ましい。
見れば後輩も自分が食べる手を止め、ウットリするように子犬の食事を眺めていた。
すると彼女は突然にハッとし、子犬を観察しながらなにかを思案し始める。
いったいどうしたのだろうかと思っていると、チラリとこちらを見て、おずおずと問いを口にした。
「犬って、どうなんでしょう。出すのは」
「出す……? ああ、作中に登場させるかどうかって話か。いいんじゃないか、キャラの個性付けとかにも使えるだろうし」
どうやら子犬を見ていて、自作に犬を登場させるのはどうかと思い至ったらしい。
個人的にそれは悪くないと思う。飼っている犬を大切にしているキャラであれば、そういった方面の性格付けが出来るし、イベントにだって使えるのだから。
逆に個人的にあまり好まれない類だとは思うが、陰湿な性格をしたキャラ作りにも使えるはず。
「特に現代が舞台の話だとキャラとして扱い易いはず。犬に限った話じゃないが、ペットを飼っている人は多いしな」
「で、ですよね! 先輩も書いてみたりするんです?」
「そうだな、悪くないと思う。折を見て考えてみようか」
「ならあたしも登場させて……、みようかな」
俺の乗り気な言葉を聞いたのもあってか、後輩は表情を弛緩させる。かなり良い展開でも浮かんだのかもしれない。。
自作にこいつのような子犬を登場させることで、なかなかに良くなりそうな展開を思い付いたと見える。
だが確かに現代モノに限らず、ファンタジーだろうと動物キャラは十分ありだ。
これは良いアイデアを頂戴したかもしれないと、俺も口元を綻ばせるのだが、そんな俺たちへ向け発せられる声が。
「あーヤダヤダ。見てみなよ小僧、人の前でラブ時空を発生させてやがる。イチャコラしやがって」
見ればそこでは、妹が子犬を抱き抱えて前足へ触れ、こちらを指すように動かしていた。
同時にジトリとした睨みつけるような目をしており、かなり酒が進んで泥酔状態であることが窺える。
1人でよくここまで酔えるものだと思いながら子犬を見てみると、そいつには妹が言う通りオスであることを証明するモノが鎮座していた。
「誰がラブ時空だコラ」
「そ、そうです! あたしは決してそんな……」
俺は別にいいんだが、こんな事を言っては後輩にとっては堪ったものではないだろう。
そこで俺が妹に否定を告げると、後輩も酒でちょっとだけ赤くなった顔を、もう少しばかり染め俯いた。
そんな彼女を見て、大きく息をつく妹。
ヤツはグラスに残った白ワインを一気に煽ると、追加でさらに注ぎながら、子犬の頭を撫でまわす。
だがそれを嫌がったのか、跳ねるような歩き方で俺の膝上に来る子犬。
妹は子犬が手元から離れたことが不満であるらしく、なお機嫌を悪化させたようで、代わりにワインボトルを抱え込むのであった。




