21食目 後輩魚と書き物と
相変わらずな、完全に陽が落ちきってからの帰宅。
冬場であるのだから日が落ちるのが早いのは当然。とはいえ夏場であっても似たようなもので、ついぞ最近帰宅時に日光を拝んだ記憶がない。
とはいえ忙しいのは幸いなことであると、半ば強引に自らへと言い聞かせ、俺はこの日も自宅への帰路を歩いていた。
自由に使える車でもあれば、もっと通勤も楽にはなるのかもしれない。
少なくとも暖房が利き過ぎなバスで汗まみれにはならないし、人に押されてスーツが皺まみれとはならないだろうから。
だが家で使っていた車は、父親が転勤に伴い持っていったため、現在駐車場は空。
それにどちらにせよ、職場近くには置く場所がないのだから、俺のささやかな願望が叶う日は来ないのだと思う。
「あー……、肩痛てぇ」
そんな気怠い帰路を歩きながら、俺はさっきからずっと頭の大部分を占めていた感情を吐露する。
通勤用に車が欲しいという感情は、まさにこれから来ているのだろう。
何故なら自身の肩には、普段なら決して持ち歩くことのない、やたらと重量のある荷物が下げられていたからだ。
「だ、大丈夫ですか先輩? あたしも少し持ちますが」
重い荷物を肩に下げ歩く俺へと、隣を歩くその人は心配そうに問う。
俺の自宅から少しだけ行った先に住む彼女は、今年入ってきた俺にとって後輩に当たる娘。
そして妹にとっては、新しくできた友人とも言える相手だ。
彼女は俺の荷物と顔を交互に見ながら、自身も持とうと手を出してくる。
だが肩にかかる重さは10kg近くに及び、この後輩に持たせるのは少々しのびなく思えてならない。
別に女性護るべしなどという考えではないが、彼女はどちらかと言えば小柄であるため、重い荷物を持たせることで人の目が気になってしまうのだ。
「大丈夫だよ。……ついつい思ってる事が口から漏れてしまっただけで」
「やっぱり辛いんじゃないですか。会社からずっと先輩が持ちっぱなしですし、少しくらいは……」
歩くことで荷物が揺れ、中からはガラリと軽い音が鳴る。
しかし音は軽くとも、中に入っている大部分は氷であり、相当に重量があるのは確か。
そんな音と俺の弱音を聞かされたせいか、後輩はなお負荷がかかる肩を心配そうに眺めていた。
会社からの帰路に、後輩と共に歩きながら多量の氷の入った荷物を運ぶ。
言葉にするとなにやら不可解で、普通であればどういった状況であるのか首をかしげたくなる。
ただこんな物を運んでいるのには、相応の理由があった。
「それにしても、まさかこんな大量に貰えるとは……」
「多くても、この半分くらいだと思っていました。いったいどれだけ釣ったんでしょう??」
「数人連れだって釣りに行ったら、揃って大量だったらしいぞ。そのしわ寄せがこっちに来たみたいだな」
俺たちはどこか呆れたような表情で運ぶ荷物、クーラーボックスへと視線を向けた。
この日、昼休みにノンビリとスマホを眺めていた俺は、唐突に上司から声を掛けられた。
まさか知らず知らずの内に、とんでもない失敗でもしていたのだろうかと戦々恐々としたのだが、実のところ用件はそういった内容ではなかったようだ。
その上司によって伝えられたのは、昨日行った釣りによって得られた大量の魚を、少しばかり引き受けてもらいたいというもの。
上司は俺がある程度料理の出来ることを知っていたため、渡りに船であると思ったらしい。
どうにも切実っぽい雰囲気であったため、俺は上司の機嫌取りも兼ね、笑顔で了解を口にした。
ここ最近は魚を口にする頻度が減っていたというのもあり、数匹程度であれば食べ切れると判断したからだ。
しかし喜び勇んだ上司が終業後、一旦帰宅し急いで持って来たのは大きなクーラーボックス。
開いてみると、丸々と太った大振りな鯖が十数匹も大量の氷に埋まっており、それを見た瞬間想像を超えた量に絶句する。
幸いにも頭と内臓は除いてくれていたが、それでも俺と妹だけでは間違いなく持て余す量。
『じゃ、頼んだよ。クーラーボックスは来週にでも返してくれればいいから』
そう言って押し付けると、上司はそそくさと帰宅していった。
おそらくあまりの量であるため、断りの言葉を入れられる前に逃げ出したのだとは思う。
しかし途方に暮れる俺にも、若干の救いは存在したらしい。
今まさに隣を歩く後輩が、その時はまだ所用あって会社に残っており、数匹であれば手伝ってくれると申し出てくれたのだ。
「それで先輩、これどうしましょう……」
「とりあえず大部分は冷凍だな。何匹かは今日中にでも食ってしまうか」
クーラーボックスの中でさらにビニールに包まれているため、生臭い臭いを振り撒くことも無くなんとかバスで移動。
そこまではいいのだが、こいつをどうするかに関してはまだ解決していない。
ひとまず今夜の食事にでも一部を使い、残りは冷凍して少しずつ減らしていく他なさそうだ。
となれば目下の問題は、こいつを使って今夜何を作るかだが……。
「という訳だから、今夜消費するのを少しばかり手伝ってくれないか?」
「は、はい! あたしで良ければ、何十匹でも!」
「そこまで無理をさせる気はないよ。そんなに毎日同じ魚ばかり食べちゃいられないだろう」
作る物に関しては、家に残っている食材と相談して決めればいいか。
そう考えた俺は、それでもなお持て余す多量な鯖の消費を、後輩にも手伝ってもらいたいと口にする。
彼女は何匹かを受け持ってくれるとは言っていたが、実のところもう少しだけ頼みたいところだった。
すると彼女は自身の胸をドンと叩き、任せて欲しいとばかりに胸を張った。
やはり良い娘さんだ、毎度のように思うが、妹に爪の垢でも煎じて夜食に混ぜてやりたいと思うくらいに。
そのまま後輩を連れた俺は、マンションの入り口をくぐる。
エレベーターに乗って上階に移動し、玄関を開いて中へ。すると先に帰っていた妹が、パタパタと足尾を差せ出迎えてくれるのであった。
「――さん来たんだ、今日はどしたの?」
出迎えてくれた妹は、俺の後ろに居た後輩へと笑顔を向ける。
ただ妹は風呂上りらしく、下着と上のシャツだけという、ほぼ半裸と言ってしまえる格好。
俺などは今更なので別に動じはしないが、後輩はその姿に少しだけ狼狽する。
いくら親しくなったとはいえ、流石にこのダラしなさには面食らったらしい。
「理由は後で話してやる。いいからお前は着替えてこい」
ともあれ客が来たのだ、いつまでもそんな格好で居させるわけにはいくまい。
俺は妹の頭を指先で小突くと、ひとまず台所へ移動し、重い重い荷物を置いた。
そこから一旦自室に戻ると、タオルで汗だけ拭いて着替え再び台所へ。
すると台所では、部屋着に着替えていた妹と上着を脱いだ後輩が、揃ってクーラーボックスの中を覗きこんでいた。
中身を眺めつつなにやらやり取りをしている様からして、こうなった経緯を説明してくれているようだ。
「で、これをどうするの?」
「今から決めるところだ。お前はもう夕飯を食ったのか?」
俺が戻って来たのを察したか、振り返る妹は早速メニューを問うてくる。
とはいえまだ冷蔵庫の中身すら確認していないし、おそらく妹も食べようとするだろう。
そこで俺は内容を決める前に、妹が既に食事を済ませたのかを確認する。
すると軽く肩を竦め、首を横に振った。
どうやら帰宅してここまで、食事すら摂らず延々とゲームに興じていたようだ。
「なら酒の肴じゃなく食事だな。さてどうしたもんだか……」
時刻は既に22時。だが俺と後輩は、なんだかんだで夕食を摂れていない。
3人揃ってまだとなれば、酒の肴になるような物よりは、ある程度ちゃんとした食事にした方がいいだろう。
いつもはやたら食事に貪欲なくせに、こういった時ばかりは適当な妹に呆れながら、冷蔵庫を開いて中身を確認する。
我が家で鯖を使うとなれば、定番は煮付けだろうか。
少し濃いめに作ったタレの中で煮たそれは、ただひたすらに飯が進む一品。
もしくは少しばかり前に、妹に夜食として作ってやった混ぜご飯。
ただ混ぜご飯に必須な葉物の漬物は今切らしているし、米を炊いていない上に今は冷凍ごはんもストックが無い。
それに遅い時間の食事だ、出来れば軽めに済ませたいところ。
俺はこの条件をどうやって見たそうかと首を捻るのだが、ふと視界の端へ映るある物に気付く。
「アレはどうしたんだ?」
「帰りがけにちょっとね。明日の朝にでも食べようかなって」
視線を向けた先に在るのは、紙袋に入れられた細長い物体。
普段はあまり家に置いてあるような代物ではないが、どうやら珍しく妹が気まぐれを起して買ってきたらしきそれを注視する。
「もしかして先輩、鯖とバゲットを……?」
その物体、バゲットと鯖を交互に見る後輩。
彼女はおそるおそる、これらを組み合わせ何がしかをしようというのではと、確認するように問うてきた。
彼女の頭の中で、いったいどういった想像が渦巻いているのかはわからない。
けれどどこか不審そうというか、不安感が滲み出ているようで、とんでもない物を食べさせられるのではと恐れているようにすら見える。
ただ逆に妹の方はポンと手を叩くと、軽く頷きながら記憶の中にあったモノを口にする。
「そっか、前にやったのを作るんでしょ。鯖とトマトを煮たヤツ」
妹の言うように、以前そういった物を作ったことがある。
あの時は鯖缶を使ったはずで、確か酸味と甘みを加えシチリア風だかに仕立てたはずだ。
確かにバゲットであれば、問題なくあの料理に合ってくれるとは思うが、少し作った物をまたというのも面白くはない。
折角良い魚が手に入ったのだから、そこを活かしたいというのが正直なところ。
「いや、今回は別の料理だ。見たところ綺麗に血抜きもされているし、まだそれなりに新鮮のようだから、出来ればシンプルに食いたい」
「じゃあどうするのよ。いっそ刺身でもパンに乗っけるの?」
「流石にそいつはおかしいだろ。っていうかこの辺りで獲れた鯖を生でってのは……。だから塩焼きにする」
俺はクーラーボックスから鯖を取り出すとまな板に置き、とりあえず三枚におろしていく。
そこから骨抜きを使って中骨を除き、気持ちほど強めに塩を振ると、魚焼きグリルへ放り込んだ。
怪訝そうにする妹と後輩を余所に、俺は次いで取り出した玉ねぎをスライスし、数枚のレタスと一緒に水へさらす。
バゲットは鯖の半身と同じ程度な長さに切り、トースターへ。
「先輩、もしかしてサバサンドですか?」
「ああ。前々から気にはなっていてな、丁度良いからこの機会にと」
後ろから覗き込む後輩。彼女は少しばかり俺のする作業を眺めると、思い出したようにその名を呟く。
彼女の言う通り、今作ろうとしているのは、鯖を使ったバゲットサンド。
一見すると馴染みのない組み合わせではあるが、どうやらイスタンブールあたりでは名物料理の一つであるらしい。それにここ最近は置く店も増えてきた。
作り方そのものは以前に調べたので知っているが、実のところ食べたところが無いので、どんな感じに仕上がるのかは未知数。
ただ焼き上がった鯖を取り出してみれば、少々旬からは外れつつあるというのに、なかなかよく脂が乗っている。
持ち上げただけでしたたり落ちる脂は見るからに美味そうで、このまま大根おろしでも添えれば、さぞ優秀なご飯のお供となってくれるはず。
「これだけでご飯が3杯は食べられそうなんだけど」
「お前はちょっと自重しろ。ていうか皿を出してこい」
妹はやはり同じことを考えたらしく、まるでよだれでも垂らしていそうな表情で、焼けた鯖を眺める。
気持ちとしては理解できるが、ここは我慢だ。俺は取り出した人数分の鯖を、切りこみを入れレタスを挟んだバゲットの間へ。
そこにさらした玉ねぎと刻んだ少量のパセリを乗せる。さらにオリーブオイルとレモン汁などを主に作ったソースをかけてから挟んだ。
そいつを皿に盛ると、妹に行ってスープカップも用意をさせる。
鯖サンドを作る傍ら、ついでに作っていたトマトスープを注ぎ、それらをテーブルへ。
「かなり軽めの内容で悪いが、食っていってくれ」
俺は椅子へ後輩を座らせると、彼女の前に皿を置く。
その彼女は丁寧に手を合わせ「いただきます」と言い、一方で妹は「いっただきー」と軽く言い放ち手を伸ばす。
これが育ちの差だろうかと肩を落としそうになる。
ただ彼女らが手にしたソレに齧り付き、しばし無言で咀嚼をした後、途端に表情を花開かせたのを見てホッとする。
「なんていうか、想像してたのとかなり違う。意外に和風っていうか……」
「鯖そのものはただ塩をして焼いただけだから、和風もなにもないだろうがな。ちょっとソースに一手間を」
塩とオリーブオイルにレモン汁。この組み合わせで、和風とは普通思うまい。
ただ今回は鯖にかけたソースの中へ、ちょっとばかりおろしショウガと醤油を加えてやったのだ。
俺もまた席に着き、手で掴んで一口。
まず真っ先に感じるのは、噛みしめた時に溢れ出る鯖の脂。ただその強い脂分は、旨味であると同時に少々自己主張が強すぎる感は否めない。
そこで効いてくるのが混ぜ込んだ生姜。舌先に触れ鼻を抜ける香りが、存外心地よく主張してくる。
それにパセリの青みを感じる苦さも、脂と合わさってむしろ清涼感すら感じるほど。
生玉ねぎの辛みや、シャキシャキとしたレタスの歯触りも、ともすればしつこくなりがちな脂の乗った鯖には丁度良い。
これにトマトでも挟めばもっと良かろうが、今回はスープに使ったため除外。
そのトマトスープをすすると、パンによって奪われた水分を補いつつ、温かさとほのかな酸味が脂を押し流してくれる。
「二人共、何か呑む?」
「……じゃあビール。1本で十分だぞ」
「あたしはお茶を。明日も早いですし」
早々にスープを片付けた妹は、意気揚々冷蔵庫へ。
なんで先にあちらだけ飲み干したのかと思えば、酒を欲してせいであったようだ。
俺はビール、妹は白ワイン。そして後輩は温かいルイボスティーを手にする。
酒を断って茶を飲むあたり、実に真面目な娘さんで好感が持てる。
そこで俺は妹に対し、「お前も見習えよ」と、自身も酒を呑もうとしていることを他所において呟いた。
すると意外にもダメージを食らったらしく、視線を泳がせる我が駄妹。
ただいつまでもその話をされては叶わぬと、コイツは後輩の前ではあまり触れられたくはない、例の小説に関する話題を振りやがった。
いまだ作者が俺であることを知らない彼女だが、妹と共にここ最近の展開についてを話す。
傍で聞いていると、なかなかに刺さる評価を下してくるのだが、言っている事そのものは否定の出来ぬ内容で、俺はビールを呑みながら大人しく彼女らの会話を聞き続ける。
「――さん、いっそのこと書いてみたら?」
しかし話が進むにつれ、妹はふと妙なことを思い立ったようだ。
ズイとテーブルの上に身を乗り出すと、後輩に対し自身も小説を書いてみてはと提案をした。
「あたしが、ですか?」
「これだけ具体的に問題点が指摘できるんだから、書いても良い線いくと思うんだよね」
妹は後輩へと、執筆をする側に乗り出してみてはと告げる。
だがその最中、ニヤリと一瞬だけ俺に視線を向けた。
その目は面白い余興を見つけたと言わんばかり。おそらくコイツは、俺と後輩を競わせて傍から見物してやろうという魂胆に違いない。
なんと性格の悪い。
「と言われましても……」
しかし彼女は視線を泳がせ、妹の提案に対し消極的だ。
確かに彼女の批評は、書いている俺からしてもなかなかに的を射ているとは思う。
ただ評価をするのと実際に書くのでは別種の難しさがあるため、二の足を踏むというのも理解は出来る。
それに加え、現実の知り合いに読まれる前提では、書くハードルもかなり高いはず。
けれど妹の意見に乗っかる訳ではないが、俺個人としての希望を言うなら、彼女が書く話というのも少々読んでみたいところ。
会社では彼女の作成した書類を見る機会が多々あるのだが、言葉の選び方というか文章の組み立て方というか、妙に綺麗であると思えてならない。
そんな彼女が、物語を創ったらどうなるのだろう。
俺はそんな好奇心や願望を少しばかり覗かせ、妹と組んで勧めてみることにした。
「いいんじゃないか。なにも読者にウケる話を書けって言ってるでもないし、自分が好きな内容にすればいいんだよ」
「で、ですけど」
「誰だって一度くらい、自分の好きな世界を空想することはあるだろう? そいつを目に見える形にする気持ち良さってのはあるよ。……たぶんね」
小説を書くというのは、インドア趣味の人間にとってなかなか悪くない選択肢であると思う。
なにせほとんど金がかからない。低性能の安価なPCが1台あれば、あとはほぼ電気代だけで続けられるのだから。もちろん資料集めなどをすればきりがないけれど。
それに単純に愛好者が増えてくれれば嬉しいし、なにより彼女に対し告げた、形にしていく気分の良さというのは実際に感じているところ。
卑怯にも俺が書いているというのは隠したままではあるが、後輩に対してそれを勧めてみと、存外彼女も嫌では無さそうな表情に。
けれど自身が行う対価としてであろうか、彼女は一つの問いを向けてきた。
「も、もし完成したら。先輩は……、読んでくれますか?」
「もちろん。楽しみにさせてもらうよ」
「なら書きます! 少し、時間はかかると思いますけど」
どうやらその気になってきたらしく、身を乗り出して力み頷く後輩。
案外逆に彼女の場合、見てくれる人が居た方がやる気が出てくるタイプなのかもしれない。となれば書いて投稿するその時まで、俺は楽しみに待ってやるだけだ。
もっとも後輩に勧めた以上、ちゃんと俺が書いている事も言わねばならないのだが……。
ともあれ俺はちょっとばかり先の楽しみが出来たことを喜びながら、サバサンドの最後の欠片を口に放り込む。
しかしその時に横の方を見てみれば、俺の方へと視線を向けてくる妹が、どこか不満気に口を"へ"の字にしているのに気付くのであった。




